蛇と桜と朱華色の恋

ささゆき細雪

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秘されし記憶に黄金の鍵 + 8 +

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「それでこそ、妾が選んだ表緋寒じゃ」

 至高神は満足そうに頷き、高らかに神謡を謳いはじめる。
 抑揚ある声が室中に響き渡り、硝子が共鳴を助長する。音域をはるかに超えた神々の集う謡に、里桜は両耳を塞いで群がる黄金色のひかりに困惑する。あれは、羊の群れ……?

「里桜よ。大樹の莫迦は恋に狂って自らちからを投げ捨てた。おぬしは、どうなるかの……」

 淋しそうな声音とともに、至高神が遠ざかっていく。侍女見習いの少女のなかにいた、神々しい気配が、天へと昇っていく。
 至高神の神謡がおわったとき、里桜の姿は、花緑青の瞳と淡紅藤の髪に……逆さ斎としての姿に、戻っていた。


   * * *


 パァン、という破裂音が身体の内部から生じた。
 猛烈な吐き気から口を開くと、ごぽり、と湧き出た泉のように血の塊が外へと流れ落ちていく。真っ赤な池が衣を染めていく。その姿を見て、同朋は嗤う。

「呪詛が、破られたっ……!」

 里桜から逆さ斎のちからを奪おうと未晩が施した呪詛が、どうやら返されてしまったようだ。口から血を流しつづける未晩を見つめていた男は、つまらなそうに呟く。

「代理神の半神である表緋寒を痛めつけようとした天罰だよ」

 月の影のなりそこないの逆さ斎と、逆井一族に認められた表緋寒では神々からの信頼の差も歴然としている。未晩が裡に飼っていた闇鬼のちからを取り込み幽鬼となったことを、傍観者である至高神が見逃すわけがない。たとえ至高神が未晩を裏緋寒の番人に選んだとしても、優先順位を考えれば表緋寒の、竜糸の土地神に代わる存在に選ばれた少女のちからがそのまま土地へ還ってしまうのを退けるために動くのは仕方のないことである。

「とはいえ、ここで未晩に死なれても困るなぁ」

 彼の目的はあくまで裏緋寒を自分の手元へ取り戻すこと。そのためなら神々を滅ぼすことも厭わないと幽鬼である自分と契約を交わし、自らも幽鬼となった。呪詛を返されただけで死ぬことはないだろうが、このようすではしばらく使い物にはならないだろう。

「……だけど、彼女を求める気持ちはわからなくもないからな」

 里桜にかけられた呪詛を返したことは、単なる至高神の気まぐれにすぎないだろう。基本的に傍観に徹する天神は竜糸の集落が危機に瀕しても、眠りつづける息子を助け起こすようなことはしない。そのために代理神や、桜月夜の守人などと呼ばれる神職者がこの土地には存在するのだから。

「もはや、滅ぼしてまで、手に入れるしかないのか?」

 あのとき、涯という名で、彼女の故郷を滅ぼしてしまったように――……
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