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第3話 Night Stalker (I)

Chapter-18

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「すみません、今、カレー温め直してますんで」

 ファイがそう言った。

 台所では、両面焼グリル付ガステーブルの更に隣りにある、低い台に、うどん・ラーメン用の大火力鋳物コンロと並んだ、マッチ式の一口テーブルコンロが、カレーの入った大きな寸動鍋を温めている。

 低い調理台とガステーブルの、並んだ上の空間には天吊りキャビネットがなく、台所の奥側についた30cm径の金属フィルター型三菱コンパックが回って、排気をしているが、それだけでは足りないのか、それともリビングの換気扇が動いていて負圧がかかっているのか、ダイニング兼用のリビングにも芳醇なカレーの香りが漂ってくる。

 朱鷺光と弘介……と淳志は、朱鷺光の部屋から、ダイニング兼用のリビングに降りてきていた。

 一度腕白ざかり3人が夕食をとって戦場となっていた、キャスター付きのダイニングテーブルを、ファイが、一度台拭きで拭き取っている。

「てか……淳志、お前さん帰らなくていいの?」

 朱鷺光が、ダイニングチェアのひとつに腰掛ながら、テレビの前のローテーブルの方に座っている淳志に声をかける。
 すると、淳志は、ゴールデンバット・メンソール・シガーを1本咥え、火をつけようとしているところだった。

 朱鷺光が、少し険しい顔になる。
 弘介が、疲れたようにため息をついた。

「お前さんがお祭り騒ぎ起こしてんだ、定時に帰っても意味ないさ。時間外、きっちりもらわなきゃな」

 淳志は、火を付ける前のタバコを一旦、口から離して、そう言ってから、咥え直し、火を点ける。

「セッコ」

 弘介が、苦笑しながら言った。

 朱鷺光は朱鷺光で、龍角散エチケットパイプのグレープフルーツフレーバーの箱を取り出し、1本咥える。

「しかしこれでつながったな……」
「ああ」

 弘介の言葉に、朱鷺光はそう言いつつ、多少気怠そうに、椅子の背ズリに寄りかかっていた身を起こした。

「ウィクター・ドーンドリア大学、メロンパークシステムの実験、『Library STAGE』、そして打倒オムリンに執着していた波田町教授、と」

 朱鷺光は、指折り数えるようにして、そう言った。

 パティアは、立ったまま、吐き出しになっている窓から、夜の庭を見ている。

「どうにも波田町のオッサンとの繋がりが弱いなぁ、と思っていたんだが、オムリンを倒すだけではなく、それを回収しようとしていた──となれば説明はつく」

 朱鷺光は、エチケットパイプを咥えたまま、真剣な表情になって、言う。

 淳志が、紫煙を吐き出した。ローテーブルの方で作動音を立てている、空気清浄機に吸い込まれていく。

「だけど、オムリンの設計自体は漏れてしまったんじゃないのか」
「設計だけはな」

 淳志の問いかけに、朱鷺光は即答した。

「『Library STAGE/90』は、それ自体は今となっちゃ大してプロセスルールも細かくない、シーケンス制御用ERFPGAとその実装フローウェアリストを管理する、これも今となっては時代遅れのCPUから成立してる」


 まず、利き手で真円を描く、とする。
 人間は、まぁフリーハンドで描けば当然歪むが、それっぽいものは描ける。
 シータやオムリンは、コンパスで描いたような真円をかける。

 次に、反対側の手で正三角形を描く、とする。
 人間は、苦労して歪だろうが、まぁそれっぽい三角形を描くことになる。
 シータやオムリンは、定規で図ったような、全部の辺が一定で1つの内角が60度の正三角形をかける。

 最後に、利き手で真円を描きながら、同時に反対側の手で正三角形を描く、とする。
 多くの人間は、うまく行かない。別々の意識を両の手で同時に実行する事が難しいからだ。
 できるとすれば、それは、そのための訓練を受けた人間である。

 ではシータはどうなるか、と言うと、これがまたうまく行かない。
 人間同様、図形を描く、というフレーミング処理がどちらか一方に偏って、分散させることが難しいからだ。
 当然、ファイやイプシロンがやっても、同じ結果になる。
 ソフトウェア実装なので、強引に、分散しろー、という命令を加えることもできるが、それは、その時点で、人工知能による判断と呼べるものではなく、ただのシーケンサ制御である。

 が、オムリンは出来てしまう。
 主演算をつかさどるCPUの他に、『Library STAGE』によるシーケンサ制御を、並行して行えるように作られているからだ。

 実際、シータやファイ達をアンドロイドと定義するなら、オムリンは、厳密には、人工知能による自律型完全人間形態ロボットアンドロイドではない、のである。
 朱鷺光も、世界初のアンドロイドはシータである、というのを公式の立場にしていた。


「問題はそれを管理するソフトウェアの経験値よぉ」

 朱鷺光はそう言った。

 『Library STAGE』のシステムを円滑に動かすには、これまでの経験から収集しライブラリングしたフローウェアリストから、最適のものを選んで実装する管理システムの能力が必要だった。

「簡単に言っちゃうと、オムリンは自我たるA.I.の他にもうひとつ原始的なA.I.を積んでんのよ。まぁ、昔の自動学習プログラムに毛が生えた程度のようなもんだけどな」

 朱鷺光は、まず自分の頭を指して言い、その指先を延髄のあたりに動かしながら、そう説明した。

「メロンパーク計画の連中は、そいつが欲しい──わけか」
「ソフトの出来はどうあれ、今までに蓄積されたデータは早々簡単に再現できないだろうからな」

 淳志が、タバコを咥えたまま表情を険しくして言うと、朱鷺光もまた、挑戦的に笑って、そう言った。

「バックアップは存在しないのか?」
「それを間違っても盗み出されないよう、あるいは盗んでも活用できないよう、ダミーを分散して転がしてあんのよ」

 淳志が訊き返すと、朱鷺光はにたりと笑ってそう答えた。

「なるほど、木の葉を隠すなら森の中、か」
「そうそれ」

 淳志の言葉に、朱鷺光は指差しながら答えた。

「教授も、その判別は左文字朱鷺光か、R-1自身にしか出来ないと言っていた」
「波田町のオッサンをしてね、なるほど効果は抜群だ」
 パティアが、室内の方を振り返って言うと、淳志は、そう言いながら、短くなったタバコを、来客用の灰皿で、もみ消した。

「ホンっと、性格悪いよな、お前」
「やっかましいわ」

 弘介の呆れたような言い種に、朱鷺光は言い返す。

「さて、皆さん、準備できましたよ」

 シャツとズボンにエプロン姿のファイが、そう言って、カレー皿に、大盛り気味のご飯に、ルーそのものからファイ手製のカレーがかけられて、3人前、ダイニングに持ってきた。

「さて、メシ、メシと」

 淳志もローテーブルからダイニングテーブルの方に移動し、弘介とともに、スプーンを持ってカレーに手を付けようとする。

「そいやファイ、祖父さんどうした?」

 朱鷺光が、スプーンを手に取りつつも、ファイにそう訊ねた。

「さぁ……夕食後は自室に戻られたようですが」
「姉さんこっちにいたからね」

 ファイに続いて、シータが言う。

「自分の部屋で艦◯れでもやってんじゃないの?」

「朱鷺光、そのツラで道歩いてたら、俺ならまず職質かけるぞ」

 ニタッと笑う朱鷺光に対し、淳志がそう言った。

「いやなに、さっき上げた中で、まだしっかり繋がってない連中がいるだろ」
「なんかあったっけ?」

 朱鷺光が言うと、弘介が訊き返す。

「…………ストラト・フォーか」
「そうそれ」

 淳志の言葉に、朱鷺光が不敵に笑いながら言う。

「まぁ連中のバックボーンもなーんとなくは見えちゃいるが」

 朱鷺光は、顎を擦るようにしながら、言う。

「影のCIAだかなんだか知らねぇが、所詮は民間企業よ。どこの誰にケンカ売ったんだか、ちょーっとご理解いただこうと思ってな」

「焦土化はよせよ、公安から文句が来る」
「そこまではやらないよ」

 淳志が、慌てたように言うが、朱鷺光は、妙に楽しそうに笑いながら、言う。

「どうだかな……」

 淳志は、ジトーっとした視線を向けながら、そう言った。

「ただ、まぁ弱点は日本もアメリカも一緒さ、メディア束ねてっとこにちょっと鼻薬を効かせりゃ、ね?」

 朱鷺光はそう言うが、淳志は不審そうに朱鷺光を見るのをやめない。

「さて、とりあえず、まずは冷めないうちに、メシ、メシと」

 朱鷺光は、それを誤魔化す意図かそうでもないのか、言いながら、カレーに手を付け始めた。
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