地獄0丁目

XCX

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41 香油

 ツヴェーテの帰りを待つヴィカは、ルプスと遊びつつもどことなく緊張していた。朝の王の発言のせいだ。
 第二階層のオルテンシアからの贈り物である香油を使って可愛がってやると言われた。
 脳が沸くような、全身が馬鹿になって頭が真っ白になる程の快感の渦に飲み込まれた昨夜のような事を今夜もするのかと想像しただけで、羞恥に身動きが取れなくなってしまう。決して嫌ではない。ただ、どうすればいいのかわからないのだ。
 てっきり夜ご飯は一緒に食べるものと思っていたのだが、仕事が立て込んでいるのか、一人で食べることになった。いつ帰ってくるのかも知れず、余計に緊張が増す。

「ルプス~…」

 ヴィカは目の前でお座りするルプスの首元に抱きついた。顔を埋めれば、柔らかな毛並が頬を撫でていく。お日様のような匂いを胸いっぱいに吸いこみながら、ぐりぐりと顔を押しつけているとルプスが身じろいだ。

「あ、ごめん、ルプス嫌だったよね」

 腕の中からなくなってしまった温もりに肩を落とすが、その場で腹を上にして寝転がる黒狼に、ヴィカは目を見開いた。恐る恐る腹の毛を撫でれば、もっと撫でてくれと言わんばかりに、ふさふさの尻尾をぶんぶん振っている。

「可愛いなあ、もう!」

 興奮に頬を紅潮させた少年は黒い狼の体に飛びつくと、思う存分にその体を撫で回した。艶やかな毛に覆われていてもわかる、立派な筋肉をなぞるように手を這わせる。顎の下を優しく掻いてやれば、ぐるぐると気持ち良さそうな声が聞こえてくる。
 つい先程まで緊張していたことなどすっかり忘れていた。ヴィカはルプスとのじゃれ合いに夢中になるあまり、寝室のドアが開いてツヴェーテが戻ってきたことにも気がついていなかった。

「ヴィカ」
「あっ、ツヴェーテ!おかえりなさい」

 手招きされて駆け寄れば、腰を抱き寄せられて口付けを受けた。

「口を開けろ…」

 唇が触れ合ったままで、ツヴェーテが囁く。言われた通りに口を開けば、口付けがより深いものになる。舌で口の中をぐちゃぐちゃにされると、脳天までビリビリとしたものが駆け上ってくる。
 ひどく気持ちが良くて、ヴィカは自分からもツヴェーテに体を擦り寄せた。

「…は、ぁ…」

 体が離れると、互いの唇を銀の糸が繋いでいた。それをツヴェーテが舌で断ち切る。そのまま唇を舐め、まるで悪戯っ子のような顔で笑みを浮かべる王に、どきっとした。
 そこでヴィカは今朝のやり取りを思い出した。途端に恥ずかしさに見舞われ、少年の顔は見る見るうちに真っ赤に染まった。ツヴェーテの手が、熱を持った頰を優しく撫でる。

「湯浴みは未だだろう。入って来ると良い」
「…う、うん…」

 風呂上がりの後のことを想像してしまい、返事が歯切れの悪いものになる。

「共に入るか?」
「えっ?」
「体を洗ってやろう。隅々まで、な」
「…ゃ、ぁ…」

 低く甘い声が耳に吹き込まれる。ツヴェーテが手を体に這わせて来て、口から変な声が漏れた。

「じ、自分で入る…っ!」

 ヴィカは思わずツヴェーテの胸に当てていた手に力を入れて突き飛ばした。と言っても一回り以上も違う体格差に、目の前の体躯は一歩後ろに下がっただけだった。
 だが腕の力が一瞬緩んだのを逃さず、ヴィカは寝室と続き部屋になっている浴室に向かって駆けた。背後からは、ツヴェーテが喉を鳴らして笑う声が聞こえていた。


 *


 のぼせる寸前まで湯船に浸かっていたヴィカは、貰ったばかりのジェシカからの寝巻きに身を包んで室内に戻った。
 長椅子に座って書類か何かに目を通していたツヴェーテが立ち上がり、近づいて来る。

「随分な長風呂だったな。のぼせていないか、様子を見に行こうかと思っていた」
「あ、ごめんなさい…」
「謝る必要は無い」
「ん」

 両頬を手で包み込まれる。温まった肌に触れるツヴェーテの手はひんやりと冷たくて、気持ちがいい。
 王に促されて、王后は鏡台の前に座らされた。
 首を傾げる彼の前に、小さな硝子瓶が置かれる。それを目にしたヴィカは固まった。紛れもなく、オルテンシアからの香油だった。

「ヴィカ、お前に王后としての最初の仕事をやる」

 仕事、と聞いて居住まいを正すヴィカに、ツヴェーテは苦笑を漏らした。

「そう気負わずとも、俺の髪に香油を塗布すれば良いだけの簡単なものだ」
「香油をツヴェーテの髪に…?あ!」

 少年は香油に添えられていた、オルテンシアの手紙の内容を思い出した。
 王の髪の手入れに使うのでも夜伽に使うのでも良し、と。確かにそう書かれていた。

「濡れた髪に、ほんの数滴の香油を馴染ませるだけで良い」

 そう言ってツヴェーテは硝子瓶を傾けて、掌に数滴の香油を垂らした。手を擦り合わせて、ヴィカの栗色の巻き毛に指を通す。次いでぽんと弾ける音と共に、濡れたままだった髪の毛が一瞬にして乾いた。ほんのりと花のような良い香りが空気中に漂う。
 香油の効果に、ヴィカは驚いた。艶が増しただけでなく、指通りも滑らかで全く引っかからないのだ。只でさえ己の巻き毛はよく絡まると言うのに。

「伴侶の身繕(みづくろ)いを行うのは、一種の愛情表現だ。どうだ、やってくれるか?」
「する!」

 伴侶からの問いに、ヴィカは振り返って何度も頷いた。まるで魔法のようだと言わんばかりに、宝石のような目がきらきらと輝いている。
 笑みを顔にたたえた王は彼の額に口付けると、浴室へと姿を消した。
 それ程長く待たず、ツヴェーテは寝室へと戻って来た。濡れた髪が肩に垂れ、前髪は無造作にかき上げられている。風呂上がりの彼の姿を目にするのは初めてだ。湯に浸かったせいなのか、肌が上気してほんのりピンク色に染まっている。
 王の醸し出す色気に、どきっとしてしまう。それに気がついているのか、ツヴェーテはヴィカと視線を合わせて微笑んだ。
 頬が熱くなるのを感じながら、ヴィカは黙って椅子を引いた。ツヴェーテがそこへ腰掛ける。ヴィカは先程の王の手順を真似て、香油を伸ばした手で長い髪に触れた。
 いつ見てもツヴェーテの髪は不思議な色合いをしている。根元から大部分は銀色で、毛先に流れるにつれて黄色 、橙、赤へと色が変わっている。灯の光を受けると、まるで髪そのものが輝いているかのようにも見える。彼はヴィカの瞳を美しいと褒めるが、彼の髪の方がずっと美しいと少年は思った。
 指を通せば、その細さと柔らかさに驚く。とても心地良くて、ずっと触っていたいと思わせる程だ。

「もう、いいかな…?」

 初めてのことに辞め時がわからないが、満遍なく香油は塗り込んだ。そろそろと手を離せば、先程と同様に濡れていた髪の毛が一瞬にして乾いた。王が立ち上がり、出来を確かめるかの様に己の髪に指を通す。

「ど、どうかな?」
「申し分無い出来だ」

 不安に少しどきどきしながら答えを待っていたヴィカは、ツヴェーテの言葉にほっと安堵の息を吐いた。

「出来る限り毎夜頼むとしよう」

 ヴィカは微笑んで、大きく頷いた。自分で役に立てること、誰かに喜んでもらえることがあるのなら、何でもやりたいと思った。
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