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潤いが欲しいのよ

後編

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 窓から入る太陽の光に照らされた彼女の笑顔は、ありとあらゆる芸術を遥かに凌駕するほど神々しく、ぞっとするほどに美しく見えた。今まで見てきた嶋村七海という人物が見せてきた様々な表情のなかで、今の彼女が浮かべている笑みが一番美しかったのだ。彼女になら、殺されてもいい。圧倒的な美貌に、そんなことさえ思ってしまうのだ。蜘蛛の巣の中心で動くことをやめた僕の手の甲に、嶋村さんが爪を立てた。手に走る鋭い痛みが、今の僕にはなんだかとても心地良く感じる。

「やっぱり、そうなんだな」

 美しいという言葉さえも野暮ったく感じるほどの神々しさを纏った嶋村さんが、妖艶に微笑んでいる。誰も見たことのないであろう今の嶋村七海という存在は、最早神話の存在のような冒すべからずものに見えていた。そして、未だに暴れ回っている脳の側面の方から、先日の口付けのときに覚えたどす黒い感情が再びゆっくりと煮えはじめていく。彼女が美しければ美しいほどに、蹂躙してしまいたくなるのだ。汚したくなるのだ。もし彼女に消えない傷跡を付けてしまったなら、彼女はどういう顔をするのだろうか。悲しむのだろうか。怒るのだろうか。軽蔑するのだろうか。それとも、喜ぶのだろうか。想像するだけで身体の一点に血液が集まりそうになっていく。

「だって、見てたでしょう。あの時、あの場所で」

 そんな僕の情欲を見透かしているかのように、嶋村さんの口角が更に上がる。彼女は何もかも気付いていたのだ。僕はもう、頭の先までどっぷりと嶋村さんという存在に浸かりきっている。彼女の温もりと柔らかさに満たされた僕は、もう彼女なしでは呼吸すらもままならないだろう。何もかも、僕の魂は嶋村七海に依存しきっているのだ。この眼に見つめられる為ならば、この手に触れられる為ならば、今の僕はきっとなんでもしてしまうのだろう。跪くことも、自身の全てを投げ出すことすら。

「なんで」

 それでも、ほんの僅かだけ残っていた理性が答えを求めた。掠れきって自分のものではないような声ではあったが、なんとか嶋村さんに届いたようだ。顎に指を当て、考えるような素振りをした彼女は数秒後に小さく息を吐いた。

「うーん……強いて言うなら、潤いが欲しいのよ。前に肱川くんに話したじゃない。私にとって、生きていく上で必要なものが潤いだって。退屈を、壊してくれるもの。何も起きずに、波風を立てずに、ただ一日一日を漠然と生きていく。そんなこと、あってはならないのよ」

 彼女が何を言っているのか、よくわからなかった。潤いを求めるのと、森本さんを傷つけたこと。その二つがどうして関連付けられるのか。それが僕には理解できなかった。彼女の言葉に何も答えられなかった僕は、息を吸うことしか出来なかった。それでも時間は刻々と過ぎていく。何も言わない僕たちの間を壁掛け時計が時を刻む音が通り過ぎていく。相変わらず妖美な笑みを浮かべている嶋村さんが、もう一度息を吐く。彼女の吐息の熱さを微かに感じながら、僕は再び彼女の言葉に耳を傾けた。

「一年が三百六十五日あって、人は大体八十年生きる。つまり人生はたったの二万九千二百日程度しかないのよ。そのうち自分のやりたいように過ごせる期間なんか、もっと少ない。それなのに、一日たりとも無駄にしてはいけないっていうことを知らない人があまりにも多すぎると思わない?」

 僕の手を握る嶋村さんの両手の力が強くなる。少し体温が高い彼女の掌で僕の左手が熱せられていく。心地よい温もりと、鼓膜を震わせる甘美な声に意識が吸い込まれそうになるのを必死に堪える。漠然と生きたくないのはいい。毎日を無駄にできないのもいい。だがそれは嶋村さんの意見であり、僕はそれを最大限に尊重していきたい。だが、それでもだ。だからって誰かを傷つける理由にはならない筈だ。

「本当は、肱川くんもわかってるんじゃない? 私の『コイビト』なんだから」
「……わからないよ」

 どうにかして目を逸らそうとしたが、それは叶わなかった。僕の身体はまるで金縛りにあったかのように硬直していた。僕の眼球は嶋村さんの蠱惑的な笑みにピントを合わせたまま、動くことはない。嶋村さんは僕の手の上に両手を乗せたまま、じりじりと近づいていた。いつの間にか僕たちはお互いの吐息を感じるほどの距離で見つめあっていた。

「私はね、誰かを傷つけないと満足できないの」

 表情を変えることなく、笑顔のまま放たれたその言葉を一語一句違わずに聞き取れても、それを理解することはできなかった。それも彼女にはお見通しなのだろう。一拍も間を置かずに、嶋村さんは言葉を続けていく。

「みんなそうでしょ? 誰だって何かを殺して生きているのに。普段食べるお肉だって、動物の生命じゃない? 植物だって、立派な生命。地球を一つの命と例えるなら、普段踏みしめている地面もバラバラになったこの星の欠片みたいなものでしょ? その事実を実感しないと、渇いていくのよ。私はね」

 言っていることが滅茶苦茶だが、どこか納得している自分も確かに存在した。ありとあらゆる無数の屍の上に、僕は立っている。僕が普段聴くロックミュージックだって、星の数ほどのグループが誕生しては、夢破れて消えていく。そういった競争の中でCDや音源が売れていくことによって、彼らは生きていくのだ。

 生きていく上で、彼らのように蹴落とし蹴落とされる日々の中で『生』を実感する時は存在することなのだろう。言葉に詰まる僕に向けて、嶋村さんは笑みを解く。真面目な表情をしていたが、彼女の眼は更に強く輝いていく。ほぼ全てが狂気を塗り潰された彼女の瞳に映るのは、微かに湾曲した僕の顔だった。

「誰かを傷つけて、誰かに消えない傷をつけたとき。人生をめちゃくちゃにしちゃったんだって実感したとき。私は潤うの。私の人生が、輝いていくの」

 まるで荘厳な歌劇オペラでも奏でるように語る嶋村さんの目が爛々と輝いていく。その輝きに魅せられた僕は、呼吸すらも忘れそうになっていた。

「肱川くん——あの夜、あの場所で、貴方の眼を見たときに確信したの。貴方と私は、根本的なところで同類なのよ。人生に潤いを持たせるために何かを、誰かを壊して蹂躙したい衝動。それが胸の奥の奥の奥の奥に沈澱してる。だから貴方と付き合うことにしたの。貴方がその衝動を理解して、満たしていく瞬間を見たい。そう心から思ってしまったのよ」
「僕は――」

 どうにか呼吸をしながらなにか反論しようとしたが、出来なかった。気付いてしまったのだ。彼女の瞳に映る僕の顔は、彼女と同じ眼をしていたことに。脳の内側から溢れ出そうになるのを必死に抑え込んでいた筈の、目の前の美の結晶を粉々に砕いてしまいたい狂気。二つの狂気の視線が混ざりあい、蜘蛛の糸の粘度を更に増やしていく。
 身動きすらも叶わなくなった僕に向かって、嶋村さんは小さく声を出して笑う。その笑い声は僕の耳孔に入り込むより早く、脊髄を震わせる。僕は脳が知覚するよりも早く、反射的に彼女の声を受け入れていた。そして彼女も、僕を受け入れてくれるだろう。僕の衝動を受け止めてくれるだろう。

「ふふ。貴方がやりたいことは、なに? 何もかも壊してしまいたい時、貴方はどうするの?」
「やめてくれ……!」

 それでも、僕は嶋村さんを傷つけたくないのだ。それが所詮、砕け散った破片が自身に刺さることに怖気付いているだけというただのエゴイズムということは理解している。それでも口に出てしまった懇願であったが、嶋村七海に届くことはなかった。

「もしかして、こういうこと?」

 嶋村さんが静かに離れる。彼女の温もりが消えたことを認識するよりも先に、僕の心臓は再び縮み上がる。音もなくベッドの上に移動していた嶋村さんは、再び声をあげて笑う。

「ふふ」

 衣摺れの音が妙に艶かしい。ブレザーを脱ぎ、静かにシャツのボタンを外す嶋村さんから視線を外すことができなかった。側頭部からヴァンダリズムを謳う叫びが、どんどん増えていく彼女の肌色の割合に比例して大きくなっていく。嶋村さんは裸足を伸ばし、僕の胸板あたりを軽くなぞる。手で振り払うことをできたが、彼女の官能的な動きに理性などとっくに遥か彼方へと吹き飛んでいる。それでも微かな躊躇いだけが僕を押さえつけていた。

「いいよ、肱川くんだったら。それが貴方の望みだったら、何もかも受け入れてあげる。全身全霊を持って叶えてあげるわ。だって私は、肱川くんの『恋人』なんだもの」

 何もかもが無駄な抵抗だった。彼女の言葉と、ちろりと出した彼女の舌を見た瞬間、大脳の先端の方で何か決定的なものがばつりと切れる音がした。脳の内側が爆発したような抗えない衝動のままに嶋村さんの肩を掴む。加減などできるはずはなかった。彼女を力任せに壊すつもりなのだ。蹂躙するつもりなのだ。冒し尽くすつもりなのだ。側頭部の声に従うままに、僕は嶋村さんを押し倒した。

 乱暴に服を剥ぎ取り、露わになった白い肌に噛みつき、あらゆる場所に歯を立てる。時折耳元で聞こえる彼女の熱い吐息よりも、苦しげに呻く声の方が僕の衝動を加速させていく。身体中に絡みつく蜘蛛の糸で動きは幾らか鈍いが、完全に箍が外れてしまった僕の身体は、欲望のままに彼女の身体に喰らい付く。口に含んだ嶋村七海の肉は柔らかく、例えようのない味がした。

 まるで知性の欠片もない肉食動物になったようだ。それでも嶋村さんは拒まない。僕も止まらない。止まれない。乱雑に食い散らされた姿になった彼女の足首を掴む。力加減などせず、乱雑に僕の手に収められたそれは彼女の汗でしっとりと濡れていて、僕の衝動を更に膨らませていく。もう止まることはない。止められない。脳のあらゆる場所から止めどなく溢れてくる破壊衝動に身を委ねた僕は、そのまま嶋村さんの身体の中心を一気に貫いた。

 もう戻ることが出来ない分岐点を超えた。超えてしまった。嶋村さんの苦悶に満ちた呻きと微かな笑い声が、毛先ほどに残されていた僕の理性に向かってそう告げていた。
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