カベ越シカイダン

片里 狛

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たれさがる

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「俺は今日定時を決める」
「……遅刻してきてその上進行遅れてんのに何言ってんだ」
 喫煙所という名前の狭い部屋の中で、つかの間の休憩を取りつつ煙を吐いた。
 遅刻常習犯の巻は、今日も相変わらずの重役出勤でリーダーに睨まれていた。
 仕事ができないわけじゃないし、作業も早いし頭も良い割に、どうも元の性格がちゃらんぽらんらしく、やたらと時間にルーズなのがもったいない男だ。
 もうちょっとしゃっきりしろよと言っても、いやこれが俺の本分だからさぁとへらへら笑われるだけなので、最近は誰も何も言わなくなった。まあ、お前がそれでいいなら何も言わないけど後で文句言うなよ、という感じだ。
 悪い奴じゃないのはわかってるんだけど、たまに癪に障る事もある。ただし本人に悪気がない。
 隣の席の同僚で、寺の息子の巻は、そんな感じの男だった。
「うち今日行事入ってんだよーなんだったら仕事休めって迫られてて、ここ一週間ガチ家族会議ナウなの。休めるかっつーの跡取りはにーちゃんなんだから知るかっつーの。っていう一般常識は基本的にお父上含む親族には伝わらないので定時で走るのデス」
「相変わらず庶民には理解できない生活してんな寺……。あーじゃあ今日巻さんお暇じゃないんすね」
「お暇じゃないね。いやてーか桑名っちが俺に用事とかめずらしーじゃないの。何かあっ……あー、昨日の電話のアレソレ?」
「うーん。今のところお前くらいしか巻き込める奴いないんだよなーと思って」
「巻き込むこと前提か!」
「ちょっと洒落にならんかもって今朝体感したもので」
 結局昨日は部屋からの脱出を諦めて、そのまま寝た。
 例の壁を叩く音は、日付をまたぐ頃にはいつの間にか消えていた。テレビ番組も夜が更けるにつれてまったりとしたものばかりになっていたので、巻に無理やり貸されたまま見ていなかったロックバンドのライブDVDを流していた。
 音はしなくなったが、ずっと手と握ったままの木ノ下くんに部屋に帰れというのは、どう考えても酷だった。
 仕方なく、というよりは可哀そうすぎて、徹夜しそうな精神状態の青年をベッドに引きずり込んで、一緒に寝た。会って数時間の隣人と何してんだと思わなくもないが、正直俺も怖かった。
 寝たような寝なかったような、微妙な睡眠を取って目覚め、着替えてドアスコープ覗いてそこに誰も居ないことを確認してから、木ノ下くんの部屋に向かった。
 何はともあれ、携帯と財布と靴は必要だという話になった。最悪金さえあればなんとかなるが、その身一つで逃げだしてきた彼にはそれすらない。
 俺の会社は一般的な企業よりは比較的始業時間が遅めだったし、ひとりじゃ流石に心配だったので、手を握ることはしなかったが、部屋突入は同行した。太陽の光を浴びて、若干気力も回復していた。
 人間というものは面白いもので、あんなに恐ろしかった記憶も一晩明けてしまうと『もしかしたら勘違いか幻覚だったんじゃないか』とか思ってくる。流石に今回は二人で経験しているし、気の所為という線はなかったが、それでも、あんなに怖がることでもなかったんじゃないかな、とか思う。
 そのノリで、とりあえず木ノ下くんをベランダから隣の部屋に送り込んだ。
 よく考えたら鍵も無い。大家さんにわざわざ開けてもらうのも躊躇われ、木ノ下くんがベランダから入って表のドアを開いて出てくる、というとてもシンプルな作戦を決行した。
 ……のだが。
 表の玄関前で待っていると、恐ろしいスピードで部屋を駆け抜ける音がして、そのまま勢いよく開いたドアから飛び出した青年に思いきり抱きつかれ、朝から妙な抱擁をしてしまった。
 え? と思うより先に、嗅覚が異変を感じた。
 部屋の中から変な臭いがする。何かが腐ったような。……汗と、泥が混じって尚且つ醗酵させたような、なんとも言い難い不快な臭いだ。
 どう好意的に解釈しても、生き物が腐っている臭いとしか思えない。でも、きっとそんな有り触れたものが原因ではないのだろう。昨日は何もなかったのに、いきなりこんな腐った臭いが充満する筈がない。どう考えてもおかしい。気持ち悪い。
 背中を何度かぽんぽん叩いて、大丈夫? と訊くと、か細い声で『もうだめ』と言われた。昨日からキミ、そればっかりじゃないかと、こんな時だが少し微笑ましくなってしまった。
 震える青年が震える指で部屋の中を指さし、ベッドの上が、髪の毛で、と言った。
 ……それは確かに震える。俺もとても見たくない。
 けれど木ノ下くんは結局財布も携帯も取ってくる余裕なかったらしいし、仕方ないのでちょっと待っててと引きはがして、俺が取りに入ることにした。
 部屋に入ると、どうにも妙に生ぬるい。その上臭いも相当きつくて、吐き気がしてきた。
 不快な臭いを思いつくかぎり全部集めて焚いたような、蒸れた空気と異臭だ。
 それだけでもかなり辛いのに、床が微妙に滑る。
 濡れているわけでもないのに、と視線を落とすと、アホみたいに長い髪の毛がところどころに散らばっている。出来るだけ踏まないように気をつけようにも、どうにもまんべんなく落ちているから無理だ。これは踏むしかない。
 キッチンからさらに妙な臭いがしていたけれど敢えて確かめなかった。バスルームの扉も見ないふりをした。なんか、こう、べっとり黒いものが張り付いていたような気がしないでもないが、今は確認する体力も気力もない。
 とりあえず携帯と財布は机の上にある、ということなのでそれだけ、どうにか、と。部屋に入ったのだが。
「……うわぁ」
 これは、まあ、泣くなぁという惨状が広がっていて、机の上の目的のモノを掴んで俺も走って逃げだしてしまった。
 ……という一連の話をかいつまんで同僚の巻にしたところ、妙に納得したように、なぜか俺の頭の上の方を見た。
「あー。それでか。なんか、おっかしいなーと思っていたんだけど」
「え、何が。ちょっと言えよ。そういう思わせぶりな霊感発言しないところが巻のイイトコロだと思ってたんですけど」
「いや俺じゃないよ。俺は相変わらずひょんなことでうっかり見えちゃう、微妙霊感のままですよ。なんかさっき給湯室でオンナノコちゃんがさー、今日桑名さん怖いって言っててさ。あと霊感ビンビンでやばいとお噂の榎並譲が先ほど吐いて早退なされたので、それももしかして桑名の引きずってるもんのせいじゃないのって思うわけで」
「いや流石に他人の体調不良の理由にされるのはちょっと、どうかと。本当なら申し訳ないけど。……で、なんでおまえは俺の頭の上を眺めてるの」
「いや、だって、髪の毛垂れ下がってるから」
「…………まじで」
 今朝見た部屋の中の惨状は、巻には話していない。
 だから巻は、中央のローテーブルや隅のベッドの上に散乱していたやたらと長い髪の毛の話も、なんかさわさわ頬を掠るものがあってそれが天井から垂れた数本の髪の毛だった話も、……知らないはずだった。
 うっかり黙ってしまう俺に対し、若干申し訳なさそうに巻は追い打ちをかける。
「ちらっと時々見えるだけだから、どんなのがアレソレとかそういうのとは違うんですけど。あのー、恐怖の共有していい?」
「すげー嫌だけど、それ昨日木ノ下くんにしちゃったし、まあ、いいよ、……どうぞ」
「これたぶんさ、あー……上に引っ張ってる感じすんだよね。この人たぶん、逆向きだわ。逆向きっていうか、逆さ? で、引っ張ろうとしてる感じ。なにこれ、こわい」
「…………怖いのは俺の方だよ」
 どうやら俺の上には逆さの女が居るらしい、という新しい情報が増えただけで、何の解決にもなっていない。全然役に立ってない。ひたすら恐怖が増しただけだ。
「あとさー」
「まだあんのかよ勘弁してくれよ」
「いやこれで最後っていうか、昨日の電話の話。ほら、コツコツうるっせーよって言ったじゃん? あの後さ、なんてーか、変な声聞こえたんだけど、その木ノ下くんって子、ひとりごととか言って無いよな?」
 勿論、そんな声は出していないし、俺たちも聞こえていない。
 あの時部屋は、バラエティ番組を流すテレビの音しかしていなかった筈だ。そんな薄気味の悪い声が、電話越しの巻に聞こえるはずがない。
「すげー訊きたくないけど一応訊く。なんて言ってたの」
「あー、なんだっけなー。るーぜ? ふーぜ? みたいな。ちっさーい声で、なんつーか、こう、口あけないで発音するみたいな低い声でー……ふ、う、ふぇ、みたいな」
「………………ゆうせ」
 木ノ下優世っていいます。
 そう言った木ノ下くんの自己紹介を思い出して、正直めまいがしそうなほど、一気に血が引いた。
 すぐに携帯取りだして、今朝登録したばっかりの木ノ下くんの番号にかけてみるも、繋がらない。出ないんじゃなくて、繋がらない。なぜか、うんともすんとも言わない。コール音がしない。
 天気予報にかけ直したら繋がったから、たぶん俺の携帯が壊れたわけじゃない筈だ。
「悪い、俺早退するかも。残り作業振るかも」
「え、え!? いやいやいやいや、おとうちゃんに殺されるんですけど! ですから今夜は我が寺の行事がですね!」
「寺の行事ほっといても死人はでないだろ、ちょっとまじ隣の青年死んじまったらどうすんだ。おまえが床正座させられるのと、イケメンの危機と、どっちが大切か考えろ」
「イケメンは人類の財産だけど何桑名ちゃん早退って、お迎え行っちゃうレベルで心配なの!? こんなこと言うのアレだけど、桑名はとばっちりなだけだし、部屋に帰らなきゃいい話だし、俺の家とか泊まればいいじゃん何もイケメンにそこまで献身的にならんでも……あ! そうか、ラブか痛てぇ! ちょ、いたいだめ、桑名のデコピンマジ痛い!」
「……だって可哀そうなんだよ。お前も震えるイケメンに必死に縋られてみろよ。お金出しちゃうマダムの気持ちちょっとわかるから。いや、そういうんじゃないんだけどさ」
「あいやーみんなのアイドル桑名さんがそこまで入れこんじゃうイケメンすごい……」
 デコをさすりながら感心したように言われ、アイドルってなんだと呆れた。
 まあ確かに、そこまで俺が心配したってしゃーないだろうし、むしろ干渉しすぎるのも迷惑という可能性……まで考えて、いやそれはないなと思った。
 あんな、朝っぱらから玄関先で思いっきり抱きついてくるような精神弱者が、差しのべられた手に対して申し訳ないと思うことはあるにしろ、うざいとは考えないだろう。
 実際やりすぎかなと思いながら渡した携帯番号のメモも、三回くらいお礼を言われた。怖かったんだろうなと思うし、俺も怖かったし、なんだったら別に解決してないから現在進行形で怖い。
 もう一度電話にトライしながら午後の作業どこ削ろうか考えていると、ふわりと頬を何かが掠った。何か、細い糸のような。クモの巣よりはもう少し硬いような。
 ……絶対に今日は上を見ない。そう決めた。


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