地獄0丁目

XCX

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35 融解

「ヴィカちゃんッ!」

 静かな図書室に突如響き渡った声に、ヴィカは机に広げた本から顔を上げた。ジェシカの姿を視認した刹那、彼に抱きしめられる。苦しい程の抱擁に、ヴィカは既視感を覚えた。

「ジェシカさん、どうかしたの…?」

 取り乱した様子のジェシカを落ち着かせようと、彼の腕を優しく叩く。

「どうしたもこうしたも…!」
「ジェシカ様、室内ではお静かに願います」

 ジェシカは鋭い睨みをきかせた司書を横目で見ると、大きく息を吐いてヴィカの隣の椅子に腰かけた。

「ヴィカちゃんあなた、陛下の求婚を受け入れたんですって?」

 頷いて肯定すれば、ジェシカは額に手を当ててうな垂れた。彼の苛立ちを感じる。ヴィカは不安に見舞われた。

「それは…熟考した上での事?」
「…あの、おれ、またいけないことした…?」

 やはり自分なんかがツヴェーテの隣にいてはいけないのだ。身の程をわきまえてないせいで、ジェシカの怒りを招いてしまった。優しくしてくれたのに、恩を仇で返してしまった。
 胸を締め付けられているかのような苦しさを感じて、無意識に俯いてしまう。

「ああ、あなたに怒ってるわけじゃないのよ」

 ジェシカはヴィカの頰を両手で優しく包み込み、少年をあやした。

「陛下に怒っているの」
「…え?」

 意外な返答に、ヴィカはきょとんと目を瞬かせた。

「ああもう、思い出しただけで腸が煮えくりかえりそう!あのねえ、ヴィカちゃんあなたは自分の意思とは関係なしに、番の契りを結ばされたの」
「つがいの、ちぎり?」

 頭を傾げるヴィカに、ジェシカは時間をかけて丁寧に番の契りについて説明を行った。結び方から解消のやり方、呪いの契りと言われる所以まで。

「二人の婚姻を否定している訳じゃないの。むしろ祝福するわ。けどね、陛下のやり口に我慢がならないの!ヴィカちゃんに何の説明もなく、己の思うがままに物事を進めようとするその横暴さ!」

 話を聞きながら、そういえば、とヴィカはある記憶に思い至った。ツヴェーテの血を混ぜた薬を飲む前に、彼に血を吸われた。まだ地獄に来たばかりのことだ。
 ジェシカの言い分はもっともで、彼が憤慨するのも理解できる。だが、ヴィカが憤りを感じることはなかった。むしろその逆だった。ヴィカの全身は、限りない喜びに満ちていた。
 心が壊れたせいでろくに口もきけなかったと言うのに。自分がどんな人間かもわからないと言うのに。そんな時からツヴェーテに伴侶として迎えたいと思われていたのかと思うと、口元が緩む。

「…もう。そんなに嬉しそうな顔されたら、陛下を責めるに責められないじゃないの」

 頰の肉を指で摘まれる。面白くないと言わんばかりに、目を細めて唇を尖らせるジェシカに、ヴィカは謝罪した。

「あの、でも…おれのために怒ってくれて、ありがとう。すごく嬉しい」

 少年の無垢な微笑みに、ジェシカは毒気を抜かれた。王に対して激昂していたことが馬鹿馬鹿しくなったのだ。

「何かあったら、いつでも第三階層にいらっしゃい。私はヴィカちゃんの味方だから」
「ありがとう、ジェシカさん」

 青年は少年に寄りかかると、頬ずりをした。くすぐったそうに、ヴィカが笑い声をあげる。

「ヴィカちゃんの婚礼衣装は腕によりをかけて作るから、期待してて頂戴」
「え?…婚礼?」
「そうよ。地獄の王が伴侶を娶るんだもの。豪勢な婚礼を行って、皆でお祝いしなきゃ!」
「え、あ、み、みんなって、どれくらい…?」
「文字通り、地獄の住人全員よ!勿論九貴族も一堂に会するわ」

 こんな機会でも無いとなかなか集まれないのよねえ、と楽しそうな様子のジェシカ。だが一方で、ヴィカは彼の言葉に圧倒されてしまい、一言も発することができなかった。


 *************


 風呂も終わり、あとは眠るだけとなった頃、ヴィカはツヴェーテによって室外に連れ出された。不思議に思いながらも後に続き、とある部屋に通された彼は驚きに思わず声を漏らした。
 見覚えのある、豪奢な家具や装飾。ツヴェーテが人間界まで助けに来てくれた、あの日に入った部屋だ。

「ここ…」
「俺の部屋だ」

 後ろ手に扉を閉めながら、ツヴェーテはヴィカの疑問に答えた。
 ツヴェーテの部屋。心の中で呟きながら、少年はぐるりと辺りを見回した。ふと、中央に配置された大きな寝台が目に留まる。その瞬間、あの夜の出来事が彼の脳裏をよぎった。濃厚な口付けを交わして、肉体の触れ合いをした。顔は瞬く間に真っ赤に染まり、ヴィカは恥ずかしさでその場に直立不動となった。
 それに気がついているのかいないのか、ツヴェーテはくすりと笑みをこぼして、寝台の縁に腰掛けた。

「ヴィカ、来い」

 ヴィカは、片手を伸ばして己を呼ぶ王の元へとゆっくり歩み寄った。硬直した体のせいで、同じ側の手と足が一緒に前に出てしまう。王の笑い声が耳に届いて、少年の緊張は更に増した。
 ツヴェーテまであと半歩の距離で、腕を掴まれた。引っ張られて、彼の脚の間に立つ形となる。腰に両腕が巻きつき、抱きしめられる。

「今日から此処は、お前の部屋でもある」

 言葉の意味がわからず、ヴィカは首を傾げた。

「明日を以って俺とお前は伴侶となる。この部屋で眠り、食事を摂り、生活を共にする」

 生活の拠点がこの部屋に変わると聞いて、くすぐったい気持ちになる。実を言えば、ツヴェーテの伴侶になると言うことはどういうことなのか、どんな意味を持つのか、よく分からない。実感もない。だが、一緒にいる時間が長くなるのは純粋に嬉しい。

「ジェシカから、番の契りについては聞いたか」

 体を抱き上げられて、いつものように膝の上に座らされる。ヴィカはこくりと頷いた。

「お前の意思を蔑ろにして、勝手に契りを交わしたことは悪かったと思っている。だがな、お前を守る為…」

 ヴィカは、釈明せんとするツヴェーテの唇を口づけで封じた。昼間のお返しだ。
 突然のキスで虚をつかれた王は、目を丸くした。あまり見たことのない光景に、少年の顔に笑みが浮かぶ。

「おれ、怒ってないよ。強引にされたこと、嫌だとも思ってない。契りを解消しない限り、ツヴェーテと一緒にいられるってことだろ?むしろ、嬉しい」
「ヴィカ…」

 大きな手で後頭部を撫でられる。

「おれ、痛いの…嫌だから、解消はしないでくれると助かる…」

 我が儘と取られるかもしれない、と少年の声は段々と小さくなっていく。だけどそれは紛れもなく彼の本音だった。

「無論だ」

 ツヴェーテはヴィカの頭に回した手を引き寄せた。額に王の唇が触れる。それはまるで神聖な誓いの儀式のように思えた。
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