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喜んでくれれば、それでいい

中編

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 何事もなく公園を通り抜けた頃には、なんとか調子を取り戻していた。記憶がフラッシュバックしていた僕を見て、彼女がどう感じたのかは分からないが、あの妖艶な笑みを再び見てしまったことにより僕の心臓の奏でるリズムがどことなく変調してしまったような感覚を覚えていた。

「さて、と」

 気合いを入れるつもりで、小さく声を出す。その声に気付かない嶋村さんではなかったが、敢えて聞かなかったことにしてくれたようだった。

 もう間もなく駅前だ。少し早いがランチというのも悪くない。その提案を嶋村さんも了承してくれたため、駅前の店でファーストフード店にて胃に何か入れることにした。こういう状況下でファーストフード店を選択するというのもどうなのか。一瞬考えてしまったが、バイトもしていない学生の小遣いなど高が知れているし、変に気取ったお店には行きたくないという彼女の意見を尊重した結果だ。嶋村さんはサンドイッチをメインにした店が一番のお気に入りだという。実は僕が知らない間にオープンしていたので、行ったことがないことを告げると是非行こうと勧めてくれた。ランチタイムということもあり、店内はそれなりに繁盛しているようだ。慣れた雰囲気でオーダーをする彼女の姿を参考にしながら、見様見真似で注文を済ませた。

「意外そうって顔してるね。私だって、まだ肱川君と同じ十六歳なんだから、友達と行ったりするよ」

 どうやら僕は考えていることが顔に出ているらしい。何度想像しても、彼女がファーストフード店で食事をしているというイメージがどうもしっくりきていなかったのだ。昼食の時に一緒に食べている弁当だって普段僕が母に作ってもらっているような、至って普通のものだ。まだまだ『彼氏』として考えが甘いというか、変に肩肘を張ってしまっているのだなと自省の念が浮かんだ。

 注文を受け取り、席に座った僕達はこれからどうするかとか、連休明けの授業の話をしながら昼食に取り掛かる。上品に長楕円形のサンドイッチを食べているときの嶋村さんでさえ、妙に絵になるなと思ってしまう。なんだかファーストフード店独特の光量の強い照明や窓から入り込む自然光すらも、彼女の美しさを際立たせているようだった。それにしても、小綺麗に清掃された店内のボックス席に向かい合わせで座っていると、すぐ近くに存在する彼女の浮世離れした美貌に改めて焦りを覚えてしまう。屋上での僕たちは基本的に隣り合って座っていたし、並んで歩く時もすぐ隣に彼女がいた。やりようによっては幾らでも目を背けてしまえたのだが、こうやって彼女を正面から見てしまうとそうはいかない。

 切れ長の目の奥に光る眼。一切の無駄がなくすらりと伸びた鼻。瑞々しく潤った唇と、見るものを振り向かせるキメの細かい絹のような黒髪。それらが黄金比のように組み合わさることで生まれた、まるで美術館の奥に存在する名画のような神々しささえ感じてしまうほどに可憐で美しい彼女の姿は、改めて僕なんかとは確実に釣り合わないな、とつくづく思う。

「ここからスタートね。肱川くんの行きたいところ、楽しみにしてるわ」

 野菜が多めのサンドイッチを上品に食べ終わった嶋村さんは、黒髪をかき上げながら柔らかく微笑む。彼女を本当の意味で楽しませるというのは難しいかもしれないが、僕の中ではとあるプランが浮かんでいた。

「期待しといてくれ、とは言わないけど考えついたよ。ここからそんなに遠くないし、パパっと行こうか」

 なんのことはない。僕が嶋村七海という女の子の事をもっと知りたいように、彼女も肱川統義を知って欲しかった。自分が好きなものを彼女に教えることが出来れば、彼女もそれに応えてくれるような気がしたのだ。もっとお互いに関して知ることが、今の僕たちには必要なのだ。

「最近はなかなか行く機会がなかったからね、ちょっとだけ見せてほしいんだ」

 ファーストフード店を出て、少し歩いて裏通りに入りかけたところにあるビルの一階の自動ドアを開く。そこにあるのは、行きつけのCDショップだ。大衆店にありがちなアイドルソングやJ-POPはただの一枚も存在せず、この店に置かれているのはロックのみというある意味とんでもない品揃えだ。実利を完全に無視したラインナップは店長の趣味らしいが、よくあるCDショップとは全く違う雰囲気に、嶋村さんは一瞬だけ目を白黒させた。

「こういうの、好きなんだ」

 実はね、と後頭部を掻きながら答える。顔の中心が熱い。人に好きなものを明かすことのなかったので、やはり気恥しさのようなものを感じる。人によっては理解することも出来ないし、敬遠することもある。ある意味賭けでもあったのだが、嶋村さんは興味深そうに新譜コーナーあたりを見回していた。

「あんまりこういうの聴いたことないんだけど、なにかオススメとかあるの?」

 悲しいことに男という生き物、それも自分の得意な領域に足を踏み込んでこられた経験が少ない人間はこのような質問に非常に弱い。人の意見というものを無視してひたすらに自分の知識を語りたい。早口で自分の引き出しの中身をひけらかし、凄いと思われたいのだ。それが嫌われる要因になるということを理解していないから、尚更それが止まることがない。止めることが出来ない。肺を通り抜け、気道から外へと吐き出されようとした瞬間、それを思い出して大量の言葉を強引に塞き止める。それは僅か二秒の出来事であった。それでも歯の間から漏れ出る言葉たちを直前で殺し尽くした僕は、静かに口を開く。

「今僕が一番好きなのは、『マキネッタ』かな」

 喉の奥がムズムズする。やれ歴史がどうとか背景がどうとか、彼女にとってはただのノイズなのだ。本当は語りたい。一時間二時間どころか一晩中だって語りたい。デビューするまでに築き上げてきた彼らのバックボーンやデビュー時のエピソード。影響を受けたと思われるバンドや音楽のジャンルとか、逆に影響を与えた近年のアーティスト。語ることは本当に幾らでもある。しかし、それを言ったところで何にもならないのだ。意志の力で要らない情報を全て削ぎ落した結果、口から出た言葉は非常に簡素なものだった。まぁ、こういう時はシンプルな方がいいだろうと思うことにする。

「このCD?」

 彼女が無造作に手に取ったのは、最近発売したばかりの彼らのベストアルバムだ。今はインターネットを経由したダウンロード販売が主流になっているが、今でもCD派の僕は発売日に手に入れていたものだ。ちょうど試聴台にセットされていたCDを再生し、接続されたヘッドホンでメロディを聴き始めた嶋村さんは目を閉じて音楽の世界へと旅立っていく。トラック番号で何を聞いているのか完全に理解しているので、彼女がどのような旋律に耳を傾けているのかわかるが、普段オーケストラやオペラでも聴いていそうな彼女が僕と同じものを聴いている。それだけでなにか胸の奥に来るものがあった。

「いい曲ね」

 何曲か聴いていた嶋村さんは、丁寧な手つきでヘッドホンを試聴台に戻しながら感嘆の声を上げる。例えそれがお世辞でも、僕にとっては些細な問題だった。僕が好きな曲を嶋村さんが好きと言ってくれたという現実こそが、なんだか途轍もなく嬉しかったのだ。もしこの場に誰もいなかったならば小躍りしていたかもしれない。

「このCD、持ってるの?」

 だからこそ、嬉しさを隠しきれずに彼女の言葉に大きく首を縦に振ってしまった。行動の直後に舞い上がっていることを改めて感じるが、もうこの際どうでもよかった。嶋村さんが喜んでくれれば、それでいい。

「今度貸そうか?」
「いいの? じゃあ、お願いしようかな。連休明けにでも持ってきてくれる?」

 僕の提案に、嶋村さんは微笑みながら応える。このアルバムはすぐに持っていくとして、出来るのならば彼女の要望に併せて幾らでも見繕って渡したい。押し付けになってしまいそうだが、そうならない程度に布教したいのが男のサガなのだ。

「勿論!」

 つい大きくなってしまった返事の声を誤魔化すように咳払いをする。今の時刻は午後二時……まだまだ始まったばかりだ。公園を歩いていた時はどうなることかと思ったが、何事もなく楽しい一日を過ごせそうだ。
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