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case1 ウツミ・ルイ
母は多忙ゆえに⑥
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母は仕事でキョウコへやってくると必ず行きつけのコーヒーショップに立ち寄る。ショップのマスターに極細挽きしてもらった豆を劣化防止用の密封カプセルに詰めて持ち帰り、毎朝、自室のエスプレッソマシンで淹れているそうだ。母の朝のルーティンに組み込まれていて、この店のコーヒーが飲めなかった日は支配能力の威力と精度は3割減するらしい。
ぼくたちはそんなカフェイン中毒者の日々を支えているコーヒーショップへとやってきた。
目的はマスターに母への伝言を頼むこと。
古ぼけた栗皮色の扉に手をかける。扉は柔らかい音を立てながら開くと、コーヒー豆のスモーキーな香りが顔を吹き付けた。耳の奥までこびり付くような匂いで店内は充満していた。
からん、と錆びついたベルが鳴ると奥の方からプライマリースクールで聞き覚えるある気さえする少年みたいな声が返ってきた。ゴリゴリと豆を挽く音が聞こえてくる。
店内は100ルーメンほどの電球が不規則に配置されていて、外の眩しさから目が慣れるまでは薄暗くてよく見えない。ただ、左右の壁にごげ茶色の瓶がいくつも積み重なっているのがぼんやりとわかった。
「子どもだけとは、変わった来客だ」
奥の方から歩いてきたマスターらしき人間はベージュ色のエプロンをかけて、髪をオールバックに固めていた。口元にはコーヒー豆と同じ色の柔らかそうなひげを蓄えている。声変わりする寸前の少年のような声とは不釣り合いなダンディな風貌だった。
「母に育児放棄されたので味覚が鈍化してしまって」
ぼくは頬の筋肉を解きほぐして微笑んだ。
「コーヒーの良さを知るのに年齢は関係ない。むしろ、君らくらいの歳で皮肉を言えるなんて、いい教育の受け方だよ。さて、何か飲んでいくかい?」
店の奥にはアンティーク調の二人掛けのテーブルが2つ置かれている。先客は誰もいないようだった。
「わたしは苦いの苦手なので、ミルク多めでお願いします」
エノはさっさと椅子に腰かけると、マスターの方を向いて注文した。
「オーケー。お嬢さんがコーヒー無しでは生きていけない身体になってしまうほどのおすすめを提供するさ。君はどうする?」
「ぼくは、ハノダナ東部原産のフレイヤで。カプチーノでお願いします」
すると、マスターは柔らかい髭を親指と人差し指で摘まんだ。
「……なんだか既視感のある雰囲気だと思ったら、もしかしてウツミの息子か?」
ぼくは小さくうなずく。
「よく見たらそのアクアブルーの瞳と髪は間違いないね。好きなコーヒー豆も一緒とは恐れ入るよ」
マスターは黒っぽいシャツの腕をまくりながら、カウンターの中へと入っていった。
「ねえ、本当にそのコーヒー豆が好きなの?」
エノは身を乗り出して小声で耳打ちする。
「そうだよ」
「ふーん。そのはっきり言ってその目を見ればわかるわ。どうせ、マリエさんの子どもですって恥ずかしくて言えなかったんでしょ。……いじっぱりね」
エノはぼくに聞こえるように鼻から息を吐くと、椅子を軋ませながら後ろに反り返った。
カウンター越しにマスターが尋ねる。
「わざわざこんな状態のキョウコにまで何の用だったんだい? まさか、コーヒーだけ飲みにやって来たわけではあるまい」
ミルクがフォーマーで泡立てられている音が聞こえる。
「メジウ湖の異変について耳にしていますか?」
ぼくが尋ねるとフォーマーが止まった。
「何やら随分と綺麗になってしまったそうだね。潜ったはずのネレウスの潜水艇が浮上してこないとか。理論上、まだ酸素は残っているから死んではいないだろうって話だが、故障していなければね」
燃え尽きた大地に育てられたコーヒー豆が放つ、焼け焦げたような力強い香りが漂ってきた。自然と群青色の軍服を思い出す。
「お嬢さんも同じ豆でいいかい?」
「飲みやすくしてくれれば何でもいいわ。そんなことより、マリエさんに伝言を頼みたいの」
マスターはトレーにコーヒーカップを二つ乗せて、テーブルへ歩いてくる。頭の高さが変化せず、床を滑っているみたいだった。
「別にいいけど、彼女が来るのはかなり不定期だからなあ。君たちは知っていると思うけど、電話はほとんどつながらない。待っていたらメジウ湖が手遅れになるかもしれない」
ぼくはマスターからカップを受け取った。白い雲の糸のような湯気が薄暗い天井へ昇っていく。
「それは困るわ」
「お嬢さんがこのコーヒーを美味しいと言ってくれたら、すぐに会えるかもしれない」
マスターの挑戦的な態度にイライラし始めたエノの肩を叩く。
「エノがコーヒーを『そんなこと』呼ばわりしたのに怒っているんだ」
ぼくはそう言って淹れたてのコーヒーを口に含む。母と同じ匂いがした。
エノも続いて口をつける。
「お、お、美味しい!」
エノの棒読みの感想はマスターの心に当然響くはずもなかった。
「メジウ湖が綺麗になると、君の家族は経済的に困窮するのか?」
マスターは店内の陳列整理を始めた。どれも似たような色をしているが、彼ははそれぞれを個別に認識している。
「わたしじゃなくてルイのお店で売っているパールが取れなくなるの」
「つまり、君は彼氏のために苦いコーヒーを飲むのかい? 意外と献身的だなあ」
マスターはアルトくらいの高い笑い声をあげながら、瓶を持ち上げては入れ替える。
「あーこいつ! 下手に出れば言いたい放題言いやがって! 竜巻で店が壊される前に、わたしが吹き飛ばしてやるわ! 大事なコーヒーをブレンドしてやる! ルイもなんとか言って!」
完全におちょくられたエノが反射的に翼を広げて、机を叩き、立ち上がろうとした瞬間、錆びついたベルが、揺れた。
ぼくたちはそんなカフェイン中毒者の日々を支えているコーヒーショップへとやってきた。
目的はマスターに母への伝言を頼むこと。
古ぼけた栗皮色の扉に手をかける。扉は柔らかい音を立てながら開くと、コーヒー豆のスモーキーな香りが顔を吹き付けた。耳の奥までこびり付くような匂いで店内は充満していた。
からん、と錆びついたベルが鳴ると奥の方からプライマリースクールで聞き覚えるある気さえする少年みたいな声が返ってきた。ゴリゴリと豆を挽く音が聞こえてくる。
店内は100ルーメンほどの電球が不規則に配置されていて、外の眩しさから目が慣れるまでは薄暗くてよく見えない。ただ、左右の壁にごげ茶色の瓶がいくつも積み重なっているのがぼんやりとわかった。
「子どもだけとは、変わった来客だ」
奥の方から歩いてきたマスターらしき人間はベージュ色のエプロンをかけて、髪をオールバックに固めていた。口元にはコーヒー豆と同じ色の柔らかそうなひげを蓄えている。声変わりする寸前の少年のような声とは不釣り合いなダンディな風貌だった。
「母に育児放棄されたので味覚が鈍化してしまって」
ぼくは頬の筋肉を解きほぐして微笑んだ。
「コーヒーの良さを知るのに年齢は関係ない。むしろ、君らくらいの歳で皮肉を言えるなんて、いい教育の受け方だよ。さて、何か飲んでいくかい?」
店の奥にはアンティーク調の二人掛けのテーブルが2つ置かれている。先客は誰もいないようだった。
「わたしは苦いの苦手なので、ミルク多めでお願いします」
エノはさっさと椅子に腰かけると、マスターの方を向いて注文した。
「オーケー。お嬢さんがコーヒー無しでは生きていけない身体になってしまうほどのおすすめを提供するさ。君はどうする?」
「ぼくは、ハノダナ東部原産のフレイヤで。カプチーノでお願いします」
すると、マスターは柔らかい髭を親指と人差し指で摘まんだ。
「……なんだか既視感のある雰囲気だと思ったら、もしかしてウツミの息子か?」
ぼくは小さくうなずく。
「よく見たらそのアクアブルーの瞳と髪は間違いないね。好きなコーヒー豆も一緒とは恐れ入るよ」
マスターは黒っぽいシャツの腕をまくりながら、カウンターの中へと入っていった。
「ねえ、本当にそのコーヒー豆が好きなの?」
エノは身を乗り出して小声で耳打ちする。
「そうだよ」
「ふーん。そのはっきり言ってその目を見ればわかるわ。どうせ、マリエさんの子どもですって恥ずかしくて言えなかったんでしょ。……いじっぱりね」
エノはぼくに聞こえるように鼻から息を吐くと、椅子を軋ませながら後ろに反り返った。
カウンター越しにマスターが尋ねる。
「わざわざこんな状態のキョウコにまで何の用だったんだい? まさか、コーヒーだけ飲みにやって来たわけではあるまい」
ミルクがフォーマーで泡立てられている音が聞こえる。
「メジウ湖の異変について耳にしていますか?」
ぼくが尋ねるとフォーマーが止まった。
「何やら随分と綺麗になってしまったそうだね。潜ったはずのネレウスの潜水艇が浮上してこないとか。理論上、まだ酸素は残っているから死んではいないだろうって話だが、故障していなければね」
燃え尽きた大地に育てられたコーヒー豆が放つ、焼け焦げたような力強い香りが漂ってきた。自然と群青色の軍服を思い出す。
「お嬢さんも同じ豆でいいかい?」
「飲みやすくしてくれれば何でもいいわ。そんなことより、マリエさんに伝言を頼みたいの」
マスターはトレーにコーヒーカップを二つ乗せて、テーブルへ歩いてくる。頭の高さが変化せず、床を滑っているみたいだった。
「別にいいけど、彼女が来るのはかなり不定期だからなあ。君たちは知っていると思うけど、電話はほとんどつながらない。待っていたらメジウ湖が手遅れになるかもしれない」
ぼくはマスターからカップを受け取った。白い雲の糸のような湯気が薄暗い天井へ昇っていく。
「それは困るわ」
「お嬢さんがこのコーヒーを美味しいと言ってくれたら、すぐに会えるかもしれない」
マスターの挑戦的な態度にイライラし始めたエノの肩を叩く。
「エノがコーヒーを『そんなこと』呼ばわりしたのに怒っているんだ」
ぼくはそう言って淹れたてのコーヒーを口に含む。母と同じ匂いがした。
エノも続いて口をつける。
「お、お、美味しい!」
エノの棒読みの感想はマスターの心に当然響くはずもなかった。
「メジウ湖が綺麗になると、君の家族は経済的に困窮するのか?」
マスターは店内の陳列整理を始めた。どれも似たような色をしているが、彼ははそれぞれを個別に認識している。
「わたしじゃなくてルイのお店で売っているパールが取れなくなるの」
「つまり、君は彼氏のために苦いコーヒーを飲むのかい? 意外と献身的だなあ」
マスターはアルトくらいの高い笑い声をあげながら、瓶を持ち上げては入れ替える。
「あーこいつ! 下手に出れば言いたい放題言いやがって! 竜巻で店が壊される前に、わたしが吹き飛ばしてやるわ! 大事なコーヒーをブレンドしてやる! ルイもなんとか言って!」
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