婚約破棄での再会

むしゅ

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幼き日の約束:婚約破棄での再会

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「大丈夫! 大丈夫よ、絶対に私が助けるからね」

 小さな女の子が、今にも落ちそうな幼い私の手を必死に握りしめている。

 女の子の顔は血で汚れ、ドレスには幾筋も切り裂かれたとが跡が見えた。それでも私を助けようと、崖から身を乗り出して手を握っている。

 宙吊りになった、私の足元から激しい川の流れる音が聞こえる。

「だ、誰かいませんか! 誰かいませんか! お願いです! お願い、誰か助けてください」

 女の子は両眼に涙をいっぱい溜めながら、狂ったように何度も何度も叫び声を上げた。

「も……もうだめ」

 私の手はもう限界だった。 

「だめよ、だめ! 絶対だめ、きっと助かるからね、お願い、諦めないで」

 女の子は小さな体で一生懸命引っ張ろうとするも、互いの手はゆっくりゆっくり解けていく。

 そしてついに、私たちの手ははなれた。

「……!!!」 

 女の子の絶叫が遠ざかってゆくのを聞きながら、私は川底に呑み込まれていった。




「大丈夫ですか」

 目の前にシャンデリアの光が差し込んできた。瞼を開けると若い給仕が心配そうにこちらを覗いている。

「大丈夫よ、ありがとう。それより水をくださる」 

 渡された水を一気に飲む。冷たさが喉を通って、心地よい冷たさが体を包み込んでいく。それと同時に声が耳に溢れてきた。

 大勢の男女の賑やかで楽しげな声。周りを見渡せば、綺麗な衣装を身を纏った紳士淑女が笑い合っている。向こうからは優雅な音楽が聞こえてきた。テーブルには豪華な料理が並び、壁一面には王家の紋章がゆらりとはためいていた。

 そうだったわね、今、私はパーティー会場にいたんだわ。 

 また15年まえに戻っていたみたい。3歳までの記憶のない私にとって、決まって思い出すのはあの場面だけ。時折こうして前触れもなく頭に浮かぶ。でもそう、何か決断する時に限って……。 

 私はふっと嘆息をつく。

 天井の光に手をかざした。今にも落ちそうなこの手を必死で握ってくれた女の子は一体誰だったんだろう。あれは現実の出来事だったのか、それともだたの空想なのか、それすら私には朧げだ。

 
 ふいに肩を叩かれた。

「アリシア、そろそろはじめるぞ」

 後ろを振り向くと、この会場で一際目立つ衣装を纏った公爵令息オルグ・ラフグレン様が立っていた。  

 そうだった、今そんなことを考えている時じゃないわ。これから私はやらなければいけないのだから。

 まもなく、この華やかなパーティーは様相を一変する。それを起こすのが私の役目なのだから。

 オルグ様は金色の髪をかきあげると、「いくぞ」と言って、パーティー会場の中央へと進み出した。

 彼が目指す先にいるのは、彼の婚約者、公爵令嬢ビアンカ・サマンフレッド。

 サマンフレッド公爵家は王国の大貴族の一つで、国の任命を受け新地や農地の開発に力を入れている。ビアンカ様はその由緒正しい公爵家の一人娘だ。

 ビアンカ様は付き人の方だろうか、老紳士を伴い、隣国の客人と話し込むのが見えた。

 私はもう一度右手に目をおろす。

 もしかすると、あの女の子は心の奥にあった良心の姿だったのかも……。今の私を必死に止めようとしてたのかもしれないわね。

 そう考えるとふっと自嘲気味な笑みが漏れる。

 でも、もう戻れない。家族を守るためですもの。これで皆が助かるなら、私はなんだってやるわ。

 手をかたく握り締め、オルグ様のあとへ続いた。


「ビアンカ・サマンフレッド! お前との婚約を今ここでもって破棄をする」

 オルグ様の一声で、談笑に包まれていたパーティー会場が一瞬にして静まりかえったのがわかった。

 一斉に皆の目が私たちに注がれた。

 オルグ様は周囲を満足げに見渡と、ビアンカ様を睨みつける。

 言われた当の本人ビアンカ様は驚いた様子もみせず、少し片眉を吊り上げると、ゆっくりと持っていたグラスをテーブルに置く。

 ビアンカ公爵令嬢様。初めて近くで見たけども、噂に違わぬ美しさだ。長い黒髪はまるで夜空のように煌めいている。美しく弧を描く眉に、すっと通った鼻筋。黒髪に隠れた片目がすごく神秘的に感じる。

 人間離れしたこの美貌からか、はたまた性格からか氷の令嬢と言われてるみたいだけど、青いドレスに包まれた彼女の姿は、まるで優美な天使のようにも見えた。

「これは何かの冗談ですよね? オルグ様」

 ビアンカ様は鋭い眼差しと共に、冷たくゾッとする声を発した。

 その声にたじろいだのか、オルグ様が一歩下がり、私にぶつかりそうにある。

 出鼻でくじかれでどうするの。私は覚悟を決めてここにいるのに。逃がさぬようオルグ様の腕に自分の腕を絡ませ、彼を再びビアンカ様の前にぐいっと押し出した。そして私も一歩踏み出すと、自分でも嫌になるぐらいの甘ったるい声をだした。

「ビアンカ様、愛しのオルグ様は、貴方との婚約を破棄をしたといおっしゃってるのよ」

 ビアンカ様はオルグ様から初めて私に視線をうつす。

「……あなた」 

 終始冷静だった、ビアンカ様の水色の瞳が大きく揺れたのが見えた。

 同時に、私は奇妙な錯覚に襲われた。

 周囲の景色が消え、何もない空間に私とビアンカ様だけが取り残されたかのような。


 ──大丈夫、絶対に私が助けるからね──


 ズキン

 一瞬、ビアンカ様とあの子の表情が重なって見えた。

 エッなんで……?

「うん? どうした、アリシア」

「い、いえ、何でもございませんわ」

 オグリ様にそう答えてみたもの、内心はなぜだか動揺している。

 なんだんだろう、今の感じは。 なんであの子とビアンカ様が?

 見ればビアンカ様も、なんだか戸惑った表情を浮かべていた。

「どうだビアンカ。アリシアの可愛さに見惚れたか」

 横にいたオルグ様は自慢げに私の腰をぐいっと抱き寄せる。

「え……ええ。とても可愛らしいお方」

「そうだろう、私はついに真実の愛に目覚めたのだよ! この会場にいる全ての者達に告げよう。私はビアンカにかわり、アリシア・プシャーリア男爵令嬢を新たな妻とすることをここに宣言する」

 オルグ様は大仰に腕を振り上げ、高らかに声を上げた。会場全体がどよめきに包まれる。

「先ほどから聞いてれば、あなたは公爵家の取り決めを反故になさるきですか! そのような発言許されませんぞ」

 ビアンカ様の付き人の老紳士が怒りの形相でオルグ様に詰めよった。

 怒るのは当然。あまりにも道理に反することを私たちは言ってるのだから。でもここまできたらもう後戻りはできない。

「家同士で決めた婚約など、愛などないただの契約ではないか。私たちの真実の愛の前ではそんなものはなんの意味もない」

「オルグ様は、貴族間の婚姻の意味を知っておられますか。両家にとってとても重要なことなのですよ」

 ビアンカ様はいつもの凛とした表情に戻り、オルグ様に厳しい眼差しを向けた。

「だから、それこそが古い考えだと言っているのだ! 家系や血筋がなんなんだ。私はアリシアを深く愛してしまったのだ、どうしようもあるまい」

「それは本気で仰っているのですか? ラフグレン公爵の嫡子として今述べたことの重大さを理解されてるのいるですか。ましてやこの婚約は王家からの承認も得ているのですよ」

 理解してるわけない。オルグ様の手を握っただけでわかるもの。なんの苦労もなく我儘一杯に育った手。すべてが自分の思い通りになって生きてきたのでしょう。

 だからこそ、このような場でこんな愚かで馬鹿げたことができる。でもその愚かな行為に加担する私も愚か。でもビアンカ様あなたもよ。婚約者をこんなになるまでほっておいたのだから……。 


「アリシア様、あなたも本当にこれで良いと思いですか?」

「はひっ?」

 突然、ビアンカ様に話を振られ、思わず間抜けな声が出てしまった。

「アリシア様、貴方のご意見をお聞かせいただけませんか」

 まるで私の心を見透かすように、水色の瞳で私をじっーと見つめるビアンカ様。悪意や敵意は感じられない。何が言いたいのだろう?  

「も、もちろんですわ! オルグ様を私を本気に愛してくださるのよ。確かに彼は公爵家で、私は身分が低い男爵家の立場だわ、でもそれぐらいの試練は乗り越えてみせますわよ」

 慌てて答える私に、ビアンカ様は首を横にふる。

「アリシア様、私は家格の高低は問題にしておりません。身分の離れた貴族同士が結婚した事例はいくつかあります。ただ、私は貴方のような方が、なぜこのようなことをなさるのかお答え頂きたいのです」

 私のような方ってどうゆう意味? ビアンカ様は私の何を知っているっていうの。こうして話すのも初めてなんですけど。

 言葉の駆け引きなのか、彼女の質問の意図が全く見えない。

「アリシア様、我が公爵家は役目はご存じでしょう。私の家は様々な領地に足を運び、領土調査を行っております。数年前に父に連れられて貴方の故郷である男爵領にも訪れたことがありますの。貴方の父であるプシャーリア男爵は聡明で素晴らしいお方でしたわ。その男爵が私の顔を見るたびに貴方のことをお話するです。とても明るく、温かく、人の気持ちがわかる自慢の娘をもってとても幸せだと」

 実のところは私は男爵の実子ではなく、小さい頃に拾われて養子になった身だ。でも男爵一家は私を温かく迎え入れ、大事に育てくれた。

 自慢の娘……。

 ビアンカ様から出た突然の養父の話に驚くも、普段知らなかった思いに触れて、思わず目元が熱くなる。

「また、男爵領を巡回した時、領民の方々にも話を伺いました。誰もが嬉しそうに貴方のことを話題にだすのです。いつも畑や牧草地を駆けずり回って私たちを助けてくれるんだと。ここの領民の方々はアリシア様を本当に我が子のように愛しているのだと感じましたわ。とても羨ましく感じたのを覚えています。あの日以来、私はいつかアリシア様にお会いしたと思ってましたのよ」

 領民たちの優しい笑顔が頭に浮かんだ。私は3歳の頃の記憶がない。河岸に倒れていた私を農家の夫婦が見つけて、家まで運んでくれたと聞いている。記憶を失い衰弱した私を、村の人たちは総出で看病してくれたそうだ。そのおかげでなんとか一命を取りとめた私は、元気になり、男爵の養子になる幸運にも恵まれた。記憶の無くした私にアリシア(煌めく光)と新たな名前もつけてくれた。

 私は彼らの恩義に報いるためにも、できることは進んで働いた。

 私はドジで不器用だから、いつも迷惑ばかりかけていたと思っていた、けど……みんなそうゆう風に思ってくれてたんだ。胸がじわっと熱くなる。ううん、でも、今は感傷に浸ってる場合じゃないわ。

 婚約者を奪おうとする私に、ビアンカ様は何をおっしゃりたいのだろうか。 

「き、急にそんな話を持ち出して、なんなの。私をバカにしてるの」

 思わずそんな言葉を口にしてしまう。

「申し訳ございません。ただ私が申し上げたかったことは、なぜアリシア様がこのような場で、こんな馬鹿げた行為をなされるのか、疑問に思ったのです。私の聞いていたアリシア様の姿と、また実際にこうしてお会いしてみても決してこのような振る舞いを進んでする方には思えませんでしたから」

 馬鹿げた行為……ビアンカ様の言葉にふと怒りが湧いた。私だってこんなことは本当はやりたくはない。

「貴方に何がわかるっていうのよ。……あなた達、貴族は何もしてくれなかったじゃない」

 思わず、口から呟きが漏れた。

「えっ?」 私の呟きに反応して、ビアンカ様が私に近づこうとした。それを手を伸ばしてオルグ様が阻む。

「ビアンカ、私たちの愛を馬鹿げた行為とはなんだ。そのような侮辱は許さんぞ! お前こそ最近は授業も出ずに遊び回ってばかりいると聞いてるぞ。それこそ淑女にあるまじき馬鹿げた行為ではないのか」

 険しい表情で詰め寄るオルグ様に、ビアンカ様はため息をつく。

「そのような噂を誰が流しているのは分かりませんが、私が授業を欠席している理由は、最近の凶作の原因を探るために各領土を巡察しているからです。学園からも了解を得ていますわ。オルグ様も地方の深刻な状況はご存知でしょう」

 凶作、そうこの国は今、いくつかの地方が大規模な凶作に見舞われている。私の男爵領もその一部だ。どこからか汚染物質が拡散し、川の水源が汚されたことが原因とも言われているが真相はまだ不明。

「私たち貴族がこのようなパーティーで過ごしている間さえ、多くの民が食料不足で苦しんでいるのですよ。今日は他国の要人が来られると聞いていましたので、私は飢饉対策の情報を得るために出席しましたが、この後はまた地方に向かう予定です」

 それを聞いた、オルグ様や周りの貴族たちはバツの悪そうに顔を歪める。
 
 私にはビアンカ様の言葉が胸にずしりと響いた。

 私の男爵領も農業が主な収入源であったため凶作の影響は甚大だ。領民の中には、日々の暮らしに苦しむものも出始めた。また地代が払えないため、都市に出稼ぎに行く者も増えている。当然、養父はそんな状況を放置するはずもなく食糧庫と金庫を開放し、領民に財産を分け与えたが、金はすぐに底を尽きた。

 養父は不眠不休で凶作の原因解明と、資金調達のため奔走している。けれど援助を求めた肥沃な土地持つ上流貴族は誰も手を差し伸べてくれない。どの貴族も口を揃えて「そんな余裕はないと」と養父を追い返した。

「ふん、偉そうにいうな。我が公爵家もいつも民のことは考えているぞ、お前以上にな」

 私の横でオルグ様は胸を張っていう。

 嘘だ。

 私の養父は真っ先にオルグ様の父上、ラフグレン公爵様に援助を求めたはずだ。私たち男爵領を含む地域全体の管理は大貴族ラフグレン公爵様が担っているからだ。だが、ラフグレン公爵様は養父の申し出を「今は鉱山の新事業に忙しく、金がない」と言ってにべもなく断ったのだ。

「おい、そうだったな、アリシア。真っ先に君のところを助けたのは私だったよな」

 私は無言で目を伏せる。

 確かに、オルグ様の働きかけで公爵家からようやく僅かな資金と食料の援助がおくられきた。しかし、それは条件付きだった。

 公爵家から呼ばれ、援助を期待し喜んで訪れた私を待っていたのは公爵令息オルグ様だった。オルグ様は私にこう告げたのだ。

「私はね、前から君を気に入っていたんだ。どうだろう、私のものになるつもりはないか。もちろん未来の私の妻としてだ。どうも、今の婚約者とは合わなくてね。あんな女はすぐに切り捨てるつもりではいるが……。そうだ! 君が了承してくれるなら、私がうまく父上を説得し援助を頼んでみようじゃないか! 君にとっても悪い話ではなかろう」 

 信じられなかった。援助を餌に結婚を申し込む貴族がいることに、また婚約者を切り捨てるなどと平然といってのけるその姿勢に。もちろん、私は丁重に断った。しかし、その日からオルグ様はしつこく私に婚約を持ちかけてくるようになった。 

 そんな中、凶作の波は止まることをしらず、ついに生活苦で亡くなる者まで出始めた。村はますます悲惨な状況になっていき、養父は頭を抱えて塞ぎ込むことが多くなった。私にはもはや選択肢が残されていなかった。

 絶望の中で、唯一の救いとなる選択肢がオルグ様の申し出だ。オルグ様には私にはない力がある。

 家族と領民を守るため、私は自らを犠牲にする覚悟で、公爵家の門を叩いたのだ。

 でも、目の前にいるビアンカ様は他の貴族とは違うのだろうか。彼女は被害にあった地方を救うため動いているという。

 貴族の言葉など信用できない、何度も騙されてきたからだ。でも私の胸がなぜかざわついた。

「ビアンカ、貴様は民を救うために、まるで聖女か何かのように立派なことをしてるつもりらしいが、お前が過去にした罪は消えることはないぞ」

「オルグ様!」

 付き人の老紳士が声を荒げる。 

 過去の罪?  

「いまだに、探しているそうじゃないか、小さい頃に消えたお前の妹を」

「オルグ様それ以上は、おやめください!」

 付き人の方が必死に止めようとするも、オルグ様は意に変えず話を続ける。 

「いい加減に自分で認めたらどうだ、お前の不注意のせいで妹は亡くなってしまったのだと。いくら探したところでもう生きてるはずあるまい」

 ビアンカ様は何も言わずに、握りしめた手が震えているのがわかった。 

「勘違いしては困るぞ、これはお前のために言っているのだ。素直に現実を受け入れ、もっと大貴族の令嬢として楽しく生きるべきではないのか。そんなことだから氷の令嬢と揶揄されるのだ」

 オルグ様は肩をすくめながら、嘲るような表情を浮かべる。

「妹のことは貴方には関係ない!」

 今まで冷静な態度を崩さなかったビアンカ様が、初めて感情的な姿を見せた。

「な、なんだと」

「妹は必ず生きてます。必ず! だって約束したのだから。あの子と……」

 ビアンカ様は潤んだ目元をさっと拭うと、顔を持ち上げ再び冷徹な視線でオルグ様を睨む。

「あと、今回の件と、私の過去の件とは全く関係ありません。私は自らの役目を果すため行動してるだけです。多くの民が助け求めているのです。民のために動く、それが貴族としての責務であり、民の盾となる私たちの勤めでしょう。」

 ビアンカ様の言葉に全身が熱くなるのを感じる。端目で数人の貴族が頷くのが見えた。

 凛と背筋を伸ばして立つビアンカ様をみて、私は自然とオルグ様から手を離していた。

「まあ、いい。好きにほざけばいい。ここでお前の真の正体を知れば、誰もがお前に失望するはずだ」

 まさか、オルグ様は本当に始める気なの。覚悟を決めたはずなのに、私の心の奥底がやめろと叫んでいる。

「ビアンカ、貴様は身分を盾に、立場の弱いアリシアを虐めていただろう」

 ビアンカ様の表情に困惑がにじむ。

「私がアリシア様を?」

「そうだ、貴様が、後輩であるアリシアを学園内で虐めている場面を多くのものが目撃しているのだ」

 オルグ様の言葉に、「確かに、私も見たぞ!」「私も目撃しましたわ」と周囲から声が沸き起こった。

 ラフグレン公爵様の統括する貴族の子息・子女たちだ。中には私ように凶作に苦しむ下級貴族の姿も見える。誰もオルグ様に逆らえる立場にはない。

「私はアリシア様とお話しするは今日が初めてですが」

 ビアンカ様の言ってることは本当だ。年齢も階級も異なるうえ、男爵家の私が公爵家のビアンカ様と学校で接する機会はほぼなかった。

「ふん、見苦しい嘘を、貴様が裏で陰湿ないじめをおこなっていた事は調べついているのだ。そうだよなアリシア、君もビアンカの罪を白日の元に晒してやれ」

 言葉が出ない。もう覚悟を決めたはずなのに……。

「おい、どうしたアリシア」

 オルグ様の言葉に怒気がはらむ。

「ええ……ビアンカ様は私を陰で罵倒したり、気に入らないからと教科書を破ったり、水をかけられたこともありました……」

 周りのざわめきが大きくなる。

 オルグ様が、それ見たことかと得意げな顔を浮かべた。反対に悲しそうな表情で私を見つめるビアンカ様。そんな顔で私を見ないで。私はたまらずビアンカ様から顔を逸らした。

「本人もこう言っている、もう言い逃れはできまい。確かにアリシアは身分の低い立場であり、拾われてきた養子でもある。しかし、だからと言ってこのような虐めを見過ごす事はできん」

「アリシア様が養子……」

「ふん、何を今さら、白々しい。アリシアが養子とわかってて虐めたのであろう。伝統や慣習にこだわるお前は高位貴族以外の血統を認めないのはわかっている」

「そんな事はありません!」

「ならば、公爵家の私とアリシアが結ばれても文句はあるまい」

 オルグ様のいつもの手だ。論理をすり替えて、自分の意見を強引に正当化させる。

 ビアンカ様はそんなオルグ様に何を言っても無駄だと感じたのか、何も答えずただオルグ様を睨みつける。

「ふん、何も言い返せまい。やはり貴様は、我が公爵家の婚約者としてはふさわしくないな。私にはさらなる目撃証拠もある」

 オルグ様は首を振ると、何処からか一人の青年がオルグ様の横に立った。いつもオルグ様に使い走りにされている私と同じ下級貴族の子。彼の足は震えている。

「おい、ロミオ、お前が見たことを教えてやれ」

「は、はい、ぼ、僕はビアンカ様がアリシア様を廊下で激しく罵っている場面を偶然みてしまいました。必死で謝るアリシア様をビアンカ様は、そ……その、階段から突き飛ばしたんです。階段の下でうずくまるアリシアさんを見てビアンカ様を笑って、そ、そのまま去っていかれました」 

 もちろん、嘘だ。 

 言ったロミオは申し訳なさそうにビアンカ様を見る。本来はこんなことを言う子ではない。川が大好きで、いつも私に嬉しそうに八重歯を覗かせ、魚の話をする心優しい青年だ。 

 私の中で少しずつ心が砕けるような感覚が広がる。

 でも、……次は私の出番。

 私がドレスの裾をめくって傷跡を見せ、「これが階段で、あなたにつけられた傷よ」と大声で叫ぶのだ。

  私の腕には深い傷跡がある。おそらく記憶のない3歳の頃についた傷。なんでついたかも覚えていない。その傷をオルグ様の侍女が化粧を施し、最近できた傷跡ように見せている。近くで見たらすぐにわかるが、周囲の貴族達には気付かれないだろう。

 オルグ様は私を見て頷く。

 彼の合図で私は一歩前に出ると、腕の裾をめくった。

「……この傷は、あの時、あなたにつけられた傷よ」

 ビアンカ様の顔が見れない。たった、数秒のこの瞬間が数時間のように感じられた。嘘だらけの証言と、こんな嘘の傷跡を見せられてビアンカ様はどう思っているのだろう。私は腕を前に出したまま、ただ床を見つめた。

「そ、その傷」

 ビアンカ様の息を呑む声が聞こえた。えっ? 私がゆっくりと顔を上げると、目を大きく見開き、口を押さえるビアンカ様の姿があった。

「この傷は貴様がアリシアが階段から落とした時にできた傷だ。かわいそうに、貴様のせいで一生残らない傷跡ができたのだ」

 横でオルグ様が得意げに責める中、ビアンカ様は固まったまま動かない、ただその瞳は私をだけを見ている。

 彼女の表情には怒りや困惑ではなく、ただ驚きのみが支配しているように感じた

「……え、なんなの」

 私が声を漏らすと同時に、ビアンカ様が駆け寄ってきて、私の腕をとった。

 そして微かに震える手で私の腕を掴みながら、傷跡と私の顔を交互に見つめる。至近距離で覗き込むビアンカ様の美貌に思わず後退りしてしまう。

「こ、こ、この傷はどこでつけれましたの」

「……こ、これは、あなたが階段に」

「そうではないでしょう、これはもっと昔につけらたものよね、ね、ね」

 ビアンカ様の腕に力が入る。このビアンカ様は鬼気迫る表情はなんなの? 自身の潔白を証明するためじゃない、それ以上の意思を感じ取れた。

「お願い……アリシア様、答えて」

「こ、この傷は、私が小さい頃……」

 しまった、ビアンカ様の気迫に押されつい言葉が出てしまった。

「ち、小さい頃どうなされました?」 

 そう言いながら、ビアンカ様の唇が震える。

「そこまでだ。離れろ! ビアンカ」

 オルグ様が私たちに駆け寄り、強引に私からビアンカ様を引きはなした。そして、混乱する私を庇うように抱き寄せる。

「貴様は、性懲りも無くアリシアをまだいじめるか! 弁明しようとする仕草も見苦しい。諸君、今の光景を見ただろう。これこそがビアンカの本性だ」

「確かに、今のは普通じゃなかったな」

「本当にいじめてたんじゃ」と、周囲の貴族たちは口々に声をあげ疑惑の声をあげ始めた。

「ち、違います、私はそんなつもりでは」

 非難が飛び交う会場中、ビアンカ様はよろよろっと後退りながら、揺れた瞳を私に向ける。

「ふん、お前の罪状はまだあるぞ。決定的なものがな。これをみたら言い逃れはできまい」

 えっ? ここまでの流れはオルグ様に指示をされていたけど、これ以上の展開は私は知らない。

 嫌な胸騒ぎがする。 

 先ほどのロミオが、何やら上等な布に包まれた物を大事そうに抱えてやってきた。私の横を通り過ぎる時に、ロミオは「……アリシア、ごめんね」と小さな声でつぶやいた。 

 そのままロミオはオルグ様に包まれた物を渡す。

 ……一体、何を見せる気なの。

「ビアンカ、お前はアリシアの大事にしていた物を取り上げ、壊したそうじゃないか。ここに証拠を持ってきた」

 私の不安が、否が上にも高まっていく。も、もしかして。

 オルグ様はサッと布を引くと、蝶の装飾が施された青いペンダントがあらわになる。

 や、やっぱり……私が何より一番大事にしているペンダント。幼い頃助けられた私が服以外で唯一身につけていた物だ。言ってみれば、記憶をなくした私と過去を繋ぐたった一つの証。いつも首元にかけていた。

 確か、このパーティーに出る前に、オルグ様の侍女に預けたはず。オルグ様に、公爵家の鉱山でとれた金属を使ったペンダントをつけるように指示されたからだ。社交場では公爵家の力の誇示することも大切だとオルグ様は私に教えた。

 その預けたはずのペンダントがなぜかここにある。そして割れているはずのないペンダントヘッドの縁が、ひび割れたように欠けていた。それをみた瞬間、足元から震えがはしり、頭が真っ白になる。なんで、私のペンダントが。

「これは、アリシアがとても大切にしていたものだ。ここにいる多くの生徒が知っている。彼女はいつも大事に身につけていたからな。それを貴様は、アリシアを罵倒し地面に投げ捨てたそうじゃないか。そのせいで、このように大きくひび割れてしまった。どう責任とるつもりだ!」

 信じられない。ビアンカ様を陥れるためにだけに、この人は私の大切なものを壊したんだ。多くの生徒が、私がこのペンダントをいつも身につけていると知っているから。許せない。許すことができない。

 怒りから私が足を踏み出し、オルグ様の頬に向けて、手を振り上げようとしたその時、誰かが床に倒れる音が響いた。

 エッ!?

 振り向くと、ビアンカ様が床にかがみ込んでいた。彼女は糸が切れたように、手を床につけ、呆然とペンダントを見つめている。

 その光景に、私は手を振り上げる勢いが止まり、驚きで立ち尽くした。

 オルグ様も予想外な光景だったのか、口を開けたまま突っ立っている。

 ビアンカ様の付き人の老紳士が、すぐに駆け寄りビアンカ様の背中を手をあて心配そうに声をかける。

「大丈夫ですか、お嬢様。この会場を出ましょう。これ以上いても傷つくだけです」

 ビアンカ様は、付き人の方の支えを借りながら、ようやく立ち上がると、再びペンダントに目を移した。

「……え、ええ、大丈夫、大丈夫よ。お願い、あのペンダントのあなたの目でもう一度見て、どんな模様が描かれてるか」

「ペンダントですか? ……そうですね、真ん中に2匹の蝶が描かれおります。1匹は淡い赤色の羽を持ち、もう1匹は青色の羽を持っています。その2匹が、寄り添うように舞っていて、まるで永遠の愛を感じさせるかのような装飾です」

 それを聞いて、ビアンカ様は瞳を潤ませ、手で顔で覆った。

「ははは、ビアンカ今更泣いても無駄だぞ! 私は貴様の悪業を貴族院に訴えるつもりだ。もはや逃げられないと思え」

 ビアンカ様の姿を見て気分を良くしたのか、口元を歪ませオルグ様は彼女をさらに追い詰めにかかる。オルグ様は金の力ですでに貴族院にも手を回しているのかもしれない。

 ビアンカ様は、そんなオルグ様の見ることもなく、なぜかゆっくり私に近づいてくる。そして、私の前に立つと、潤んだ瞳のまま、私の頬を優しく両手で包みこんだ。

「アリシア様、あなたの顔よく見せていただけますか」

「な、なにするき」

 ビアンカ様の手を払おうとしたが、なぜか震えて手を動かない。

「やっぱり、ミーシャの面影がある……」

 ビアンカ様はそう呟くと、私を目を見つめた。

「アリシア様、あなたは養子と伺いました。養子になるまで事を覚えてらっしゃいますか」

 ビアンカさまの声には訴えるような深い感情に満ちている。な、なんなの。

「お……覚えてない」

 意思に反して、自然に口が動いてしまう。

「アリシア様、なんでもいいのです。覚えてることはありませんか」

「覚えてない……記憶がないの。村人たちが見つけ、助けてくれるまで。それまで、何があったのかすら覚えてない」

「助けられた……」

 ビアンカ様が目を見開き、私の肩を掴む。

「そ、そ、それはい、いつの事ですか」

「……3歳の頃、河岸で倒れていたって聞いてるわ」

 その瞬間、ふわっと全身を包まれた。ビアンカ様が私を抱き寄せたのだ。 

「ビ、ビアンカ様!?」

 抱きしめられた全身から、温かさと同時に彼女の震えが伝わってくる。埋めらた肩からは声にならない嗚咽が聞こえはじめた。少女のように全身震わせビアンカ様が泣いているのがわかった。

「い……いき、いきてた……い、い、生きてた」 ビアンカ様は何度も同じ言葉を繰り返した。

 その度に、私の抱く背中に力が入る。

 あまりの出来事に、棒のように動けない私。なぜ、私が抱きよされているのか、なぜ泣かれているのか正直わからない。でも彼女は悲しくて泣いているんじゃない、喜びの涙で溢れているのだけはわかる。

「なんだ、何をしている。先ほどから、私は何を見せられている。己の罪を責められて錯乱でもしたか。アリシアから離れるんだ!」

 オルグ様の怒りの声に、ハッとした私はビアンカ様のまわされた腕をゆっくり解く。目の前にいるのは、本当に"氷の令嬢"と呼ばれたビアンカ様なのだろうか。いつもの凜とした表情はそこになく、頬は真っ赤で、鼻をすすり、顔は涙でびしょ濡れ。でもその表情は心底幸せそうに、優しげな眼差しを私に向ける。 

「み……ミーシャ」

 ビアンカ様、再び私に頬を触れようとするが、私は手でそれを払った。

 正直、訳がわからない。ビアンカ様の行動がまったく理解できない。

 でもなぜなの、彼女を見てるとたまらく胸が痛くなる。涙を見るととても苦しくなる。

 色々な感情、私の奥で飛び交ってゆく。

 心のモヤモヤを吐き出すように、私は知らずに叫んでいた。

「や、やめて。さっきから、なんなのよ。記憶すらない私の過去のことを、なぜあなたが知りたがるの。そして、なぜあなたは泣くのよ。なぜそんな目を向けるの。わ、わたしは……」

 頬をなぞる冷たい感触を感じた。そこで初めて喋りながら泣いている自分に気付いた。

「わたしは過去なんてどうでもいい。……思い出したくもない! あなたはなぜ私かこんな馬鹿なことするって聞いたわよね。今を守るためよ! 私にとって今がとっても大切だからよ」

 これが私の本当の気持ち。でも、なぜか涙が次々に溢れて止まらない。

「アリシアを泣かせるとは酷い女め! そうだ、アリシアは今が一番大切なのだ。私の新たな婚約者となった今がな。だから過去の婚約者であるお前は邪魔なのだよ」

 オルグ様が私とビアンカ様の間に割ってはいると、ビアンカ様を押し出した。

 ビアンカ様はよろよろと後ずさると、そのまま崩れそうになるのを、咄嗟に付き人が支えた。支えられたまま、ビアンカ様は涙で目を染め、私を見つめる。

「お嬢様大丈夫ですか! オルグ様、これは許し難い行為ですぞ」

 付き人の老紳士が、怒りの声をあげた。

「ふん、ビアンカの犯した罪の方がよほど重罪だ。罪人こそ罪は償うべきだ。どうだ、ここにいる皆もそう思うだろう」

 冷笑と共にオグル様が周りの客に問いかける。すると、オルグ様の取り巻きを筆頭に、皆がビアンカさまを非難し始めた。この状況を見て、ビアンカ様に同情するよりもオルグ様につく方が優位と感じた貴族が大勢いたのだろう。その結果、会場は断罪裁判のようにビアンカ様への非難や暴言が飛び交った。

 私は呆然とその光景を見つめる。

 ……私は本当にこんな結末を望んでいたの。皆を守るためとはいえ、一人の女性をここまで追い込んでまで。

 混沌とした感情が私を飲み込む。

 パーティーの客たちは罵倒の言葉を浴びせ、横に立つオルグ様は勝ち誇った笑みを浮かべる。中心ではビアンカ様を守るように、付き人が彼女の背中を抱いていた。そして……渦中にいるビアンカ様は涙を流す私を心配そうに見ていた。

 こんな時でも、あなたは私のこと心配してくれるのね、……ビアンカ様。 

 その瞬間、養父の言葉が脳裏に浮んだ。

「アリシア、あの一番輝いている星を見てごらん。あの星はアリシア(煌めく光)と呼ばれているだよ。そうだね、君の名前と同じだ。僕はあの星から君の名前をもらったんだ。君の人生があの星のように煌めくようにと願い込めてね。だから、いつも君にとって正直でまっすぐな道を選んで進んでほしい。そうすれば君の煌めきはもっと大きくなって、周りも一緒に輝くから。この夜空の星たちように……」


 あの時の見上げた星空は眩ゆいばかりの煌めきを放っていた。

 そうだわ、私はアリシア(煌めく星)だわ。まっすぐで正直な星。愛する養父がつけてくれた名前。

 そして愛するみんなが呼んでくれた名前。

 養父もみんなもこんな光景を望んでいないはず。何より私が嫌でたまらない。

 私は涙を拭い、拳を握ると、ビアンカ様の方へ歩を進めた。

「お、おい」

 オルグ様が怪訝な顔で、私を止めようとするも、その腕を振り解く。

 周りの客も口を閉ざし、不思議そうに私を目で追う。

 ビアンカ様の前にたつと、私は片膝をついた。

 胸元からハンカチを取り出すと、驚きの表情で見つめるビアンカ様の目元をふく。

 そして、一礼すると私は立ち上がった。

「皆さんに聞いてください。お願いします。私はアリシア・プシャーリアは学園内でビアンカ様から虐めなど受けたことはありません。一度もです。本当はお会いするのは今日が初めてなのです。オルグ様の婚約者であられるビアンカ様に嫉妬し、私自らが嘘をつき、彼女を誹謗しようとしたのです。真に罪を受けるのはこの私なのです! 彼女では決してありません。ですので、お願いです。ビアンカ様を責めるのはやめてください」

 私は大声でそう宣言した。私の言葉に、みんなの表情に動揺が走るのがわかった。

 ビアンカ様を見ると、彼女は口をわずかに開けたまま、私を見つめ、そしてやにわに大粒の涙を溢れさす。

「ふざけるな! アリシア、君は自分が何を口走ってるのかわかってるのか。そうか、ビアンカに脅されてるんだな。そうだ、そうに違いない」

 オルグ様が私に猛然と迫る。

「オルグ様、私は脅されてなどおりません。どうか考え直していただけませんか……やっぱりこのようなやり方は間違ってます」

「アリシア、貴様」

 オルグ様は眉を寄せ、顔を真っ赤にする。

「みんな、これは心優しいアリシアがビアンカに慈悲を施しているだけなんだ。ビアンカの犯した罪は消えはしない」

 そう会場に告げると、オルグ様は私の耳元に顔を寄せた。

「余計なことをするな。ここはビアンカの悪事を理由で婚約破棄を成立させる必要があるのだ。後々にそれが我々にとって有利に働く。それが貴族の世界というものだ」

 オグリ様は囁きながら、私の手をきつく掴む。私が解こうとすると、オグリ様はさらに手に力をこめた。

「アリシア、よく聞け。これ以上俺に逆らうことは許さん。これ以上喋れば、お前の領土には小麦1つ送らんぞ。もちろん、周辺の貴族にもその意を伝えよう。お前の愛する者たちがどんな境遇に置かれるかよく考えろ」

 それを聞いて私の手から力が抜けてゆく。結局私はオルグ様には逆らえないの。この手を振り解いて、卑怯者と、罵ることさえできないの。でも……これ以上ビアンカ様が悲しむのをみたくない。自分に嘘をつきたくない。誰か、お願い、私に勇気をください。

「お待ちください!」

 声をの方を振り向くと、ビアンカ様が立っていた。涙の痕があるが、彼女は真っ直ぐに背を伸ばし、毅然とした態度で私たちを見据えていた。

「お嬢様」

 付き人の方が、心配そうに主人であるビアンカ様に声をかける。

 ビアンカ様は穏やかな笑顔で「ありがとう、心配しないで」と答えると、少しふらつきながらも私の方を足を進めた。

 そして、オルグ様の手を私の手から振り解いた。

「ビ、ビアンカ、貴様」

「オルグ様、貴族たるものが女性の手をそのように強く握るものではありませんよ。もっと優しく、このように」

 ビアンカ様はそういうと、私の手を優しく握る。同時に、ビアンカ様の体温が手を通して伝わってきた。すごく暖かい、そして安心する。オルグ様のような甘やかされた手とは全然違う。これは苦労に苦労を重ねた手。この手は人々のために奮闘し、一生懸命に動いてきた手だ。

「オルグ様、私はあなたの要望をお受けしましょう」

「要望だと?」

「そうです、あなたの婚約破棄をお受けすると言っているのです」

 瞬間、会場が割れんばかりの、どよめきに包まれた。驚きのあまり固まる私に、ビアンカ様は「大丈夫よ」と囁くと、私の手をもう一度握る。

 オルグ様も目を丸くして、ぽかんと口を開ける。

「オルグ様あなたの希望通りの条件で婚約破棄書類に署名しましょう。父にも私から伝えておきます。ただし、こちらも1つ約束してください」

 突然のビアンカ様の承諾に驚くも、オルグ様は希望通りという言葉を聞いて、嬉しさのあまり口元を歪ませた。

「いいとも、しかし慰謝料などの金銭の請求は認めんぞ。お前の罪は晴れたわけでもないし、婚約破棄にいたった理由はこちらには十分にある」

「もちろんです、私の条件は一つ、アリシア様です。彼女を新たな婚約者にするからには大切にして欲しいのです」

 ビアンカ様……なぜ。

「ははは、何をいうかと思えば。当たり前だ。私はアリシアを愛しているのだ。大切にしないわけないじゃないか。簡単な約束だな」

「それさえ守っていただけるなら、あなたの要望を受けましょう。ただし、もし少しでもアリシア様を悲しませた場合は、……我が公爵家の力をすべて使って、あなたを追い詰めることにしましょう。我が家は王からの信任を受け、裏も表も知る誇り高き家柄です。くれぐれも我々の力を過小評価することのないように」

 オルグ様の唾を飲み込む音が聞こえた。額に汗が吹き出している。今になって、誰を相手にしていたのかをはっきりと理解したようだ。

「この言葉、お忘れなきよう。わかりましたね」

 言いながら、鋭利な眼差しでアリシア様の会場全体を睨みつける。罵声を浴びせていた貴族たちは皆青ざめた顔で後ずさった。……さすがは氷の令嬢様だわ。

「アリシア様」

 ビアンカ様は私に向き直り、私の手を取りながら、頭を下げた。

「お許しください。記憶のないあなたに、無理に過去を思い出せるような真似をして。貴方がどれだけ今の家族や村の人たちに愛されているかを私は知っているはずなのに……今日私が言ったことは忘れてくださいね。でも、今後できるなら私にも貴方の今を応援させて頂けませんか。いつでも何かあれば我が公爵家を頼ってください。……私が絶対に助けますから」 

 ビアンカ様は優しい表情を浮かべたまま、寂しげに微笑んだ。

 ドクン

 胸の高鳴りと共に、頭の奥に強い痛みが響く。


 ──大丈夫、絶対に私が助けるからね──


 朧げだったあの子の顔がビアンカ様の姿が交差し、鮮明に重なり合った。

 ビアンカ様は名残惜しそうに、私から手を離すと、「行きましょう」と付き人に声をかける。そのまま背を向け、パーティー会場を出口へ歩き出した。

 私は手にはまだビアンカ様の温もりがじんわりと残っている。

 胸が高鳴りが大きくなってゆく。

 行かしてはだめよ、ビアンカ様を行かしてはだめ。今ならはっきりとわかるビアンカ様はきっとあの女の子。でもあの子が私にとってどうゆう意味があるのか……わからない。私は必死で記憶を呼び覚まそうとするも、どれだけ探してもはっきりと現れない。ほんの断片だけが、うっすらと見えるだけ。

 私は遠くなってゆくビアンカ様の背に、手を伸ばす。もう一度あの方にこの手を握ってほしい。

「ふん、予想外ではあったが、これですべてのうまくいったなアリシア。あんな女と縁が切れてせいせいしたわ、あのような傷物とな」

 オルグ様が忌々しげに、去ってゆくビアンカ様を見つめる。

「傷物?」

「そうだ、知っているか、あいつの髪に隠れて片目の上には、2つの大きな傷跡がある。いつもはうまく隠しているがな。私はそれも気に食わなかったのだ」

 付き人の老紳士が、ビアンカ様のために両開きの扉の取手に手をかけるが見えた。ビアンカ様は最後にもう一度会場を振り返った。

 その瞬間、扉がゆっくりと開かれると同時に、外からの風で、ビアンカ様の隠れた片目を露わになる。

 獣にやられたような古い傷跡と共に。

 ドクン

 再び頭に鋭い痛みが走った。それ同時にはっきりと光景が見えてきた。



「ミーシャ!!! 逃げて!」 

 叫ぶ声が聞こえた。でも、幼い私は足が震えて動かない。目の前の野犬は容赦なく私たちに狙いを定め、低い唸り声をあげる。後ろには崖があり、川の激しい音が聞こえた。向こうの原っぱではサンドイッチが散乱していた。目の前には私の前に立ち、必死で守ろうとする一人の少女。震えながら棒を持っている。野犬は鋭い牙を向け、じわりじわりと距離を詰めてくる。幼い私に狙い定めたのだろう。野犬は大きく口を開き、私に飛びかかろうとした。「ミーシャ!!!」女の子が叫び、野犬に向かってがむしゃらに棒を振り回した。幼い私は怖くてそれ以上見ることができず、目を塞いで震えていることしかできなかった。

 しばらくして、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。ぼんやりと目を開くと、女の子が私を覗き込んで心配そうに見つめていた。女の子の目の上に傷があり、血が止めなく流れている。

「安心して、犬は逃げたからね。あら、腕を怪我したのね。大丈夫」 

 自分の傷をそっちのけで、私の頭を優しく撫でる。女の子は「立てる?」と言って、私を手を差し出した。

 私は女の子の手を取ろうとしたが、恐怖でふらつき、崖から足を踏み外してしまった。そのまま空中に放り出された私を、女の子は間一髪で手でつかんだ。しかし、それ以上どうすることもできない。宙吊りになったまま泣き叫ぶ私を、女の子は手を掴みながら、必死で励ます。

「ミーシャ、大丈夫、絶対お姉ちゃんが助けるから、助けるからね、絶対に……」




 ……お姉ちゃん。

 思い出した。あの時何があったのか。女の子が誰だったのか。

 そしてビアンカ様が私に取ってどれだけ大切な人のか。

 ビアンカ様!

 走り出そうとした、私の腕をオルグ様が掴んだ。

「アリシア、どこへ行こうとする。また余計なことをいうんじゃあるまいな」

「は、はなして!」

「いいや、許さん、お前は俺のものだか、グハッ!」

 言い終わらぬまま、オルグ様の体が宙をまった。そのまま、体ごとテーブルに突っ込んでいく。

 淑女の悲鳴と、食器が割れる音が鳴り響く。

 驚く私の目の前にはロミオが、拳を振るわせて立っていた。殴った自分の拳を驚いたように見ている。 

「ロミオ、あなた……」

「アリシア、ぼ、僕は君のそんな顔もう見たくないだ。ビアンカ様のところに行きたいんだろ、行くんだアリシア」

 ロミアは笑うと白い八重歯を覗かせた。そして行けという仕草をつくった。

 ……ありがとう、ロミオ。

 私は再び駆け出した。

 胸が高鳴る、幸せな気持ちどんどん溢れ出てくる。

 ビアンカ様は扉を出ようとしていたところで、私は彼女の腕をつかんだ。

 ビアンカ様の背中が跳ね上がるのが見えた。掴んだ彼女の腕が震えだす。

 付き人の老紳士は、開いていた扉を静かに閉め、目を閉じた。

 震える彼女の手を、私は優しく握る。あの時、離れてしまった手。もう二度と離したくはない。

「もう、絶対にはなさないからね」

 私の言葉に、彼女の艶やかな後ろ髪がハラリと揺れた。そして、彼女はゆっくりこちらを振り向く。

 滲んだ瞳の奥に、見える私の大切な人。

「会いたかったよ、お姉ちゃん」

「み……み……み、みミーシャ、ヴァたしも、すごく、すごく会いたかった」

 私は彼女の胸に飛び込んだ。私を抱き締める姉の手からは温もりと愛情が伝わってきた。私もその優しさに包まれながら、この至福を逃すまいと彼女を固く抱きしめた。

 涙でぼやけた視界の中、天井のシャンデリアが星のように煌めく光を放っていた




 その後、私は実の父と母にも再会することができた。家族全員で泣きながら抱き合った。一生分泣いたと思う。養父は「君の家族の所へ戻っていいんだよ」と言ったけど、私はこのまま男爵家の娘であることを選んだ。そしてまた養父と抱き合って泣いた。どんだけ泣いただろう私。今の男爵家の現状を姉に伝えると、実父のサマンフレッド公爵は、翌日には大量の食料と資金を届けてくれた。おかげで領民の人たちは、飢えることなく生活を送ることができた。今は、男爵領の復興に向けて私たちは動き出し、一丸となって家族や領民と共に力を合わせて頑張っている。

 オルグ様はどうなったのかって? 彼のラフグレン公爵家は取り潰されたと聞いた。今回の凶作の原因である汚染物質がラフグレン公爵家の鉱山から流れて出ていたものとわかったからだ。その調査に一役買ったのはあのロミオだ。魚好きなロミオは、川の魚が死んでゆく事を疑問思い、水源を1つ1つ辿って自分で調べたそうだ。

 またラフグレン公爵は、王国から支給された本来配るべき支援金と食料を自身のところで止め、私腹をこやしていたことも分かった。国王はこの件に激怒し、王の命によりラフグレン公爵は公開処刑という最後を迎えた。最後まで公爵は「秘書がやった」「会計士がやった」と醜い言い訳をしていたらしい。

 その息子であるオルグ様は、直接には関与してないとはいえ、家族の罪は免れず、「お前は、婚約破棄が得意と聞いてるぞ」と裁判官の一言で、この大陸でも最も巨悪な施設に収監された。ここの新人は入ってすぐに力の強い囚人に結婚を要求されるらしい。もちろん監獄内の話ではあるが、一度捕まれば、死ぬまで掘られると聞いている。何が掘られるのかは私は知らないし、知りたくない。ちなみにここは屈強な男性しかいない。でもオルグ様は、婚約破棄がお好きだから逃げられると思う。多分。

 全てが順調なそう私だが、1つ困っていることがある。

 晴れやかな空の中、私はいつもの農作業服を着て、馬車に揺られている。横では私の新しい婚約者が、馬の手綱を握っている。これから農地に水を供給するための水路調査に行くのだ。婚約者が楽しそうに魚の話をする横で、私は自分の右手を握る女性が気になって仕方がない。今朝からずっとだ。

「お姉ちゃん、もういい加減にしてよ。いつまでついてくるの」

 私の言葉に、姉は拗ねたような顔をつくる。この人、本当にあの氷の令嬢?

「いいじゃない、だって私はもう離さないって決めたんだもん」

 子供のような姉の笑顔を見て、私は大きくため息をつく。そんな様子を見て婚約者が笑って八重歯を覗かせた。

 もう、いい加減離してほしんだけどな。



 首にかけられた蝶のペンダントが、私の胸元でキラキラと鮮やかに輝いた。
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