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第 一 章 揺るがない強運

第 一 話 残酷通知

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「ええ?ええぇ???いやぁああああああああぁぁあぁぁああぁああああ、うそよぉおぉおおおぉーーーーーーっ」
 受け止めた現実が嘘である事を願う様な、叫び声が居間の中で反響し、その惨声はその部屋を逃げ出し、廊下まで、二階にまで走っていた。
 八神皇女は血の気の引いた顔を両手で押さえ、床へ崩れてしまった。
「いったい、どうしたというんです。母様」
 二階の自室にて、次に予定している手術のお浚いをしていた八神佐京は、母親の悲鳴を耳にすると書物を閉じ、飛んで、皇女の所へ駆けつけ、その様な言葉をかけていた。
 居間に流れ続けていた大型プラズマTVに映る速報が淡々と何度も繰り返されていた。そして、佐京は知る。なぜ、いつも笑顔を絶やさない、母親が泣き出していたのかを。
 佐京の目が速報を食い入るように眺め続ける。
 右手で、その凛々しい表情を覆うと、伴にだらりと下がった左腕の拳が、強く握り締められていた。
 手で覆われた顔の隙間から、一筋の雫が、佐京の頬を伝う。
「なぜだっ、シン。どうして、お前まで・・・」
 2010年9月30日、日本時間20時22分、海外出張のため八神慎治が搭乗していた、新政イラク行きの大型旅客機がインド洋中腹で、原因不明の墜落に遭遇した。
 生存者は不明。
 ただ、報道では万に一つ、助からないであろうとの事だった。
 絶望的な状況だと。
 幸い、今この場に末っ子の右京は居ない。
 しばらく、時が止まったままの皇女と佐京を覚まさせる様に、電話の呼び出し音が、廊下から、流れてきた。
「ふぅ・・・」と気の抜けた小さな、溜息を吐くと、皇女は、
「さっちゃん、私が出るから、いいわ。さっちゃん、貴女は、携帯電話で情報を集めてください」
「はい、母さま・・・」
 佐京が携帯電話をスカートのポケットから取り出し、同時に、皇女は廊下に向かいだした。
 冷静を装うように、皇女は大きく深呼吸を一度だけして、受話器に手を伸ばす。
「はい、八神です。どなた様でございましょう?」
「わたしだ、泰聖だ・・・」
「たいちゃん・・・」
 彼女は相手が自分の旦那だとわかると、なぜ、今かけてきたのか、おおよそに理解できてしまった。
 彼も息子の訃報を知り、それを確認するために掛けて来たのだろうと彼女は思った。
「皇女、もう知っているだろうが、慎治の向かった先の飛行機が・・・墜落したそうだ」
「皇女も、先ほど、ニュースで拝見しましたわ」
「そんな、沈んだ声で言うな。大丈夫。あれは私と一緒で悪運のめっぽう強い男だ。なあぁ~~~に、心配せずとも、ひょっこり、映像の中に顔を見せてくれる。あれは・・・、・・・、あれは、お前の女家系で男子は生まれてこないとされていた、その運命を跳ね除けて生まれてきた私たちの大事な息子だ。私の大事な跡取りなのだ・・・、こんな事で・・・、居なくなるわけないだろう。いい訳がないだろう・・・、いいはずが・・・」
 皇女を励ますように旦那である泰聖はそう、妻に告げるが、彼自身、彼の声には覇気がなかった。
 八神家は特殊な家系で今まで、一切、男子が生まれて来ることはなかった。
 泰聖も皇女との婚姻前から、そのことを理解していた。だが、そんな夫婦間の二番目の子として、慎治は生を受けたのだった。
 泰聖の親は中規模の貿易会社を持ち、今、彼は修行の身で別の会社に勤務しているが、後々は親の後を継がねばならなかった。
 泰聖は、息子が生まれたその瞬間から、将来、慎治を自分の跡を任せようと心より歓喜したのだった。
 息子を手に入れた時の彼の喜びは、妻を娶った事を除けば正に、彼のこれまで人生の中で最高のものだったといえよう、だが、彼以上に喜びを感じていたのはむしろ、皇女の方だった。
 女系の八神家にとって息子の誕生は奇跡だったからだ。
 古い為来りを持つ家系にとって、有り得ぬ事が興るのは凶兆だとされ、忌むべき事だった。然れど、八神家にとっては別。
 故に、皇女にとって慎治を儲けた事は誰よりも随喜する出来事だったのだ。そして、今、その様な大事な息子を失った悲しみは深く、愁嘆の思いは計り知れない。
 どんなに取り繕っても泰聖達が直視してしまった現実をいまさら覆せるはずもなかった。
 そのことを理解しつつも彼は、
「信じたくなどない。私は信じたくなどない。故に今から、私は、ブリュッセルから飛行機が墜落したもっとも近隣の国に飛ぶ。何か分かったらすぐに、連絡を入れよう、では皇女、気を確かに・・・」
「たいちゃん、いやです。今飛行機に乗られては・・・、嫌です・・・。グスン」
「なら別の手段を考えて向かうことにしよう・・・」
 泰聖はそう皇女に告げると、回線を切ったのだった。それから、彼は鉄道などの陸路を走り、数日で中東まで到着した。それからは、彼の仕事で培った人脈を元に情報網を敷き、自分の息子の行方を追った。
 慎治の父親は仕事のことも忘れ、一月と半以上もの日数を掛けて、息子を探した。だが、現実は斯くも残酷で毎日彼が聞き届ける結果はどれもが、泰聖を満足させなかった。
 彼の息子だけでない、乗客していた者、全員、いまだ、誰一人、生還したと報告を受けた者も、報道に登場した人物も居なかった。
 泰聖は精神的な疲労のため、見るからに表情が痩せていた。
 閉めていた、ネクタを緩め、前髪を神経質そうに、掻き揚げる。
「慎治、なぜだ・・・、なぜ。私が、仕事忙しさに、構ってやれなかった所為なのか・・・、お前は私の息子だから、大丈夫だ、と思っていたことはただの、傲慢だったということなのか・・・、これはそれに対する報い?・・・。まだ、私は、お前に父親らしいことなど何一つ出来ていないと言うのに。そんな私をおいて、先に逝こうと言うのか、慎治よ・・・」
 泰聖はロケットの中の家族写真に写る慎治を一目見て、悩み顔で、歯を食い縛り、頭部に、爪を立てるその父親。
 その様な状態のまま、しばらく居ると、彼の携帯電話に妻からの着信が入ったのだ。
「私だ・・・」
「タイちゃん、無理しないで・・・、もお、いいですから、もうよろしいですから・・・、シンちゃんの事。ですから、一度、お家にお帰りになってください」
「分かった、三日後には帰る。すまなかった、皇女」
 泰聖はそう答えると、電話を切り、携帯電話を畳むと同時に、重い溜息を吐いていた。それをポケットにしまうと、窓側に歩き出し、閉じていたカーテンに手を掛け、それを開けた。
 闇夜に生える街の電飾。その背景を細めで眺めてから、目線を上げ、くすんだ月を眺め、その光を浴びた。
 泰聖が、日本に帰国して、二、三日後に慎治の葬儀が行われた。
 慎治の遺体のない葬儀。
 空葬儀に参じた人々は多く、彼の大学友達、彼の勤めていた会社や高校の頃の友人までもが駆けつけ、広めの会場で行われた儀の間は悲しむ人の波で溢れ返っていた。
 その来訪客の中に、藤宮家や藤原家、隼瀬家の人間も混ざっていた。柏木家も・・・。
「洸大様、お久しぶりです。私の、息子の葬儀に足を運んでいただき、有難うございました・・・」
「泰聖殿よ、そうあらたまでほしいものじゃ・・・。慎治君はワシの孫の・・・、貴斗の親友だった子じゃ。その彼の葬儀にでんとは、孫に恨まれるわい」
 洸大のその言葉を耳にしたとき、泰聖は彼の孫の事を思い出し、申し訳なさそうに、深く頭を下げていた。
 同じ心の傷、思いを共有するその取引先の大尽に頭を下げた泰聖に、
「やめんか、愚か者。このばで、おぬしが、頭を下げる必要があるか・・・ばか者が・・・、・・・、・・・、なぜじゃろうな、泰聖よ。これほどに近しい関係の者たちが、ワシらよりも、先に・・・、ワシ等をおいて逝ってしまうとは。なぜ、老いたワシの命よりも先に、若人が逝かねばならんのだ、泰聖よ」
 洸大は心の中の辛さを涙にあらわすと、軽く、泰聖に頭を下げ、孫娘の所へと歩みだした。
 額を抱え、下を向く、泰聖の所へ、次女の右京が寄ってくると、
「ねえ、泰聖パパ、慎治おにいちゃんは、お兄ちゃんはどこへ行っちゃったの?ぱぱったらぁ、お兄ちゃんはどこ、おにいちゃんは・・・」
 いまだ、現実を受け入れようとしない次女、右京の頭に泰聖は屈んでから腕を回すと、力強く抱きしめ、無言で居続けた。
 葬儀も終わり、殆どの者達は葬儀場から立ち去っていた。
 彼等、彼女等の足が遠のこうとするくらいから、雨が降り出し、徐々に雨脚は強くなっていた。
 その雨の中、長身で颯爽凛々しく、伊達女の佐京。
 小さくなら、それなりに多くあったが、大きく嗚咽したことなど、今日まで一度もなかっただろう。
 だが、今の彼女は溺愛の弟、慎治の遺影を持ったまま、悔しそうな表情で涙を流し続け、立ち尽くしている。
「キョウちゃん・・・」
 隣に並ぶ、彼女の心友の翔子は、傘を差し悲しみ偲ぶ声で佐京に声をかけた。
「しょうこぉおおおぉおぉおぉお」
 遺影を持ったまま、佐京は翔子の肩に頭を預け、泣き叫んだ。
 翔子は黙って、肩を貸し、彼女が濡れない様に気をつけながら、傘を持っていた。
 ただ、佐京が涙と一緒に心の膿も流し終えるまで黙って立ち続ける。
「翔子が、貴斗殿を失ったときの気持ち・・・、辛さが、今はよく分かる。こんなにも、こんなにも私を苦しめるとは・・・、シンめ・・・、シン・・・、ううぅうう」
 それからしばらくの間、二人は黙ったままだった。しかし、最初に声を出したのは背の小さい方だった。
「キョウちゃん、キョウちゃんだって、辛いですわよね。ですが、思い出してください、キョウちゃんが今まで歩んできた道のりの中で、慎治君と過ごした、楽しい日々を、そして、貴女が、彼に伝えてきた言葉を・・・、今はそれを私達が守らなければいけないのです。ですから、もう、悲しまないでください。キョウちゃん、笑ってください、ね?」
 言葉にすると、ハンカチーフを佐京へと手渡した。
「翔子の癖に・・・、・・・・、・・・、よくいう・・・」
 佐京は翔子から渡されたもので、涙をぬぐうと、冷静な顔で、静かな笑みを見せると、
「すまなかったな、翔子。有難う」
「いいえ、礼には及びませんわ。私たちは心友ですから・・・」
 翔子は屈託のない笑みで佐京に返すと、傘を閉じ、ナイロンの布に付着した露を払うと空を見上げた。
 雨は止み、空を覆っていた雨雲は遠く、彼方へと流れていった。
 晴れ間から伸びる太陽光が、空に虹の橋をかけ始め、それを二人の女性が見上げていた。そして、両人、瞳を瞼で覆うと、祈りをささげていた。
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