触れる病と吐く病

片里 狛

文字の大きさ
4 / 16

◆04

しおりを挟む
 珍しく定時に仕事を片付けて、タイムカードを押したところで携帯が鳴った。
 最近は木ノ瀬クリニックの予約か、それとも父親の定期連絡くらいでしか鳴らない壱の携帯だったが、画面に表示される名前を見て慌てて通話ボタンを押す。
 挨拶は済ませていたので、電話を片手にそのまま部署を出た。
「はい。……ええと、どうしたの」
『あはは! お兄ちゃんって電話出る時いっつも挙動不審だよねぇ。「はい」だって、かわいいーの。ごめんね、仕事終わってた?』
「今丁度終わったところで、まだ会社だよ。……仕方ないだろ。電話、苦手なんだし」
『知ってるー。いつまでたっても初々しいお兄ちゃんで仁奈は嬉しいよー』
 からからと笑う声が電話越しに気持ち良く、自然と表情がほぐれた。
 普段は動かすこともないような生活を送っている壱の表情筋は、まだ、どうにか笑えるらしい。微々たる変化であったし、少々伸びすぎた前髪のせいで、すれ違う同僚達は壱の変化に気が付く事もない。
 いつものように階段を駆け下り、エントランスに向かいながら、電話の用件を訊いた。
 あまりマメな方では無い壱は、自分から誰かに連絡を取ることがまずない。その血を分けあった妹の仁奈も、友人は多い割に連絡無精だ。
 まさか親父に何かあったのだろうか、というところまで思考は飛躍し、思わず足を止めてしまったが電話口の仁奈の声はからりと明るい。
『あのねー秋の式の日取り。お兄ちゃんにも確認して希望きいとこうかなって思って。一応祝日の月曜日が狙い目かなーって思ってるんだけど、向こうの親族さんは結構いつでもいいって話だし。ほらうち、お兄ちゃんとお父さんがメインじゃない』
 どうやら、大した内容の電話ではなかったらしい。
 それがわかるとほっと胸をなでおろし、また歩みを再開させる。
「あー……俺は、別にいつだって平気だし、いつだって絶対あけるから平気だけど。書類さえ出せば休めるからさ。日曜じゃなくていいんだ?」
『うーん、地元で式あげるし、秋の日曜は倍率高くてさ。無理して予定詰めてぎゅうぎゅうな式にしたくないし。じゃあお兄ちゃんはいつでもオッケーってことで、お父さんに確認してまた連絡するね。女の子いっぱい呼ぶから、張り切って来てね!』
「そういうプレッシャーやめろよ……」
 仁奈の言葉に思わず苦笑いを零してしまう。だが心情としては、笑い事ではなかった。
 高校を卒業してすぐに家を出た。そこから、壱の症状は悪化したが、学生時代はまだ吐く程の症状はなく、どうにか妹には隠し通せていた。せいぜい、一人が好きで騒がしいところが嫌いな兄、という認識しかないだろうと思う。電車に乗れないのは酷く酔うせいだということにしてある。
 流石に父親には打ち明けているが、妹に知らせるつもりはない。他人に触ると吐くなどという症状を伝えたところで、ただ心配をかけるだけだ。壱がまだ子供なら皆で助け合うことが必要だろうが、れっきとした成人男性だ。今も、どうにか一人で生きていけている。
 お兄ちゃんは恋人作らないの? と、何度か訊かれた事もある。
 正直、恋人というものにまで意識が行かないので、どう答えたらいいかわからないというのが本心だが、とりあえず仕事が忙しいという月並みの言い訳で誤魔化してきた。
 恋人が欲しいのかどうかなどわからない。親しい友人さえ居ないし、女性と喋ることも稀だ。
 外見を見て美人だなと思う事はある。それでも、触りたくないという気持ちが強い。対人関係のスタートラインにも立てない自分には、恋など未知の領域だった。
 妹的には兄にも早く結婚して欲しいと思っていることだろう。
 恋人との式を控えた彼女は、おそらく幸せな時間を過ごしている。それを、兄にもと求めてくるのは、嬉しくもあり申し訳無くもある。
 きっと自分は恋人などできない。いつか体質が改善される時があったとしても、壱の性格では恋など無縁の人生になりそうだと思った。
 また連絡するねという明るい声の通話を切り、会社のドアを押しあける。
 週初めは雨が酷かったというのに、今日は春を思い出したかのような青天だった。流石に日も暮れかけているが、暖かい空気が春の陽気を残している。
 この時間なら近所の総菜屋にまだ間に合う。
 あまり料理が得意ではないが、外食は極力行きたくない壱は商店街の総菜屋を贔屓にしていたが、如何せん店じまいが早い。夜七時閉店も、近所の主婦の夕飯がターゲットでは仕方がないのかもしれない。
 走る程ではないけれど、心なしか速足で帰路を急ぐ壱の後ろから声がかかったのは、一つ目の信号で立ち止まった時だった。
 いちさん、と呼ばれ。
 思わず振り返り、息を切らせて自分を追ってくる蛍光色の男を確かめ、それが誰かわかると、気がつかなかった振りをしてそのまま走り去ってしまえばよかった、と後悔した。
 ピンク色が黄緑色を羽織っているような奇抜な色合いの男は、壱の目の前まで迫ると両手をあげてお仕事お疲れ様ですと笑う。
 そのふわふわしたピンクに近い髪の毛と、バランスの良い長身には覚えがあった。先日木ノ瀬に言われ、頭の中で自分の隣に立たせてみた唯川だった。
「唯川さん?」
 うっかり名前を呼んでしまうと、唯川の派手な顔に笑みが広がる。
 へらへらとしている、と思っていた男だが、しっかりと見据えると、へらへらというよりきらきらの方が勝る。きっちり上がった口角が、きっと唯川の魅力なのだろう。
 今更何の用なのだろう。
 確かに先日、自分は彼の好意を無駄にしてしまうような反応をしたが、きちんと木ノ瀬が説明したならば恨まれるようなこともない……とは思っていたが、やはり気に障ったのだろうか。
 今度あった時にでも、とりあえず自分からも謝っておこうとは思っていたが、まさか会社帰りに道端で会うことがあるとは思わず、壱はどうしていいかわらかず固まってしまう。
 唯川がまくしたてる言葉もあまり耳に入らず、ひたすら呆然としていたが、どうにか最後の言葉だけはききとることができた。
「だからちょっとだけおれに謝るだけの時間くれませんか?」
「…………は?」
 耳には入ったが何を言っているのかわからない。
 頭の整理がうまくできず、思わず首を傾げてしまった壱に対し、目の前の男は少し目を見張ってから驚く程奇麗に笑った。
 落ちつこう。落ちついて、とりあえず話をきこう。そう思ったのはここで逃げてもどうせまたあのサロンで唯川に会う事になる、ということに思い至った為だ。
 急いでいると言ってかわすのは簡単だ。けれど、一度距離を取ってしまうと次からは恐らく顔を合わせるのも気まずくなる。秋までに、自分はどうにか体質を改善したい。先程の仁奈の明るい声を思い出し、どうにか壱は覚悟を決めた。
 ゆっくりと息を吸って、満たして吐く。
 どうにか頭の中が落ちついた頃合いで、とりあえず道端は人通りもあり体質的に不安があるのでこの場は避けたいこと。だからと言ってコーヒーショップなど混雑しているチェーン店はより一層避けたいことを告げると、じゃあと笑った唯川は壱を先導しマンション前の公園にたどり着いた。
 喫茶店などに入られたら逃げようがない、と警戒していた壱にとってはありがたい。
 もう暗くなり始めているが、上着を着ていれば寒いと思うこともない気温だ。
 公園と言っても小さな滑り台と動物の形をした乗り物とベンチが置いてあるだけだ。あとは派手な色を塗られたタイヤがぽつぽつと埋められている。ベンチに隣に腰掛けるのもどうか、と思っていた壱だが、唯川がパンダの上に座ったので、少し離れたタイヤの上に落ちつく。
 ゴムの弾力は懐かしく、座るには少し低い。
「さすがにこの時間は子供もお母さんも居ないですねぇ。あ、壱さん今日はお仕事上がりに無理やり拉致ってしまって、すいません。ていうかもう、あのー。全体的にすいません。……お身体は平気ですか?」
 ああもう惣菜屋は閉まった時間だと公園の時計を見上げていた壱だが、最初に謝られてしまうと怒る気も失せてしまう。
 もっと、自分の事ばかり喋るような男だと思っていた為、つい壱は面食らい、正直に平気ですと返事を返してしまった。
「久しぶりに、あそこまで盛大に吐きましたけど……多分、相手の体温高いと、より一層あー、そのー……無理っていうか。そういう感じになるんで、久しぶりと体温のコンボで、……すいません、俺の方こそ初対面で失礼な事をしました」
「いやおれは別に平気っていうかなんというか、ちゃんと説明してもらいましたし。正直あの時は何が起こってるのかまったくわからなくて、きちんと謝罪できなかったのが心残りでした。本当に申し訳ありませんでした」
 姿勢を正して、奇麗に礼をして謝る唯川の姿を不思議な気分で見つめ、壱は返す言葉を探していた。
 接客業のたまものか、唯川の謝罪はとても礼儀正しい。服は蛍光色の私服だし、挙句小さな公園のパンダの上ではあったが、唯川が心から謝罪していることは伝わって来た。
 へらへらきらきらしている、と感じていた顔も、今は真剣だ。
 笑顔が消えると、少し男前になって、怖い雰囲気がある。目鼻立ちがはっきりしすぎていて、迫力があるのかもしれない。
 その迫力に押されるように壱は目を逸らす。俯いた先に見えるのは、ドット柄が派手なハイカットのスニーカーだ。
「きっちり、反省しています。今後、壱さんの身体に相談、または許可なく触れたりはしません。なので、お願いがあるんですけど――……壱さんの担当の美容師、おれにしてもらってもいいですか?」
「…………え? 担当、……唯川さんに?」
「はい。もうなんか、おれ一回盛大に吐かれてるし、もうここまで来たらなんでも来いみたいな気分になっちゃってるんですよね! あ、木ノ瀬さんにご相談したんですけど、多分由梨音チーフでもおれでもどっちでもあんまり変わらないし、キミが協力してくれるならそれでもいいよって一応了解は得てます。ちょっと詳しめに事情も伺っているので、……事後承諾になっちゃって、壱さんには申し訳ないんですが」
「いやそれは……俺も、迷惑をかけているので……事情を話すのは、勿論、構わないんですが…………唯川さん、それでいいんですか」
「問題ないです。ていうかむしろ大歓迎です。利害の一致だと思うんですよね。壱さんはどうにかその症状押さえて髪の毛切りたい。おれは、壱さんの髪に触りたい!」
「髪……え?」
「あ、大丈夫ですおれ壱さんに恋したとか壱さんに触りたいとかそういうのじゃないんで。安心してください。おれ、髪の毛フェチ? みたいなやつなんです。それで、壱さんの奇麗な髪の毛にヒトメボレしました」
 にっこり笑って首を傾げるお所見上げたまま、今度こそ壱は言葉を失った。
「毎週土曜日、夜八時十分にお待ちしています。もし都合が悪い日は当日に連絡してもらってもいいです。まずは、軽く切ることが目標で。徐々に馴らしていく感じで、おれと一緒に人に触る練習しましょう!」
 ね? と奇麗な笑顔を向ける唯川に触れられることが出来たなら、殴っていたかもしれない。それほどその笑顔は魅力的でムカついたが、好意なのか興味なのか茶化しているのか真面目なのか、まったくわからなくて壱の口は開いたままだ。
 誰もが振りかえりそうな程派手で男前の美容師は、壱の髪の毛に一目ぼれをしたと笑う。
 何がどうしてこうなった。
 そう、思わずには居られない。
「壱さんお口開いてますよー」
「……口も、開きます、ちょっと。……頭がおかしくなりそうだ」
「あはは。まったくもって同感です。おれもアホなこと言ってるなって思いますよ。でも結構本気です。壱さんの髪の毛好きってのも本当なんですけど、でも、その吐いちゃうアレ、治してもらいたいなっていうのも本気です」
 妹さんの結婚式、何も考えずに参加してもらいたいじゃないですか。
 そう言う唯川の顔は真面目で、それを直視してしまった壱は、またスニーカーに視線を落とすこととなった。
(……なんだこいつ、なんか、……変、)
 へらへらしていて煩いだけの男だと思っていた唯川の二度目の印象は、多少強引で、けれど真面目で、そしてとにかく変な男だった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

ジャスミン茶は、君のかおり

霧瀬 渓
BL
アルファとオメガにランクのあるオメガバース世界。 大学2年の高位アルファ高遠裕二は、新入生の三ツ橋鷹也を助けた。 裕二の部活後輩となった鷹也は、新歓の数日後、放火でアパートを焼け出されてしまう。 困った鷹也に、裕二が条件付きで同居を申し出てくれた。 その条件は、恋人のフリをして虫除けになることだった。

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる

水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。 「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」 過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。 ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。 孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。

同居人の距離感がなんかおかしい

さくら優
BL
ひょんなことから会社の同期の家に居候することになった昂輝。でも待って!こいつなんか、距離感がおかしい!

悪役の僕 何故か愛される

いもち
BL
BLゲーム『恋と魔法と君と』に登場する悪役 セイン・ゴースティ 王子の魔力暴走によって火傷を負った直後に自身が悪役であったことを思い出す。 悪役にならないよう、攻略対象の王子や義弟に近寄らないようにしていたが、逆に構われてしまう。 そしてついにゲーム本編に突入してしまうが、主人公や他の攻略対象の様子もおかしくて… ファンタジーラブコメBL 不定期更新

処理中です...