上 下
5 / 6

5

しおりを挟む
(間に合うか?)

 瑛斗は坂を登っていく。
 足取りは軽い。
 さっき食べた鯛や佐賀牛が力になったのか、温泉が疲れをとってくれたのか、それとも玄海町の空気がそうさせたのか。本人にも誰にもわからない。けれど、瑛斗はあと少しで破れそうな殻の存在を目の前に感じていた。

(もう少し、頑張れっ俺、頑張るんだっ)

 もう少し頑張れば、何かが変わる。
 そう思った。

「・・・っ」

 瑛斗は立ち止まった。

 決して諦めたわけじゃない。

 雄大な景色が瑛斗を迎えてくれたのだ。

 『浜野浦の棚田』

 日本の棚田百選に選ばれ、佐賀県遺産にも認定されている棚田。
 展望台から見える棚田は夕日を綺麗に反射させ、都会人の瑛斗にもどこか懐かしさを感じさせた。
 思わず、瑛斗は胸元をぎゅっと握りしめる。

 ここに来る途中で、瑛斗はスマホでその景色を検索して見ていた。
 もしかしたら、たいそう高級な一眼レフで、一番ベストな時期を知っている人が撮った写真の方が綺麗かもしれない。

 でも、そこには風がなかった。
 暑さがなかった。
 そして、全身で感じる感動がなかった。

「………っ」

 瑛斗は泣いていた。
 暑さのせいと感動のせいか頭はぼーっとして、余計な雑念は消え、その景色、その空間を心で味わった。その朧げな太陽は暑く目を背けたいようで、瑛斗の心と目を惹きつけて離さない。綺麗に反射する水田と、波打って朧に反射する海。どちらも甲乙捨てがたい。そして、水平線には無限の可能性を感じた。

「限界なんて……ない……」

 そんな冗談のつもりでここへやってきた瑛斗は思わず言葉に出していた。
 でも、その言葉が瑛斗に返ってくる。

(この感動に理性で語るのは芸術家ではない俺には邪見だ。今はこのままで・・・)

 そう思った瑛斗は頭を殻にして太陽が水平線に沈むまで見送った。
 ゆっくりとゆっくりと、瑛斗の心の奥で一番固くなったところを柔らかくするように、太陽もまた瑛斗を沈むまで、見守った。

「よし…決めた」

 月が出る頃になって、瑛斗は何かを決心した。

「でも、その前に宿を探さないとっ。てか、こっからどうやって向かうか、それが問題だ!!」

 仕事で慌てることなど、日常茶飯事の瑛斗。必死でいつも心臓が締め付けられるような苦しさのなか、あくせくしていたし、この九州旅行だってそうだ。無理して非日常を体験しようと、心を無視して、心が落ち着きそうになったり、魅かれる場所があっても、1日1県と頭で決めて実行してきた。

 そんな彼が初めて心に従って、心から楽しんだ。
 瑛斗は宿がないという問題も心の底から楽しんでいるようだった。


 











しおりを挟む

処理中です...