触れる病と吐く病

片里 狛

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◇07

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「すごい。修学旅行みたい」
 そう笑い、そわそわと明らかに落ちつかない様子の唯川に対し、案外いつもどおりな壱は苦笑したようだった。
「随分少人数な修学旅行ですね……あーでも、今は、学校によっちゃ、三人部屋くらいのところあるんですかね。俺、参加してないんでよくわかんないんですけど」
「あー。ね? 壱さんはそんなとこに混じったらもう大変だもんね、そりゃそうか。なんだーじゃあ壱さんもバージンお泊り会なんじゃないの。いやおれバージンじゃないけど。ええと久しぶりだから、セカンドバージン?」
「……つっこみにくいネタ振るのやめてもらえませんか。追い出しますよ」
「え、やだやだ。うそ。今のちょっとした冗談だから許して壱さん。うかれぽんちきの戯言だから、ね? だからその素敵な髪、おれにドライヤーさせてほしいなぁ?」
「話繋がってないです。だからって何ですか絶対に嫌です」
 唯川に続いてシャワーを浴び、部屋着で帰って来た壱の濡れた髪に触りたくてたまらなかったが、勿論却下されることは目に見えていたので落ち込むことはない。けち、と茶化しながらも、逆に良いですよと言われていたら困ったかもしれないなぁと、ぼんやりと考えた。
 壱の部屋は、唯川が思っていたよりも乱雑としていた。
 ゴミが落ちていると言う事は無いが、ベッドの上には脱ぎっぱなしのシャツがぐしゃりと放り投げてあったし、CDや本類もあまりきっちりと並んではいない。床に物を置くのも平気なようで、男の一人暮らし感に溢れていて、少しだけイメージと違うと思った。
 潔癖症ではない、というのは本当らしい。
 勿論心の病など人それぞれであるが壱に関しては、人に触られたくない、という感情の原因は清潔感や不潔感が原因ではないようだ。
 床に直接敷いた蒲団の上で胡坐をかいたまま、ベッドの上の壱を見上げると、タオルドライをしながら首を傾げられる。ああ、その仕事をぜひ自分に任せてほしい、と唯川が妄想していることに気がついたらしく、怪訝な顔をするよりも呆れた表情をされた。
「俺は明日休みですけど、唯川さん日曜も仕事あるんでしょ? もう寝た方がいいんじゃないですか……」
「仕事っていっても日曜は遅番にしてもらってるからへーきなのですよー。おれは、土曜日に壱さんっていう特別なお客様が居るからねー」
「……すいません、いつも、遅くまで、あー……結局俺、吐いてるだけで、唯川さん、ほとんど無駄な時間ですよね、アレ」
 申し訳無さそうな声色に、慌てて唯川は顔の前でぶんぶんと手を振り否定をする。
「いやいや別に、そういう嫌味で言ったアレじゃないからー壱さん謝んないでよー別に気にして無いし。おれね、あんまりニンゲンに興味無いせいかもしれないけど、大して言動に気をつけようとか思わないのね? まあお客様にはきちんとおべっか使いますけど。だからおれが気にしてないって言ったら本当にそうだし。はいだから壱さん頭下げないのー。でも申し訳ないっていうなら髪の毛ドライヤーおれにー」
「イヤですってば。もう風呂入ったしこんな時間から吐きたくない」
「吐くって思うから吐くんじゃない? こう、ほらー、イメトレとかどうですかね。ちょっと良いなと思った女性とか。そういう人でもやっぱりさわられたら吐く?」
 唐突な話題をどう思ったかはわからない。
 しかし壱は髪の毛を拭く手を止め、目を細めて眉を寄せた。
「考えたことはありますけど、たぶん、吐きますね。だから人さまと付き合ったこととか無いです。好きとかいう以前に、気持ち悪くて近寄れない」
「おう。知ってたけど、ほんと、結構重症っていうか。……むしろきちんと社会人やってるの、滅茶苦茶偉いよね、壱さん」
「……偉い、ですかね。みっともないし。女性に近づけもしないし。駄目なことばかりの人生だと、思うんですけど」
「え、だってえらいでしょう。きちんと自分の症状理解して、他人に迷惑かけないように、自衛して生きてるし、それでも愚痴とか言わないし、偉いっていうかすごい、かな。おれが何度触って壱さんが何度吐いても、結局翌週土曜日はちゃんと来てくれるじゃない。すごいよ。おれはさーすぐ飽きたり、すぐ言い訳してやっぱりやーめたーってなるタイプだから。そうやってちゃんと嫌なことに向き合えるの、すごいと思うなー。まあ、おれから見た勝手な意見だけどね?」
 言いながら、もしかして結構勝手な事を言っているのかもしれないと思い、そっと顔色をうかがってみたが壱は怒っている様子は無く、むしろ、驚いたように目を見張り、その後ゆっくりとタオルに顔を埋めた。
 もしかして、照れているのだろうか。
 そう思いあたると急に、唯川の指先もそわそわとしてくる。
 どうにも、落ち着かない。
 普段はぐったりと洗面台にへばりついている顔か、もしくは緊張で触る前から青くなっている固い表情しか目にしない。
 よく見れば耳が赤いような気がする。そういえば、あまりきちんと会話をしたこともないような気がする。すっかりお得意様のような気分になっていたが、所詮は客と店員の関係だったのかもしれない。
「えーと。壱さんもしかして結構照れ屋さん? 言葉攻め弱い系?」
「その言い方反応に困るんでやめてください……。あのー……俺、も、あんまり友達居ないんで。そういう、なんていうか、褒められたりとか、あんまりしないし。……あ、今の褒めてた、で、合ってます?」
「合ってます合ってます、ちょうほめてたじゃん。おれ、壱さん好きだもの。おべっかとか言わないです」
「髪の毛が、でしょう。……でも、あー……うれしい、です。そう言う風に言われると、なんだか不思議な気分ですけど、唯川さんの褒め方、さっぱりしてて気持ちが良いから、うっかりそのまま受け取って感動してしまいました。……ありがとうございます。また来週から、頑張れる気がする」
 そしてタオルで口元を少し隠したまま、壱は控えめにふわりと笑った。
少し困った様に、眉を下げて表情を和らげるその様子に、唯川は思わず呼吸を止めてしまった。
(…………わらった、)
 思い返すまでもなく、壱が唯川の前で笑ったことなど無かった。
 別に、それでもなんの問題もない、と思っていた。お客様にはなるべく快適に、心地よい気分でサロンを楽しんでほしいとは思うが、壱の場合は事情が別だった上に、唯川自身嫌われているだろうなぁという自覚があった。
 別に唯川は壱の事が嫌いではない。さりとて特別好かれたいと思う程でもない。そう思っていた、筈だったのに。
 はにかんだような笑い方がひどく可愛らしい、と思ってしまい、唯川の指先に生まれたささやかなそわそわ感が、一気に脳みその中までぶわりと浸食した、気がした。
 皮膚がかゆい。とてもかゆい。どうしてかはわからない。そわそわする。
 急に口を噤んだ唯川を不審に思ったのか、壱が濡れた髪を揺らしてこくん、と首を傾げる仕草をする。
 その瞬間今度は心臓が一回り小さくなったように感じた。
「……唯川さん?」
「ん? あー、ええと、うん。寝よう。寝ましょう。電気を消そう。そうしよう。そんで寝ましょう。壱さんはさくっと髪の毛乾かして、そんでさくっと寝よう」
「え、あ、はい、まあ、元よりそのつもりですけど……じゃあ電気先に消しますね」
 おやすみなさい、と声をかけられて、そそくさと冷たい蒲団の中に潜る。
 薄暗い読書灯の中で、ドライヤーの耳慣れた音と空気が暖かく動くのを感じた。髪の毛が渇く時の、水っぽい匂いが好きだ。ドライヤーの暖かさも好きだし、さらりと零れる洗いたての髪も勿論好きだ。できれば触らずとも観ていたいところだが、何故か唯川は今日、それができなかった。
 じっと見ていたら、そわそわとしたこのかゆみが、どうなってしまうのかわからない。
 そのうちドライヤーの音も消え、うっすらとした明りも消えた。真っ暗闇の中、不自然な静寂が訪れる。
 自分一人ではない夜の闇は、少しやはり、そわそわとする。それは先程の壱の顔を見た時の感覚とは少し違っていて、小学生の頃友人の家に泊りに行った時に、ずっと気になって寝れなかった時のようなこそばゆい他人の存在感だった。
「……壱さんさー、なんで、ニンゲンに触るの駄目なの?」
 静寂を破ったのは、唯川の方だった。自分からさっさと寝ようと言っておいて何だが、暗い部屋でお互いに横になりながらする会話は、思っていたよりも楽しい。
 ただ、電気を消しただけなのに、どうしても囁き声になってしまう。
 声が乗るくらいのギリギリの音を出すのは難しくて、ほんの少しだけ語尾が掠れてしまった。
「別に潔癖症じゃないし。奇麗じゃないと死んじゃうって感じでもないし。……体温駄目って言ってたっけ? あれ、どうしてなのかなーって。ちょっと思っちゃうんだけど。あ、ていうかこれ、ちょっとぶしつけ?」
「……別に、いつもご迷惑ばっかりかけてるので、不躾だとは思いませんけど。俺の人間恐怖症の理由、結構、どうしようもないし、あんまり気持ちのいいものじゃないんですけど……」
「喋ってくれるなら、ききたいなー。眠くなるまでちょっと喋ろうよ。口から吐くのはさ、胃の中のものだけじゃないし。言葉とか感情とか、そういうの。たまには吐いたらいいじゃない」
 ごそごそと寝がえりをうつ音が聞こえる。
 向こうを向いていた壱が、こちらの方に向き直ったのだろうと思った。唯川はあえて真っ暗な天井を眺めたままで、声だけで少しだけ微笑んだ。
「普段壱さんのゲロなんか見慣れてるおれですからね。言葉の反吐くらい余裕ですよー」
「……なんか、その言い方ちょっとどうかなって思うんですけど、まったくその通りで反論できないのが結構悔しくてイヤです」
「で。壱さんが人様の体温苦手なのはなーんで?」
「………………どうしてこうなったのかはさっぱりわからないんですけど。これがきっかけかなっていうのは、時期的にあって」
「うん」
「――中学の時、妹を好きになりました。多分、そっから、全部、おかしくなりました」
 思いのほかさらりと壱が口にした言葉は、唯川が思っていたよりも数倍の威力で、唯川の感情を揺さぶるものだった。

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