天から送られた手紙

いずみたかし

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天から送られた手紙

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 ガヤガヤと騒がしい居酒屋の暖簾をくぐると、解放感に溢れた同僚達が話し込んでいた。
「浦川(うらかわ)さん、もう一軒いきませんか。」
 顔を赤らめた黒崎(くろさき)が声を掛けてきたが、私はその誘いを断った。仕事納めである今日はいつもより足取りが軽い気がした。ザッザッと雪を踏みしめながら歩く。私には家で待っている家族がいるのだ。



 私は雪が嫌いだった。豪雪地帯である私の故郷では、毎年冬になるとうんざりする程の大雪が降り、住民は除雪作業で苦労を強いられる。子供の頃は雪だるまやかまくらを作る遊びに興じ、雪との共生は嫌いではなかった。子供ながらに雪の結晶の美しさや儚さを感じ取っていたのか、愛着といっていいものが湧いていたのか分からないが、この先も雪と共に生きていくものだと思っていた。
 しかし、私が中学一年生の冬、私の雪に抱く印象は大きく変わった。祖父が雪崩に巻き込まれ、亡くなったのだ。私と同じく祖父が大好きだった祖母は、祖父の死の悲しみがあまりにも大きすぎて、祖父の死後は抜け殻のようになってしまった。祖父の死から半年後、祖母は祖父の後を追うように肺炎で亡くなった。
 いつも逞しく、私を守ってくれた祖父だけでなく、いつも優しく私を見守ってくれた祖母も雪によって奪われたように感じた。それ以降、私は友達と雪合戦やスキーをしたり、雪を見てはしゃいだりすることはなくなった。雪まつりやスキー等で楽しんでいる人達のニュースが目に入るとテレビの電源を消し、視界からシャットダウンした。私にとって雪は純白のきれいなものではなくなっていた。

 地元の高校を卒業後、私は東京の大学に進学した。
 その日は東京では珍しく大雪が降り積もり、電車やバス等の公共交通機関が大混乱した。普段は自転車で通学していたが、雪のため、歩いて帰宅する途中、一匹のやせ細った猫が雪の上に縮こまって、ブルブルと震えているのが目に留まった。
 鞄に入っていたパンをちぎって、猫の前に差し出しても、食べようとしなかった。首輪はしていないが、猫は頭を撫でてもその場を動かずに目を細めていた。猫をよく観察してみると、顔や体に傷があった。じっと見ていると猫は雪に小便をして、自ら小便をした雪の匂いをクンクンと嗅ぐと、口を四角にして固まっていた。
「大丈夫ですか?」
 一人の女性が声を掛けてきた。彼女の真っ直ぐな眼差しに私は目を奪われた。
「僕は大丈夫ですが、猫が・・・・・」
「病院に連れて行きましょう」
 彼女の後押しもあり、二人で猫を動物病院に連れて行き、診察を受けた。医師によると栄養失調を起こしているとのことだった。
「雪を見ると、ワクワクする気持ちもありますが、なぜだか寒い想いをしている人や苦しい想いをしている人がいるってことを想像してしまいます」
 猫の治療中に待合室で待っている間、突然彼女が切り出した。唐突だったが、不思議とその言葉は私の心に染み込んでいった。それまでは雪について考えることや話すことを避けていたが、その時は雪について二人で話をした。「雪は天から送られた手紙である」という言葉があると聞き、私は何故か救われたような気持ちになった。
「この猫は僕が飼います」
 猫の治療を終えた後、私は彼女に告げた。私が抱き上げていた猫は私の腕からするりと抜け、雪の上に飛び乗ると、再びジャンプし、彼女の肩に飛び乗った。彼女は少し驚いたが、喜んで猫の頭を撫でると、猫は満足そうな表情を浮かべた。
「時々猫を見に行ってもいいですか?」
 彼女は笑顔でそう告げた。

 大学を卒業して二年後、私は彼女と結婚した。銀行に勤めて十年が経過した頃、私は人事部への異動を告げられた。人事部で私がやることになった仕事はリストラ対象になった社員にクビを宣告するというものだった。
 人事部への異動後、私は頭を悩ませながら、仕事を遂行したが、クビになった社員のその後を想像すると、眠れなくなることが多くなった。ある日、人事部での仕事内容について妻に打ち明けると妻は微笑んでこう返した。
「あなたにはそんなこと似合わないわよ」



 あの時の妻の一言のおかげで、私は銀行を辞め、今の会社に転職することができた。
家で家族が待っている。私は雪を踏みしめる足に力を込めて、家路を辿る。
 家の玄関をギィーと開ける。家の中は真っ暗で静まりかえっており、冷え冷えとしてる。家で待っているのは私の家族ではなく、救いようのないロクデナシの家族だった。



 一か月前の出来事だった。同僚達と居酒屋に入り、ビールを飲みながら仕事の話をしていると、後ろの席からの大声での会話が私の耳に入ってきた。
「俺達若い頃スゲー苦労したよなー」
「うんうん、諒(りょう)すごい頑張って乗り越えたよね」
「だよなー、お前らも若いうちに苦労しとけよ。それが人生の糧になんだからな」
 先輩が後輩に自分語りをするという居酒屋でよくある会話だと思って、私は耳を傾けていた。
「でもよー、人跳ねちゃった時はもうダメかと思ったよなー。でも今は反省してたくさん苦労して、こうして楽しく酒が飲めてハッピーって感じ」
「でもさー轢きたくて轢いたわけじゃないのに、諒も私もすごく苦しい思いしたよね。世の中理不尽だよねー」
 お酒を飲んで熱くなったはずの私の体が一瞬にして冷えていくように感じた。
「まーでも、今日はそんなこと忘れてはじけようぜー。乾杯―」
 おそるおそる後ろを振り返ると、三十代半ばと思われる夫婦が満面の笑みを浮かべながらビールジョッキを高々と持ち上げていた。
  間違いない。
 私は確信した。そして私の心の奥底にある冷え冷えとした感情が私を支配した。
 三十代半ばの夫婦が居酒屋を出ていくのを見ると私は同僚達との飲み会を抜け、夫婦の後を付けた。
 十五分程尾行を続けると、夫婦が人通りのない狭い路地に入るのが見えた。私は道路に落ちていた鉄パイプを握りしめ、男の頭を後ろから殴った。私の妻を飲酒運転で殺した男の頭を。
 女が騒ぎ出したので、女の方も鉄パイプで殴り、意識を失わせた。その後、私はその夫婦を自宅に連れて帰り、監禁した。

 七年前、東京で珍しく雪が降った日、私の妻はスーパーでの買い物の帰りに飲酒運転による轢き逃げで亡くなった。裁判では、被告が初犯であること、大いに反省の態度が見られることが考慮され、執行猶予がついた。犯人への憎しみももちろんあり、判決には不満があったが、当時の私は妻がいなくなった喪失感で、何もする気力が起きない空っぽの人間になってしまっていた。
 だが、一か月前に居酒屋で犯人とその家族を目の当たりにすると私の中のドロドロとした黒い感情が動き出した。
  反省なんて一切していない。
  自分のしたことを分かっているのか。
  妻はもう戻ってこないんだ。
 それらの禍々しく行く当てのない感情は、私の体に犯人を殺すことではなく、犯人を生きたまま苦しめることを命じた。



 仕事納めの日の忘年会から帰り、誰もいないリビングの電気を付ける。リビングには何一つ家具は置かれていない。
 リビングに入り、切れ目の入った床板を外すと、手錠と鎖でつながれている夫婦が怯えた目で私を見て、ガクガクと体を震えさせている。
 鉄パイプで犯人とその妻の手足をこれでもかというぐらいに殴りつける。殺された妻の苦しみ、私の憎しみを味合わせてやる。こいつらは永遠に苦しみから解放されてはいけない。
「あなた」
 外から声が聞こえた気がしてハッとした。
慎重にカーテンを開けると、外には誰もいなかったが、雪が舞っていた。
  「雪は天から送られた手紙である」って素敵な言葉だと思いませんか?
 妻の言葉を反芻して、目を閉じる。
「あなた」
 妻の声が聞こえた。目を開けると窓の外に妻が立っている。
「あなたにはそんなこと似合わないわよ」
 妻が微笑んでそう言った。私は鉄パイプを落として、膝から崩れ落ちた。目から涙が零れると共に、妻からもらった暖かい感情が私の中に染み込んでいった。(完)

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