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逃亡
第五十話 ミルク瓶に一輪の恋
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彼女の言葉に甘える形にはなってしまったが、このことがあってから度々彼女のもとを訪れるようになった。庭の野菜を盗み食いすることはなくなって、居間に通されあたたかい食事を食べた。
「あたし、小林琴子っていうの。あなたの名前は?」
三回目の時だったか。彼女は唐突に名前を聞いてきた。そういえばお互いの名を名乗っていなかったのだ。少し考えた後名前を告げると、琴子と名乗った彼女は嬉しそうに笑った。
「そう、けん……狷。じゃあ、狷ちゃんね」
とても可愛らしい笑顔だった。初めてそんなことを思った。
琴子は自分の話をよくした。山の生活に憧れてここに住み始めたこと、家に一人でいるのはたまに寂しくなること、野菜の世話をしている時が一番楽しいこと、花が好きなこと。とにかくなんでもないことを琴子は話した。そんな彼女の話を聞くのが、いつの間にか楽しみになっていた。
怪我をしていくと、いつも何も言わず手当てをしてくれた。最初の頃は驚いていたが、訳は聞くなと言うと、その言葉を懸命に守って黙することに徹底した。己のことは話さない。それが暗黙の了解だった。
少し経った頃、彼女へ花を摘んでいった。一輪の淡いピンク色のコスモス。それを見た彼女は、泣きそうな顔で笑っていた。その頃から台所の窓辺に置かれ始めた小さなミルク瓶には、摘んできた一輪の花が飾られるようになった。
ふと思い出から帰ってきて、狷ははっと顔を上げた。
琴子と初めて会った時から、長い歳月が過ぎた。何度も季節が移り変わった。今目の前にいる彼女は背中も曲がってきて、昔に比べるとうんと小さくなってしまった。手当てをしてくれる手もしわだらけになったし、動きも鈍くなった。しかし、自分だけは時が止まったまま、何一つ変わらなかった。
「……狷ちゃんはいつまで経っても変わらないわねえ」
琴子は突然そう切り出した。お互いのことを深く詮索するのはやめていたというのに、今になってそんなことを言う。
「あたしだけが歳を取っていくのは悲しかったわ。でもね、狷ちゃんが来てくれるだけでよかった。それ以上何もいらなかったのよ」
どうして。
「花を見るたびに思うの。次はいつ来てくれるのかしら……って」
「……琴子」
やめろ、と。
言いたかったのに、言えなかった。
「あの子のことが好きなのね」
一番知られたくなかったことを。認めたくなかったことを的確に指摘されて、口籠った。彼女に言われてしまえば、もう認めざるを得なかった。たまにとは言え、何十年も共にいた琴子は、自分のことをよく知っている。
「少し寂しいけど、嬉しいわ。あなたにも大切な人ができたこと」
琴子は本心でそう言っているのだろう。彼女は嘘はつかない。
「あの子も狷ちゃんのこと、とっても好きなのが伝わってくるの。大切に思ってるのがね。あたしだってだてに歳を取ってませんから」
「…………」
琴子が何を言いたいのかが分からない。そんな考えを見透かすかの如く、琴子はくすくすと笑って続けた。
「あたしのことは大丈夫だから、あの子を……日和ちゃんを守ってあげて。狷ちゃんが今すべきことは、あの子を守ることよ」
「…………」
「狷ちゃん」
黙っていると、琴子の手が頬に触れた。あたたかい手だった。
「これで終わるわけじゃないでしょう? そんな顔をしないのよ」
琴子に言われても、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
「たくさん思い出をくれてありがとう。ずっとあなたに恋をしていたわ。でも、それはこれからも変わらない。だって、あなたはあたし達とは違うもの」
「……琴子、もう言うな」
「……そうね。じゃあ、これだけは言わせて」
——あなたを愛していたわ。
琴子の言葉が鼓膜を揺らす。琴子は先程と同じように肩を揺らして笑う。悪戯が成功して喜ぶ子供のような、無邪気な笑みだった。
「ふふふ、これからもあなたのことを想って生きるわよ。長生きするんだから」
そんな琴子と、彼女が被って見えた。
そうだ。琴子と日和は似ているのだ。太陽のように笑う顔も、穏やかな声も、小さな仕草も。いつの頃からか、日和を琴子と並べて見るようになっていた。
彼女を、琴子を愛していた。それは今も変わらない。だが、もう一人、大切な存在ができた。——もう、認めてしまおう。
俺は、日和が好きだ。
「あたし、小林琴子っていうの。あなたの名前は?」
三回目の時だったか。彼女は唐突に名前を聞いてきた。そういえばお互いの名を名乗っていなかったのだ。少し考えた後名前を告げると、琴子と名乗った彼女は嬉しそうに笑った。
「そう、けん……狷。じゃあ、狷ちゃんね」
とても可愛らしい笑顔だった。初めてそんなことを思った。
琴子は自分の話をよくした。山の生活に憧れてここに住み始めたこと、家に一人でいるのはたまに寂しくなること、野菜の世話をしている時が一番楽しいこと、花が好きなこと。とにかくなんでもないことを琴子は話した。そんな彼女の話を聞くのが、いつの間にか楽しみになっていた。
怪我をしていくと、いつも何も言わず手当てをしてくれた。最初の頃は驚いていたが、訳は聞くなと言うと、その言葉を懸命に守って黙することに徹底した。己のことは話さない。それが暗黙の了解だった。
少し経った頃、彼女へ花を摘んでいった。一輪の淡いピンク色のコスモス。それを見た彼女は、泣きそうな顔で笑っていた。その頃から台所の窓辺に置かれ始めた小さなミルク瓶には、摘んできた一輪の花が飾られるようになった。
ふと思い出から帰ってきて、狷ははっと顔を上げた。
琴子と初めて会った時から、長い歳月が過ぎた。何度も季節が移り変わった。今目の前にいる彼女は背中も曲がってきて、昔に比べるとうんと小さくなってしまった。手当てをしてくれる手もしわだらけになったし、動きも鈍くなった。しかし、自分だけは時が止まったまま、何一つ変わらなかった。
「……狷ちゃんはいつまで経っても変わらないわねえ」
琴子は突然そう切り出した。お互いのことを深く詮索するのはやめていたというのに、今になってそんなことを言う。
「あたしだけが歳を取っていくのは悲しかったわ。でもね、狷ちゃんが来てくれるだけでよかった。それ以上何もいらなかったのよ」
どうして。
「花を見るたびに思うの。次はいつ来てくれるのかしら……って」
「……琴子」
やめろ、と。
言いたかったのに、言えなかった。
「あの子のことが好きなのね」
一番知られたくなかったことを。認めたくなかったことを的確に指摘されて、口籠った。彼女に言われてしまえば、もう認めざるを得なかった。たまにとは言え、何十年も共にいた琴子は、自分のことをよく知っている。
「少し寂しいけど、嬉しいわ。あなたにも大切な人ができたこと」
琴子は本心でそう言っているのだろう。彼女は嘘はつかない。
「あの子も狷ちゃんのこと、とっても好きなのが伝わってくるの。大切に思ってるのがね。あたしだってだてに歳を取ってませんから」
「…………」
琴子が何を言いたいのかが分からない。そんな考えを見透かすかの如く、琴子はくすくすと笑って続けた。
「あたしのことは大丈夫だから、あの子を……日和ちゃんを守ってあげて。狷ちゃんが今すべきことは、あの子を守ることよ」
「…………」
「狷ちゃん」
黙っていると、琴子の手が頬に触れた。あたたかい手だった。
「これで終わるわけじゃないでしょう? そんな顔をしないのよ」
琴子に言われても、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
「たくさん思い出をくれてありがとう。ずっとあなたに恋をしていたわ。でも、それはこれからも変わらない。だって、あなたはあたし達とは違うもの」
「……琴子、もう言うな」
「……そうね。じゃあ、これだけは言わせて」
——あなたを愛していたわ。
琴子の言葉が鼓膜を揺らす。琴子は先程と同じように肩を揺らして笑う。悪戯が成功して喜ぶ子供のような、無邪気な笑みだった。
「ふふふ、これからもあなたのことを想って生きるわよ。長生きするんだから」
そんな琴子と、彼女が被って見えた。
そうだ。琴子と日和は似ているのだ。太陽のように笑う顔も、穏やかな声も、小さな仕草も。いつの頃からか、日和を琴子と並べて見るようになっていた。
彼女を、琴子を愛していた。それは今も変わらない。だが、もう一人、大切な存在ができた。——もう、認めてしまおう。
俺は、日和が好きだ。
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