宙(そら)の記憶

H.N

文字の大きさ
4 / 10
第四章

闘病の始まり

しおりを挟む
宣告から数日後、ひかりは入院することになった。美咲はつきっきりで病院に泊まり込み、健一は仕事の合間を縫って見舞いに来た。悠人は、なぜひかりだけが病院に行かなければならないのか、まだ幼い心では理解できず、不安と寂しさを募らせていた。

ひかりの治療は、想像を絶するものだった。幼い体にはあまりにも過酷な抗がん剤治療。点滴につながれ、何度も吐き気を催し、髪が抜け落ちていくひかりの姿を見るたび、美咲の胸は張り裂けそうになった。

「ママ、痛いよ……」

点滴の針を刺されるたび、ひかりは小さく泣き声を上げた。美咲は、その細い手を握りしめ、「ごめんね、ごめんね」と繰り返すことしかできなかった。痛みと苦痛に耐えるひかりの姿は、美咲の心をえぐり、そのたびに「なぜこの子がこんな目に遭わなければならないのか」という怒りと、無力感が全身を支配した。

健一は、仕事中もひかりのことが頭から離れなかった。昼休みも食欲が湧かず、スマートフォンでひかりの病気について検索する日々。しかし、どれだけ情報を集めても、明確な解決策は見つからない。むしろ、厳しい現実を突きつけられるばかりで、そのたびに絶望の淵に突き落とされた。

ある日、美咲は病室の窓から差し込む夕日を眺めながら、ひかりに語りかけた。

「ひかり、大きくなったら何になりたい?」

ひかりは、少し考えてから、弱々しい声で答えた。

「お花屋さん。きれいなお花に囲まれて、みんなを笑顔にしたいの」

その言葉に、美咲は胸が締め付けられた。ひかりの未来には、無限の可能性があったはずだ。お花屋さんになりたいという、ささやかな夢すら、この病気が奪ってしまうのか。美咲は、抑えきれない悲しみに、病室の隅で声を殺して泣いた。

悠人は、ひかりが病院にいる間、実家で過ごすことが増えた。両親が毎日ひかりの元へ通う中、悠人はひとり取り残されたような寂しさを感じていた。公園で遊ぶ子どもたちの笑い声を聞くたび、ひかりと遊んだ記憶が蘇る。妹がいない生活は、どこか色が褪せて見えた。

ある夜、健一が帰宅すると、悠人がリビングでひかりの描いた家族の絵を抱きしめて泣いていた。

「パパ……ひかり、いつ帰ってくるの?もう、遊んでくれないの?」

健一は、悠人を抱きしめた。幼い悠人に、ひかりの病気をどう説明すればいいのか。健一は、悠人に嘘をつきたくなかったが、残酷な真実を告げる勇気もなかった。ただ、悠人の小さな背中をさすりながら、「必ず、ひかりは帰ってくるから」と、精一杯の言葉を絞り出すしかなかった。

家族それぞれの感情の崩壊が、静かに、しかし確実に進行していた。美咲は、ひかりの痛みを代わってあげられないことに苦しみ、夜中に何度も目を覚ましては、天井を見つめていた。健一は、会社でどんなに忙しく働いても、心のどこかにぽっかりと穴が開いたような感覚が消えなかった。そして悠人は、漠然とした不安と、妹が戻ってこないかもしれないという予感に怯えていた。

病室のベッドで眠るひかりの小さな顔は、日に日に痩せ細っていく。チューブにつながれた体は、見るたびに痛々しい。しかし、それでもひかりは、時折、希望に満ちた瞳で美咲を見つめ、「早くおうちに帰りたいな」と呟いた。その言葉が、美咲の心をえぐり、胸をえぐるような痛みとなって襲いかかった。美咲は、どこにこの感情をぶつけたらいいかわからないまま、ただひたすらに、ひかりの回復を祈り続けた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―

MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」 「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」 失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。 46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。

処理中です...