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1章 約束と記憶の夜空

1話

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スイちゃんママ
「あらヨウくん、いらっしゃい! 今日は泊まっていくの?」

 台所にいるスイちゃんママは料理をする手を止め、尋ねてくる。柔らかい声と表情から、僕を本当の我が子のように扱ってくれていることが身に染みる。

ヨウ
「ううん」

 しかし、僕は首を横に振る。

 そして、悲痛な面持ちで縁側にちょこんと座る女の子を見やる。

ヨウ
「スイちゃん、まだ元気出ない……?」

スイ
「…………」

 幼稚園で元気に遊んでいた頃よりも、やけに小さい丸まった背中。
 上下不規則に震えており、彼女が悲しみに打ちのめされているのは、幼なじみである僕でなくとも分かるほど明らかだった。

 スイちゃんママ
「うん、まだ……ね。初めて大切なものキラをなくしたから、辛いんでしょうね……ヨウくん、にまたスイを慰めてきてくれるかしら?」

 スイの愛犬――黒い柴犬であるキラを亡くしてから3日。

 毎日足を運んでいるが、彼女の悲しみが晴れる気配はない。むしろ、日に日に嵐は酷くなってさえいるぐらいだ。

 だとすると、彼女の中でキラが亡くなってしまったこと以外に、嵐を吹き荒らす原因となる台風の目みたいな何かがあるのだろう。

 それを明かさなければ晴れは決して来ない。

スイ
「…………」

 どんな状況だろうとも、誰よりも真っ先に僕の存在に気付くスイちゃん。
 しかし、今日も僕に気付くことなく、悲しみの嵐の中で雨風に吹かれながらたった独りぼっちで泣いている。

 そんな彼女の隣にそっと寄り添う。

ヨウ
「スイちゃん、元気出して……? スイちゃんが悲しいと僕も悲しいよ」

スイ
「…………」

 スイちゃんはしくしくと声を押し殺しながら、ただただ弱々しく泣いていた。
 今にも泡のようにどこかに消えていってしまいそうで、僕は繋ぎ止めるように言葉を重ねる。

ヨウ
「僕で良かったら何でも話して? スイちゃんの話なら全部聴くから」

 蚊の泣くような小さな声でスイちゃんは呟く。

スイ
「わたし……」

 久しぶりに耳にした声は泣き過ぎでやはり枯れていた。

 しかし、この3日間はどれだけ言葉を掛けても、返事が返ってこなかったことを考えれば、声が聴けたのは進展を感じる。
 つまり、スイちゃんの悲しみにようやく一筋の光が差し込んでいるかのように思えた。

スイ
「…………」

 だが、少し間が開いた後、淡い期待は裏切られる。

スイ
「し゛あ゛わ゛せ゛に゛な゛り゛た゛く゛な゛い゛」

 彼女の悲痛な叫びが僕の胸を射貫く。

 高鳴る鼓動、噛む下唇、爪が刺さるほど握られた拳。反射的に僕は――

ヨウ
「そんなこと言わ……」

“そんなこと言わないで!”

 口を衝いて出かけた否定の言葉。
 変わり果てた彼女を見た途端、喉をギュッと塞がれたようにか細い息となる。

スイ
「ご飯も食べたくない。お休みもしたくない。遊びたくもない。楽しいも嬉しいもみんな嫌」

 髪を乱しながら首を大きく振る彼女。行動や感情だけでなく、それ以上のを頑なに拒絶していた。

スイ
「幸せになんてなりたくない!!!」

 拒絶していたのは、生きること。彼女は生きることを心の底から拒絶していたのだ。

 泣き腫らした真っ赤な目、下には黒い三日月のようなクマ。唇は砂漠のように渇き果てる。元気な頃とは似ても似つかない変化が、何よりも”生きたくないこと”を物語っている。

ヨウ
「――それは嘘だよ」

 幸せになりたくない、だから生きたくない――それは嘘だ。

 どんなに荒れた姿からでも、どれだけ嘘を吐こうとも、ずっと一緒にいる僕には分かる。

 嘘というドス黒い絵の具で塗りつぶされた、彼女の底抜けた優しさが。

ヨウ
「――――」

 ――彼女はキラを忘れ、生きている自分だけがこれから先幸せになるのを恐れているのだ。

 ご飯を食べる時も、お休みをする時も、遊ぶ時も、スイちゃんの事が誰よりも大好きでいつも一緒だったキラ。
 身体は小さくても存在は大きいキラは、スイちゃんの幸せのピース一つ一つに、確かに存在していた。

 幸せを形作っていたキラが突然存在しなくなった今、自分1人だけご飯を食べ、自分1人だけお休みをし、自分1人だけ遊ぶのは、罪悪感にも似た黒い感情が湧き起こるのだろう。
 もうご飯を食べられず、お休みをすることもなく、遊べなくなってしまったキラへの後ろめたさから。

 それが彼女の純真で清らかな心を黒く蝕む。

 しかし、罪悪感を覚えるのはキラがスイちゃんの事を大好きだったのと同じくらい、スイちゃんもキラの事が大好きだった証なんだろう。
 と同時に、亡くなってしまったキラを想っているスイちゃんの、彼女なりの優しさの表明でもある。

ヨウ
「…………」

 だが、それを彼女にストレートに伝えたところで、あるいはキラは彼女が幸せになることを望んでいると言ったところで、心は決して動かない。

 感情の源泉を言い当てても、キラの気持ちを代弁しても、意味が無い。

ヨウ
「…………」

 使は、言葉だけではスイちゃんの心は動かせない。

 どうしようかと、暗くなった空をふと見上げると、あるモノがキラキラと輝いていた。

 ――コレしかない!!

 妙案に僕の心は昂揚する。

ヨウ
「そうだ! スイちゃん、ちょっと来て!!」

 意気揚々と立ち上がった僕は、涙を拭くためと化した彼女の手を強引に取る。

スイ
「――――ッ!!」

 咄嗟の出来事に驚いて言葉が出ないスイちゃん。
 そんなのお構いなしに、僕はスイちゃんの手をドンドン引っ張って、探していた宝箱でも見つけたかのように外へ向かう。

 計画性の無さと、閃きを達成しようとする強引さ。余りの自分らしくない行動に思わず苦笑いしてしまう。

 だが、これぐらい強引にやらないとスイちゃんはまた悲しみの渦に飲み込まれてしまう。そして、本人も飲み込まれることを自ら望むに違いない。

 ――そんなのは僕が決して許さない。彼女の幸せが僕にとっての幸せ。だから、スイちゃんには心の底から笑っていて欲しい。

 身勝手かもしれない願いを握る手にギュッと込める。

ヨウ
「スイちゃんママ、ちょっと出掛けてくる!」

スイちゃんママ
「2人とも待って! もう夜遅くて危ないし、あと少しで雨も降るらしいから、明日にしなさい!」

 スイちゃんママは夜ご飯を作る手を止め、大慌てで僕たちを追って玄関へやってきた。

 僕とスイちゃんだけで夜に出歩くこと。

 そんな無謀な行動が反対されるのは、常識人であるスイちゃんママの性格から分かっていた。
 また、引き留めるのも僕たちを大切に想っていてくれて、心配しているからこそ、ということも百も承知。
 雨が降るかもしれないのであれば、尚のこと危険度は増す。

スイちゃんママ
「パパもそろそろ帰ってくるし……ね?」

 しかし、ここで迷っている時間は無い。
 あと少しで雨が降ってしまうか、アレが終わってしまうから。

 もしアレを逃せば、スイちゃんを本当の意味で悲しみの渦から助け出すのは不可能になる。
 例え、ご飯を食べるようになっても、ちゃんとお休みをするようになっても、友達と遊ぶようになっても、心の底から笑えることはきっとなくなる。

 生きている間はずっと、心の何処かでキラへの罪悪感を背負い続けなければならなくなってしまうからだ。

 そんなのは本当のスイちゃんではない。

ヨウ
「スイちゃんママごめんなさい……でもと!!」

 急いで靴を履き終え、あとは玄関から飛び出すのみ。
 一端外に出てしまえば、僕たちがどこに行くかは皆目見当が付かないだろうし、さすがにあの場所までは追ってこられないはず。

スイちゃんママ
「待ちなさい!!」

 帰った後でカンカンに怒ったスイちゃんママから、こっぴどく叱られることを考えれば、行くのを躊躇ってしまうほど恐怖を覚える。
 だが、元気を取り戻したスイちゃんと2人で正座させられて、びしょ濡れのまま一緒に怒られるのも悪くはない。

 願わくばそうなって欲しいとすら思う。

ヨウ
「スイちゃんママ、本当にごめんなさい!」

 このままスイちゃんパパにさえ出くわさなければ、何とか雨が降る前にアレに間に合う。そして、スイちゃんを元気づけてから2人で仲良く叱られよう。

 その後、一緒にスイちゃんママの美味しいご飯を食べて、一緒にスイちゃんパパと楽しく遊んで、いつものようにふかふかの布団で2人で一緒に寝よう。

 思いを馳せるのは、そんな温かい未来。

ヨウ
「――――」

 スイちゃんの手をギュッと握り直す。

 そして、意気揚々とスイちゃんママに背を向けたその時――最悪のタイミングで玄関の扉が開いた。


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