南風に恋う

外鯨征市

文字の大きさ
8 / 13

第8話

しおりを挟む
「この『センチュリア』というタイトル。これは百年という意味だ。スウェアリンジェンの楽譜を多く出版していた会社の創設百周年を記念して作曲された。世紀のことをセンチュリーというだろう? 百年というものは歴史のひと区切りだ。この曲は明日から始まる新しい百年に期待する様子。そして過ぎ去ってしまったこれまで百年を惜しむ気持ちを描いている」
 ロミオウィンドオーケストラの集合練習の日。
 今日の練習も終わり、この時間は次に練習する『センチュリア』の予習をしていた。
「この曲は序奏、主部、中間部、主部、コーダの五つによる構成。いわゆるコーダ付き複合三部形式だ」
 楽曲の予習といっても実際に演奏するわけではない。
 指揮者がこの楽曲をどのように捉えているのか。どのように表現したいのかを団員たちに言葉で説明している。
「最初の主部では明日から始まる新しい百年に胸を躍らせている。そして主部の途中では過去に寂しさを感じるが、次にはまた未来に向かって歩き始める。だけどこの中間部。ここでは過去に未練を感じて足を止めてしまう。立ち止まって過去を振り返ってしまうんだ。どうにかして前に歩きたい。しかしどうしても過去に縛られているようで前に進めない」
 その中間部のメロディを宗太郎が歌ってみせた。
 それに合わせて鮫島は目で楽譜を追う。
 無意識のうちに指が動き、ピッコロのキーがパカパカと開閉される。
「そして最後の主部。ここではとうとう未来に向かって再び歩き始める。それは過去の未練を断ち切ったわけじゃない。過去を忘れ去ったわけじゃない。明日から始まる百年は過去の百年とは別物ではないんだ。過去の百年があったから明日からの百年がある」
 この曲はそういう心情を描いていると俺は解釈している。
 そう説明されたのちに今回の集合練習は終了した。
 鮫島はその場でピッコロを分解。足元に置いておいた荷物から整備道具を取り出し、ピッコロの管内に残った水蒸気をスワブで除去する。他の木管楽器の人たちも同じだった。金管楽器奏者たちはバルブに注油し、打楽器奏者は楽器の搬出準備をしている。
 いつもの片付け風景だが、それは一人の声によって空気が変わってしまった。
「大変だ! みんな!」
 それはグロ中尉だった。
 彼はトランペットを膝に置いたまま、スマホの画面を覗いていた。
「どうしたんだよ、グロ中尉」
 呆れたように聞いたのはハルトマン軍曹。
 付き合いが長いだけに彼のことはよくわかっているのだろう。
 しかしグロ中尉から聞かされたものは最悪のニュースだった。
「樹里ちゃんの動画が二週間後に削除される! SNSも消されるって!」
 練習会場は一瞬にして混乱状態になった。
 所属事務所はこれまでに何も言っていなかった。彼女の放送チャンネルもSNSもすべてがあの公式発表が出る前の状態で止まっていた。彼女が契約解除された後も彼女のコンテンツはそのままだったから、これからもそのままの状態で放置されると思っていた。
「全員今すぐに帰れ!」
 混乱している団員たちに指示を飛ばしたのは宗太郎だった。
「椅子も譜面台も俺が片付けておく! すぐに帰って一分でも一秒でも長く動画を見ておけ! 網膜に焼き付けておくんだ!」
 楽器を壊さないように慎重に片付けるんだ!
 気を付けて帰るんだ!
 焦って事故ったら元も子もないぞ!
 混乱しながらも帰宅を急ぐ団員たちひとりひとりに指揮者が指示を出していく。
「宗太郎さん、僕も片付けます」
「気にするな。俺がやっておく」
「でも――」
「俺はこの楽団の指揮者だ。いざという時に前線に出るのが指揮官の役目だ」
「僕だって一応は楽団長です」
「ほう、その役職を受け入れたか?」
「まだ納得はできていません。ですけど僕は一応楽団長なんです」
 鮫島はまだ自分の役職を受け入れることはできていない。
 どう考えたって、自分には荷が重すぎる。とうてい自分の能力では力不足だ。
 しかし片付けをひとりで引き受けようとしている宗太郎を残して帰ることはできなかった。
「僕もやりますから」
「時には仲間に背中を預けるのも大切だぞ」
 いくら片付けに参加する旨を伝えても断られてしまう。
「鮫島がするべき事は片付けじゃない。他にやるべき事があるだろう?」
 宗太郎は指揮者用の譜面台と椅子を両手に持って倉庫へと去って行った。
 片付けをせずに帰ることに申し訳なさを感じていた鮫島だったが、これは宗太郎なりの思いやりだろう。それならば彼の思いを無駄にするわけにはいかない。
 鮫島は急いでピッコロを片付け、他の団員に混ざって帰路を急いだ。

 ようやく自宅に帰り着いた鮫島はパソコンを起動し、慣れた手つきでいつものチャンネルへとアクセスした。
 ずらりと並んだサムネイル。マウスホイールを転がして過去の動画を漁る。
 全ての動画に視聴済みの表示が出ている。ひとつも残すことなく視聴している。さらに繰り返し何度も視聴していた。
 到底タイムリミットの二週間後までにすべての動画を見直すことはできない。鮫島は限られた時間を有意義に使おうと選りすぐりの動画を探していた。
 マウスホイールを転がしているうちにページの最深部に達していた。
 目に留まったのは彼女が活動を初めて二回目の配信だった。最初の配信は三十分にも満たない自己紹介だけのものだったが、その次の配信は視聴者のコメントを拾いながらファンの愛称などを決めていた。
 鮫島は無意識のうちにそのサムネイルをクリックしていた。
「それじゃあ次はファンネームを決めましょう」
 前回まで視聴していた続きから動画が再生される。
「ロミオ? それって『ロミオとジュリエット』のロミオだよね?」
 いいじゃんそれ!
 しっくりとくる愛称に彼女も満足している様子だ。

≪ファンネーム ロミオ≫

 決定事項として画面にその文字が表示された
「実は私、『ロミオとジュリエット』の映画見たことないの。小学校の音楽の授業で習ったからストーリーは知っているけどね。じゃあ次はイラストのハッシュタグ」
 イラストなどの作品をSNSに投稿する際につけるハッシュタグを決めるようだ。このハッシュタグをつけることによって検索しやすくなる。これによって他のロミオだけでなく、尾神樹里の元にもその作品が届きやすくなる。
 提案がコメント欄に流れていく

  お嬢様の肖像画
  樹里絵
  ジュリ絵ット

 コメントでは『お嬢様の肖像画』という案が多く流れていたが、彼女の目に留まったのはそれではなかった。
「『ジュリ絵ット』ってなんかよさげだよね」
 なんじゃそりゃ。
 ロミオたちからの評判はあまり良くないようだ。
「はい、他の意見は聞きませ~ん。ハッシュタグはお嬢様の私が決めま~す」
 しかし尾神樹里はそれを気に入ったらしい。
彼女は独断で強行的にそれを採用してしまった。
 そして鮫島は動画の音量をギリギリまで小さくした。
そろそろアレが来る。

≪イラストのハッシュタグ ジュリエッロ≫

 画面に決定したハッシュタグが表示される。
 しかしその決定事項は事故っていた。
 尾神樹里はその誤字に気付いていない。
 コメントでそれが指摘されるがなかなか気づく様子がない。
「ねぇみんなどうしたの? エロいとかやめてよ。私は清楚な少女なのよ。そんな言葉なんて――」
 きちんと音量を下げておいて良かった。
 自身が最悪な形の誤字をしていたことに気付いて彼女は叫んだ。
 それは『ロミオとジュリエット』というよりも『美女と野獣』と表現するほうが適切だろう。もちろん野獣のほうで。
 彼女は配信で野獣のような咆哮をあげていた。
 お嬢様キャラとしてデビューした尾神樹里だったが、初配信から通算わずか一時間未満でそのキャラが崩壊してしまった。
 彼女がキレ芸や下ネタを使うようになったのはこの配信からだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

とっていただく責任などありません

まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、 団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。 この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!? ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。 責任を取らなければとセルフイスから、 追いかけられる羽目に。

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)その後

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合つまた。 その後、大学を卒業した祐輔(ユウスケ)の新たなストーリーが始まった。 全15話を予定

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

姉の引き立て役の私は

ぴぴみ
恋愛
 アリアには完璧な姉がいる。姉は美人で頭も良くてみんなに好かれてる。 「どうしたら、お姉様のようになれるの?」 「ならなくていいのよ。あなたは、そのままでいいの」  姉は優しい。でもあるとき気づいて─

背徳のミラールージュ(母と子 それぞれが年の差恋愛にのめり込んでいく鏡写し)

MisakiNonagase
恋愛
24歳の市役所職員・中村洋平には、自慢の恋人がいた。2歳年上の小学校教師、夏海。誰もが羨む「正解」の幸せの中にいたはずだった。 しかし、50歳になる母・美鈴が21歳の青年・翔吾と恋に落ちたとき、歯車は狂い出す。 ​母の恋路を「不潔だ」と蔑んでいた洋平だったが、気づけば自分もまた、抗えない引力に引き寄せられていた。  その相手は、母の恋人の母親であり、二回りも年上の柳田悦子。 ​純愛か、背徳か。4年付き合った恋人を捨ててまで、なぜ僕は「彼女」を求めてしまうのか。 交差する二組の親子。歪な四角関係の果てに、彼らが見つける愛の形とは――。

処理中です...