闇鍋怪談

dydy

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明治怪談 闇鍋怪談

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 昔の学校の学生さんといえば、書生などともいって、ほとんど男子でありました。女学校なんかもありましたが、そういう所に通うような人はごく一部の良家の娘さんであり、習う内容もまあ学問というより花嫁修業のようなものでした。
 ですから明治の学舎は女人禁制のような場所でして、男ばかり集まってああでもないこうでもないと、青臭い論を戦わせていたのであります。
 とはいえ、青年が集まれば、その若いエネルギイは学問よりもむしろ、食い気や色気に向かうのが自然でありましょう。男子校に猥談はつきものでありまして、毎夜、至る所で猥談が繰り広げられているのでありました。
 ここ、××大学校舎一端の廃教室におきましても、そうした青春の語らいが展開されていたのであります。この夜の面子は、金子君、美部君、甲野君、吉原君の四人でありました。金子君は金持ちの御曹司、美部君は美形で甲野君は優等生、吉原君は色事師と、名と特徴が一致している、分かりやすい面々です。
 若い人のためにチョット解説しておきますと、昔の成績表は甲乙丙丁で評価されていて、甲が優秀で以下、丁に近づくほど劣等です。また、吉原といえば遊郭で有名でした。
「おや、美部君はどうしたのだね」
 几帳面に定刻に集合場所の廃教室にやって来た甲野君は、足りない面子に神経質な眉を寄せました。
「薔薇の君は遅れるそうだよ」
 そう答えたのは、金子君です。金子君は美部君の美貌を崇拝していて、薔薇の君だとか白百合の君などと呼んでいるのでありました。男ばかりの閉塞した明治の男子校において、少年愛はさほど珍しいものではございません。ですが、生真面目な甲野君は顔をしかめ、女好きの吉原君は肩をすくめました。
「さて、では始めようかね」
 金子君が闇鍋の用意を始めたのを見て、吉原君がからかうように問います。
「おや、愛しの姫君を待たなくていいのかね」
「美部君は後で来るのだよ……」
 金子君は意味ありげに笑い、付け足すように言いました。
「なぁに、あの美部君のことだ。闇鍋でもタダ飯が食えるのならば、遅れたって必ず現れるよ」
 色男、金と力は無かりけり、美部君は容色以外の資産を持たぬ、貧乏学生であります。だからその上品そうな顔に似合わず、飲み会があると聞けばどこにでも馳せ参じ、しっかりと他人の奢りで三食を済ませる意地汚い青年でありました。男色の気などないのに金子君と付き合うのも、御曹司の懐目当てであります。
 美部君は後から必ず来るという金子君の言葉に、甲野君も吉原君も「それもそうか」と納得し、美部君の到着を待たず、準備を始めました。
 今夜の催しは、闇鍋座談会であります。闇鍋とは、部屋を真っ暗にして、各々が持ち寄った秘密の材料で鍋料理を作り、それを食べるというものです。どんなものが鍋に投じられるか分からず、箸をつけたら、それが何であれ必ず食べねばならぬという、一種の肝試しであります。
 無論、食い気と色気盛りの若者が、闇の中、ただ鍋をつつくだけで満足するはずがございません。怪しい鍋の席で盛り上がるのは、学問談義ではなく、艶情猥談の類であります。
「甲野君。例の美人モデルとはどうなったのだね」
 からかうように甲野君の肘をつつくのは、吉原君です。甲野君は少し眉をしかめましたが、暗いので彼の僅かな表情の変化は誰にも分かりませんでした。
「美人モデルがどうしたのだい」
 首を傾げたのは、金子君です。
「いやね、この聖人君子の優等生が、恋をしたのだよ」
 甲野君はますます仏頂面になりましたが、構わず吉原君は解説します。
「洋行帰りの美術の先生が、仏蘭西(フランス)仕込みの油絵を描いて、美術室に飾っているだろう」
「ああ、知ってる。裸婦像だったね」
 金子君が相づちを打ちます。西洋の文化がどんどん輸入されていた時代であります。その反動で日本古来のものがやや軽視されておりましたが、洋行帰りというのはチョットした箔でありました。
 とはいえ、裸婦像というのはやはり衝撃で、男子学生の間で随分と話題になった作品でした。しかも、普通油絵の裸婦像は無毛で無表情な、どこか作り物めいた上品なものが多いのに、その先生が描いた裸婦は、恥毛がしっかり描かれ、乳首も肉感的に、表情も挑発するような蠱惑をたたえた、なんとも写実的で悩ましい美女であったのです。
「甲野君は裸婦像の女体に魅惑されて、会ったこともない画のモデルに恋をしてしまったのだ」
「ほほお」
「もう、その話はいいじゃないか」
 甲野君が不機嫌に遮ります。すると吉原君はからかうように笑いました。
「どうしたんだい、あれほど恋い焦がれて悶えていたじゃないか。あんまり毎日騒ぐものだから、画のモデルを探すのに、俺も一肌脱いでやったのに――」
「おい、なんだい。そんな話は初耳だぞ。僕にだけ内緒にしていたのかい」
 金子君が少し口を尖らせます。
「だって、金子君は女に興味がないだろう」
「そんなことはないさ。美部君より美しい女がいれば、僕だって女色に向かうよ。でも美部君より綺麗な女がいないんだから、仕方ない」
「ハ、こんな男子校にいたんじゃ、どうしたって美女には出会えんぜ」
「大きなお世話だね。平凡な女と付き合うくらいなら、美少年を愛でているほうがいいさ。で、美人モデルがどうしたんだい」
「おう、そうそう。恋に焦燥する我らの甲野君は、画のモデルを捜索したのだよ。それに俺も協力して、彼は恋の一念で、愛しの美女に辿り着いたのだ」
「ふふうん」
 金子君は相づちを打ちながら、持ち寄った食材を鍋に入れました。
「おう、いい匂いだ。肉か。牛肉かい?」
「さあね」
「さすが金子君。ハイカラなものを食べさせてくれるよ」
「……ふふ」
 金子君の目が、闇に細く光りました。吉原君は肉が煮えるのを待ちながら、話を戻しました。
「それで、ようやく美女を探り当てたというのに、以後とんと、甲野君は彼女のことを話さないのだよ」
「なんだね。大騒ぎして探して会いに行ったんだろう」
「そうなんだ。振られたにしても、泣くなりなんなりするだろうに、まったく何の反応もないんだ」
「どうしたっていうんだい、甲野君。恋の顛末はどうなったのだね」
 吉原君と金子君、二人がかりで問い詰められ、甲野君はウンザリしたようにため息をつきました。
「どうもこうも、無いね。会ってみたら、詰まらない女だったんだよ」
「おやまあ。でも、あの裸婦像のモデルなら、相当の美人だったろうに」
 少年愛の金子君ですら、目を瞬きました。
「画のほうが余程美人さ。二十五の年増で、芸者あがりの娼婦みたいな女で、読み書きも出来ない無学低脳。裸婦画のモデルをしたのだって、金のためさ」
「そりゃひどい。でも、美人だったんだろう?」
 金子君はいやに美に拘ります。彼は男色というより、ただ耽美主義なのかもしれません。
「画のほうが美人だった」
 憮然と、甲野君は言いました。
「ハハハ。絵なら、どんな女も美人になるからねえ」
「もう、この話はいいだろう。あの女のことは考えたくない、ウンザリなんだ。僕のことよりも、吉原君、君はどうなのだ。君のことだから、僕なんかよりもっと、艶容な猥談があるだろう」
 話を逸らすように、甲野君が吉原君を小突きました。
「そうだねえ。遊郭通いの吉原君ならば、ステキな猥談を語ってくれそうだ」
 金子君が声を弾ませました。甲野君も、目を輝かせます。闇の中、吉原君は二人の視線が刺さるのを感じました。
「ハハハ。そう期待されると、普通の猥談では詰まらんな。ようし、では、とっておきの話をしてやろう」
 ニマリ、吉原君は得意そうに唇を歪め、語り始めたのでありました。

 あれは、一月前のことだ。諸君もご存じの通り、その時分、俺は放蕩が過ぎて、親父から勘当されていた。といっても、それで四回目の勘当だから、狼狽えるにあたらない。ほとぼりが冷めるまで、しばらく家を出て放浪していようと思った。四回目にもなれば、慣れたものだね。
 さて、女たらしの俺のこと、女の家を転々していると思うだろう? 残念、遊郭は金が無いと入れないのだよ。金が無いとなると、女どもは冷たいことよ。家を放逐され、遊ぶ金なく、勘当中の俺は修行僧のように清廉な日々を送ったものよ。
 だが、色事師で通っている俺のこと。清廉であればあるだけ、かえって性欲が強くなった。馴染みの女郎の女体を思い浮かべては、自慰で紛らわす毎日。今回の勘当は少々根深く、親父はなかなか許してくれない。女を抱かないとおかしくなる、俺は女郎を買う金を得るため、口利き屋の暖簾をくぐった。
 紹介されたのが、温泉旅館の下働き。ウフフ、そこで俺ぁもちろん、三助を志願したのだがね。入浴客の背を流すわけだが、金をもらって女の肌に触れるなんて夢みたいな商売だなんて思ったら、そうは問屋が卸さない。湯治に来るのは爺婆ばかりよ。
 で、三助に嫌気がして、俺は仕出しのほうの仕事に回してもらった。女将や番頭の目を盗んで、料理をつまみ食いなんかしていたわけだが、これは美部君なんかが喜びそうな仕事だね。
 それにしても神様ってなぁ意地悪なもので、俺が三助から仕出しに転属してから、ステキな美人客がやって来たじゃないか。
 二十五六か、年増盛りのいい女で、どこか悪いのか青白くホッソリしているが、それがまた劣情をそそる。病気の女ってなぁ、どこか女郎蜘蛛のような妖艶な色気があると思わんかね。そりゃもう、チョット寒気の来るような美人だった。
 その女は病気治療のために湯治に来たようだったが、もしかすると人に言えない病を患っていたのかもしれぬ。というのも、彼女が宿帳に記したのは馬野骨子なんていうふざけた偽名だったし、女一人でひっそりやって来たのもおかしい。
 なにか後ろ暗い女じゃないかしらん。いわく因縁ありげな美女に、俺はますます興味を惹かれた。ああ、あの病的に透ける肌に触れ、爛熟した女体を味わいたい。年上の女、後ろ暗い女の、陰鬱な色香に溺れてみたい。禁欲を余儀なくされた所に現れた青白い美女に、俺は人参を垂らされた馬のようになってしまった。
 三助をしていた時分なら、美人の肌を見て触れることが出来たものを、俺は地団駄を踏んだが、悔しがっても仕方が無い。
 美女を諦めたのかって? まさか。色事師と呼ばれた俺様だよ。禁欲が続いた所に現れた美女、そう簡単に諦められるかい。触れられないからむしろ情欲が高ぶろうというものよ。
 俺は彼女の気を引こうと、愛想を振って荷物持ちでも雑用でも何でもやった。ところが女は礼の一言も無く、ツンと澄ましかえってやがる。挨拶すらしやしねえ。ええ、このアマが、別嬪だと思って、天狗になっていやがる。腹が立ち、ますます劣情が燃えた。あの高慢チキな美女を征服してやりたい。
 俺は、傲慢な美女を征服するため、彼女の料理に一服盛った。仕出し係なのだから、食事に眠り薬を盛るくらい、お茶の子サイサイ。眠っちまえば、いくら冷たい女でも、従順になるさ。
 甲斐甲斐しく料理を運び、小さな口元に料理を摘んで食べさせてやるくらいに世話をしていると、女はやがて眠たいわと言い出した。しめしめ。俺は寝床の用意をして女を寝かしつけ、料理の後片づけをした。
 仕事を終え、客も従業員も寝静まる真夜中、俺は抜き足差し足、ソロリソロリ、美女の部屋に向かった。暗かったが、女の部屋は間違えない。そういう嗅覚は犬並なのだよ。
 辿り着いた美女の部屋、ソッと扉を開けて中に入る。漆黒の闇、立ちつくしていると、だんだん目が慣れてきた。障子窓からうっすら月明かりが射し込み、仄青い部屋がじわり浮かんできた。女の寝顔も青く浮かんで、唾を飲むような凄艶さだ。
 女は変わったことに、夜具を被ることなく、横になっていた。寝間着ではなく、一張羅のような錦の着物を着て、まっすぐに寝ている。だが俺は、女の美しい寝姿に見とれてしまって、変なことに気づかなかった。青い薄闇に錦の着物で眠れる美女は、絵のようだった。
 女は寝乱れた様子もなく、行儀よく横になっている。寝ていても澄ました女だ。けれどその上品さが、かえって欲情を煽る。俺はヒタヒタ、女に近づいた。
 女の帯に手を伸ばすが、まるで貞操を守るかのように、キッチリ結わえていやがる。だが、幾人の女の帯を解いてきた俺様よ。堅い女を口説くように、怯える処女を愛撫するように、ゆるゆるじわじわ、帯を緩めていった。
 さあ、ようやく帯を解いた。震える手で着物を開くと、闇に輝く美白の肌がこぼれ出た。
 ああ、闇に仄浮かぶ女体の陰鬱さ! 青い柔肌を縁取る陰影の淫らなことよ! 昼日中に女体のすべてを照らし出すよりも、半盲のような月夜の明かりに薄見える青白い肌のほうが、透き通るように美しい!
 安女郎から高級娼婦まで、数え切れぬ女と同衾してきたが、これほど憂鬱に美しい女体は無かった。女の元来の美しさに加えて、月明かりの薄闇、しどけない眠り、病身の女体、そういった舞台や条件が、彼女を凄気なまでに妖艶にしていた。
 俺はたまらなくなり、ぐったりとした女体に抱きついた。女の肌はひんやりしていて、抱きつかれても呻き声一つあげず、何の反応も無かった。
 あの高慢な美女が、今や従順な眠り姫となって、俺の腕にしなだれているのだ。何をされようと無抵抗に、俺のなすがままなのだ。俺は彼女が愛しくなって、乱暴にするよりもガラス細工のように扱った。
 薬は物凄くよく効いているようだった。細い肩を抱き寄せている時も、繊細な白魚の指を弄んでいる時も、まろい乳に吸い付いている時も、女はまったく目を覚まさなかった。
 眠っている女をオモチャにするのは初めてで、俺は面白くて彼女をコロコロ転がして、色々な姿勢をとらせ、あまねく角度から鑑賞した。まるで人形遊びだ。
 俯せにしてなだらかな背を撫で、柔らかな尻を揉み広げたり、ひっくり返して足を開き、陰核を舌先でつついたり。こんな好き放題をされても、女は寝返り一つうたないのだ。
 マグロの女郎を抱いたことがあったが、その時は詰まらないだけだったのに、眠れるマグロ美女は、その無反応ささえ俺を興奮させた。もっとも、目を覚まされたらえらいことになるのだがな。
 おっと、そろそろ肉が煮えてきたようだな。では顛末を語ろうか。
 散々に美女を転がして、しどけない女体を味わい尽くし、何事も無かったかのように後片付けをして女に元通り着物を着せてやり、俺は部屋を出た。女は最後まで目を覚まさず、もう朝になっていた。
 今度は俺が眠かったが、眠気はまもなく吹っ飛ぶことになった。
 旅館の一日が始まり、俺はアクビをしながら、いつも通り仕出しの準備に取りかかった。そんな慌ただしい朝の空気の中、とんでもない悲鳴が響きわたった。
 なんだなんだってンで、寝ぼけ眼で駆けつけてみると、客間に朝食の膳を運びに行った女中が、廊下にへたり込んでいる。どうしたんだえと女将が問うと、女中はアワアワと部屋を指差す。その部屋は……俺が抱いて転がした、あの美女の部屋だ。
 どうしたんだろう、もしや俺のイタズラがばれたのだろうか。ヒヤヒヤしたが、それどころじゃなかった。
 女は、死んでいた。
 たまげた。一晩抱きしめて撫でて頬ずりした女が、朝になって死んでるのだから。でも本当に戦慄するのは、その後だった。
 もしかして、俺が盛った眠り薬のせいで死んだのかしらん……だったら、どうしよう。ヒトゴロシになっちまう。罪悪感よりも恐怖に打ちのめされていると、警察が来た。
 警察は、宿の者や客にあれこれ尋問した。俺も取り調べを受けたが、何を訊かれても知らぬ存ぜぬを通した。無論、女に薬を盛ったことや眠らせてイタズラしたことなんか、一言だって言わない。
 いつ警察に捕まるのか、生きた心地がしなかった。事件が解決するまで、宿の者はもちろん、客も足止めされて、捜査された。
 幸い、俺は殺人犯になることなく、事件はすぐに解決した。
 結果から言うと、女は自殺だった。女の荷物を調べると、遺書と毒薬が出てきたのだ。検死の結果も、俺の眠り薬ではなく、毒薬が死因だった。遺書には、不治の病の苦しみが綴られていた。これで、あっけなく事件は片づいたのだった。
 女は、俺のせいで死んだのではなかった……けれど、胸を撫で下ろすことは出来なかった。
 思い出してくれ給え。俺が夜這いに行った時、女は夜具もかけず、正装でキチンと横たわっていたことを。そして俺がいくらいじり回しても、全然目を覚まさなかったことを。

 そう。彼女はすでに、死んでいたのだ。

「……」
 暗い廃教室に、闇鍋が煮える音だけがくぐもっております。甲野君はゴクリと唾を飲みました。
「吉原君。すると君は……」
 理知的な顔を青ざめさせて、甲野君は乾いた声で言いました。
「君はつまり、屍姦を……」
「……」
 吉原君は黙って鍋をつついております。不気味な沈黙に、甲野君も口を閉じました。空気が重くのしかかります。
「まさか。死んでりゃ、いくら何でも気づくさ」
 重い沈黙を切ったのは、金子君であります。
「抱いてみて死んでるのに気づかないなんてことが、あるわけがない。心拍停止、体温低下、死後硬直。抱くまでもなく死体だと分かるし、第一コチコチに固まった死体を抱き寄せたり広げたりなんて、出来やしないよ」
「そ、そうだよねえ」
 甲野君はホッとしたように相づちを打ちました。吉原君はまだ黙っています。
「何とか言ったらどうなのさ、吉原君」
 金子君が呼びかけますが、吉原君は返事をせず、ただ肉を食べています。彼のそんな態度に甲野君は、金子君が反論してくれたものの、もしかして本当に……という気になってくるのでありました。
「そんなに肉を食べたら、美部君の分がなくなるよ」
 嫌な空気を飛ばそうと、甲野君はおどけるように言いました。
「そうだな。食い意地のはった美部君のことだ。肉を食われたと知ったら、さぞ怒るだろうね」
 ようやく吉原君は声を出しましたが、それはいつもの飄々としたものでした。甲野君は少し安心しました。
「美部君のことなら気にせず、どんどん肉を食べてくれ給えよ」
 金子君が肉を勧めます。
「どうしたのだね、金子君。可愛い美部君に怒られてもいいのかい」
 吉原君が肉を頬張りながら、からかいます。すると闇の中、クスリと金子君が笑うのが聞こえました。
「美部君なら、実はもう来ているのだよ」
「えっ」
 吉原君と甲野君は、同時に声をあげました。
「美部君が来ているだって?」
 美部君は遅れるということでしたが、闇に紛れてコッソリと入り込んでいたのでありましょうか。吉原君と甲野君は、真っ暗な教室を見回しました。何も見えないのですが、まったく気配を感じません。
「美部君やい。いるのかい。黙って肉を食べているのかい」
 手探りに腕を振りますが、美部君らしい人物には当たりません。触れるのは、吉原君の角刈り頭や、甲野君の眼鏡や、金子君の絹のシャツばかりであります。甲野君と吉原君がいくら手探りに探しても、美部君のさらさらとした猫毛や女のような滑らかな肌には、当たらないのでありました。
「金子君、やはり美部君はいないじゃないか」
「いや、とっくに来ているのだよ。実を言うと、最初から彼はいたのだよ」
 金子君はいやに自信ありげに言います。すると美部君は、闇鍋の輪から離れて、暗い廃教室の一隅に、気配を殺して潜んでいるのでありましょうか。あのいやしんぼうの美部君が、皆が肉をつついているのを横にじっとしているなんて、信じられないことであります。
「美部君は最初からいたし、これからも僕らと一緒なのだよ」
「何を言っているのだね、金子君」
「透明な容色と賤しい性質で散々に僕を翻弄した美部君は、もう僕を裏切ることはないのだ」
「金子君?」
「諸君も知っているだろう、美部君がいかな美少年で、かついかな性悪であったか。仲間の飲食には必ず割り込み、会費は一銭も払わず、遊興費すべて人の金で賄い、働きもせず、借金をしてはノラリクラリ逃げる。深窓の令嬢のような可憐な容貌をして、なんという意地汚い卑賎な男であったことか!」
「か、金子君……」
 甲野君と吉原君は戸惑いました。たしかに金子君の言うとおりではありますが、彼が美部君をこのように悪し様に罵るのは初めてであります。
「どうしたのだ、金子君。美部君と喧嘩でもしたのかね」
「喧嘩? とんでもない。僕は美部君とは永遠に仲直りしたのだよ。我が儘ばかりの美部君は、もう僕を困らせず、金をせびることもなく、黙って側にいるのだ」
 闇の中、吉原君と甲野君は首を傾げました。美部君が無心もしないで金子君の少年愛に付き合うなんて。金子君の正面で「君は僕の財布なのだよ」と嘲笑し、金子君の奢りで飲み散らし喰い散らしながら、陰で金子君を男色の変態と吐き捨てた美部君です。奢りがなければ金子君と会うことさえしなかった美部君が、金子君になびくなんて信じられません。
「僕を苦しめ魅了したる美部君、この苦悩の源泉は、僕らが男同士である以前に、美少年に賤しい魂が宿っていることにあるのだ。もし美部君が、あの美貌に相応しい人格の持ち主ならば、たとえ僕の愛を断るにしても友情といたわりに満ちた言葉と態度で断るだろうし、断った以上は甘えやたかりはないはずなのだ。だが実際の彼はどうであったか、僕の愛情を変態と踏みにじりながら、金をせびるために愛想を振り、それでいて触れるのを許さず、僕から巻き上げた金を女郎に入れあげるような人でなしではなかったか!」
「……」
 吉原君と甲野君は、金子君の咆哮に口を挟めずにいました。金子君がこれほどに美部君を愛し憎んでいたとは。少年愛を嘯(うそぶ)きながら、金子君と美部君の交際は手を握る程度でありました。女学生のままごとのような戯れだと思っていたのに。
「僕には指一本触らせぬ美部君が、女郎には金を払ってまで肌を重ねているのだ。僕の金で! 美部君を繋ぎ止める唯一のもの、金、僕が彼に示せる愛情のあかしを、彼は女郎を抱くことに遣ったのだ。贅沢や飲食に遣うならまだしも、女を買うことに遣うなんて。裏切りに慟哭する僕に彼は何と言ったか?
『変態野郎が、そんなに触りたいか。そら、ここなら触れてもいいぞ、接吻しろよ』
 そう言って彼は長い脚を伸ばし、つま先を反らした。足裏に口づけろと! 僕を踏みにじった上に平然とそんなことを吐いたのだ。
 屈辱。しかし僕が美部君を手にかけたのは、彼の酷薄のためではなかった。むしろ、彼が残酷に徹してくれたなら、僕はあの細首を締め上げやしなかったのだ。許せなかったのは彼の卑しさ。足を向けられ僕が立ちつくしていると、彼は途端に媚びるような笑みを浮かべたのだ。彼は右足を下ろして、両手をすり合わせた。
『怒ったかい? ごめんよ』
 謝り、僕の両肩に甘えるように手を置いた。
『悪かったよ、もうしないから許してくれ給えよ。君があんまり優しいから調子に乗ってしまったんだよ。金子君、君が僕の一番の友達なんだ、だから甘えてしまうんだよ、ねえ……お願い』
 おお、なんという見下げ果てた下郎であろう! 彼が僕をこれっぽっちも愛していないことなど明白、それどころか嫌悪しているくせに、金欲しさに流し目をくれるのだ。そうまでして金が欲しいか、ならいっそ男娼でもすればいいものを、そこまでの度胸もない。中途半端に欲だけ張った下衆!
 こんな最悪の下衆のくせに、その顔は美しいのだ! 外面だけはマリヤのように清廉な美少年なのだ! なぜだ、なぜこんなに綺麗な人間に、賤しい汚れた魂が宿っているのか? 間違っている。間違っている。
 細い首を折れるほどに締め上げた。藻掻く四肢から力が抜けていく、美貌から苦悶の表情が消えていく。
 彼が物言わぬ肉体になった時、僕は後悔も恐怖もなかった。悲しみもない。あるのは喜び。だが、憎い相手を殺した喜びではない。愛しい人を手に入れた喜びだ。
 命を失って横たわりたる美部君は、完全なる美少年だ。もうこの麗しい人に、下賤な魂などありはしないのだ。僕はこの美しい肉体から、醜い魂を追放したのだ。
 じいっと死骸を見下ろし、僕の胸に熱い歓喜が迫り上がった。
 美部君よ。君はこれで真実に美少年になったね。これが本来、君のあるべき姿だったのだね。もう君は、約束を破ることも嘘をつくことも、侮辱することも賤しく媚びることもない。君はただ美しく、寡黙に、力無く、優しい、無欲な人間になったのだね。
 愛しくなって口づけをした、だが抱き寄せることは出来なかった。
 吉原君よ、死体は一時間もしないうちに硬直が始まるのだよ。その一方、緩んだ陰部からは糞尿が垂れ流し、血流が止まった体の下側には、死斑が浮いてくる。屍姦をするなら、これら死体現象が終わるまで待たなければならないのさ。大体、一日かかるよ。
 ようやく美部君の硬直が解けて、僕は彼を裸にして綺麗に洗った。屍姦はしないよ。そこまでの変態趣味はないからね。洗い清めた美部君を、裸のままベッドに横たえ、まわりに薔薇を散らした。ウットリするような美しい眺めだった。
 けれど、無情な別れの兆しが、三日後には現れた。透き通る肌がわずかに変色し始め、薔薇の香気にかすかな腐臭が混じりだした。なんてことだろう、美しい体に腐敗の魔手が忍び寄ってきたのだ。
 このまま美部君が腐り果てていくなんて見ていられない。美しいものが醜く腐乱していくのを見るくらいなら、目を潰したほうがマシだ。どうしようか。どうしよう。
 決断を迫られた。美部君が醜くなる前に、まだ美しさを保っているうちに、始末をつけないといけない。
 焼いてしまう、埋めてしまう、水に沈めてしまう。いろいろな始末方法が浮かんだが、どれも惜しいように思えた。どの方法も、美部君を手放すという点では同じだ。ようやく手に入れたこの美しい人を、失いたくない。

 そんな時だ、闇鍋の話が持ち上がったのは。ああ、ステキな方法を思いついた。いつまでも美部君と一緒にいられる方法を。
 美部君を解体するのは、実に心苦しい作業だった。ただ大の男を解体するのが骨だというだけでなく、美少年の体を切断することの胸の痛みよ! だが心を鬼にして、僕は彼のすらりとした足を切った。右足を。
 なぜに五体のうちの右足を選んだのか。それは美部君が生前、僕を嘲って差し出した足だった。彼はここなら触っていいよと言って、この足を突き出したのだ。だから僕は、彼の体を傷つけるのは右足だけにしておこうと思った。
 右足を膝から切られて、可哀想に片輪になってしまった美部君。僕はその切断面に接吻し、薔薇の海に彼を沈めた。ごめんね、歩けなくなったね。でも僕らが君の右足になるから、いつまでも一緒だよ……。

「……」
 鍋がぐつぐつと煮えていますが、箸をつける者はおりません。
「どうしたのかね、煮詰まってしまうよ」
 凄まじい告白の後とは思えぬ暢気な口調で金子君が言います。
「冗談じゃないよ! こんな人肉鍋が食えるかよ!」
 声を裏返して叫んだのは、吉原君であります。金子君の話が本当なら、闇鍋で煮えている肉は、哀れな美部君の右足に違いないことでしょう。まさか、とは思うものの、もしや、とも考えられ、とてもそんな鍋を食する勇気など、誰にもわきません。
「か、金子君。悪い冗談が過ぎるよ……」
 か細い声で甲野君が言います。金子君はニヤニヤと笑っていますが、闇の中なので誰にも見えません。
「冗談なんだろ、金子君」
 すがるように甲野君が言うと、吉原君が叫びました。
「じゃあなんで、美部はまだ来ないんだよ! あの意地汚い男がよ!」
「美部君は、最初から呼んでないんだろ。僕らを担いだんだろ、ね、金子君!」
「なんとか言えよ金子!」
 金子君は答えません。ただ、闇の中ニヤニヤ笑っているばかりであります。彼の沈黙が、美部君の不在が、吉原君と甲野君には、恐ろしく不気味に感じられました。
 はたして金子君は、学友を殺して、その上それを人肉鍋にして仲間に食べさせたのでありましょうか。だとすれば猟奇犯罪の極みであります。金子君は監獄ではなく精神病院に行くことでしょう。しかし、大学に通うインテリゲンツア、福家の御曹司がこんな破天荒なことをしでかすものでありましょうか。あるいはしでかしたとしても、それを告白するものでありましょうか。もしくは、もう狂ってしまっている金子君には、常識の枷などはすでに外れてしまっているのか――
 コンコン。
 物音に、吉原君と甲野君は同時に振り向きました。
「ああっ!」
 そして異口同音に、驚愕の悲鳴があがりました。
 窓の外、薄い月明かりに照らされて立っているのは、美部君であります。愛憎の果てに絞殺されたる美少年!
「や、遅れて申し訳ない。開けてくれ給えよ」
 しかし幽霊は、人懐こい笑みを浮かべて、コンコンと窓を叩いております。吉原君は脱力して肩を落としました。
「はあぁ……」
 吉原君の肺から、空気が抜けていきます。戦慄が一瞬にして安堵と呆れに変わります。美部君は死んで人肉鍋にされたどころか、ピンピンして笑っているではありませんか。
「えらく遅かったじゃないか」
「片足しかないものだからね。開けておくれ。右足、返してくれ給えよ」
 悪びれずに言う美部君に、吉原君はますます呆れました。
「まだ言ってやがる。薔薇の海に沈んでろ」
「なんだい、驚かないのかい。チェッ」
 舌打ちし、美部君は窓を強く叩きました。
「開けておくれ。ねえ、開けてくれよ。僕はチョット頭に来てるんだよ」
「ヘン、幽霊ならすり抜けて入ってき給えよ」
 吉原君は笑いましたが、美部君はさらに強く窓を叩きます。
「開けろってば! 本気で怒ってるんだ俺は! 開けないと許さないぞ、早く!」
 窓を叩き割りそうな勢いです。どうしたのでしょう、人肉鍋の冗談によほど腹が立ったのでしょうか。吉原君は目を瞬き、やれやれと窓の鍵に手をかけました。その時、甲野君が叫びました。

「開けるな! ここは二階なんだぞ!」
「うわああああああっっっっっ」
 夜の木造校舎に、絶叫が響きました。闇の中、一つの人影が、転けつ転びつ、廃教室から飛び出してきました。眼鏡が、廊下に一瞬光りました。甲野君は、幽霊が現れた廃教室を振り返りもせず、廊下を駆け出しました。
「あああああ……」
 吉原君は腰を抜かして、しゃがみこんでいます。金子君も動きません。廃教室に動くのはただ、窓からズルリ入って来る美部君だけです。
 二階の窓に現れたる美部君。彼はやはり、生身の人間ではなかったのです!
「みーぎーあーしーかーえーせー」
「許してくれ助けてくれ、鍋に入ってたのがおまえの右足だなんて知らな」
 吉原君の哀願が、途中で切れました。窓から降り立った美部君には、両足が揃っておりました。吉原君の目の前で、五体満足で月光を背に立っております。
「クククク……」
 吉原君の背後で、金子君の押し殺した忍び笑いが聞こえます。
「あーっはっはっは!」
 大声で笑い出したのは、美部君です。金子君も吹き出します。アハハハハ、アハハハハ。それは狂的な笑いではなく、若者らしい無邪気な大笑いでありました。吉原君は訳が分からず、キョトンとするばかりです。
「アアおかしい。金子君、明かりをつけてくれ給えよ」
 美部君が笑い涙を拭いながら言います。アハアハ笑いながら、何やら金子君が動く気配がして、闇に明かりが灯りました。すると、幽霊にしては生々しく存在感のある、健康そうな紅顔の美部君の姿が照らし出されました。両足を地につけてトコトコと鍋を覗き込みます。
「ああ、えらい残り少ないじゃないか」
 口を尖らせる美部君に、金子君が包みを差し出します。
「安心し給え、美部君の羊肉は、別に分けてとってあるよ」
「羊肉……?」
 まだ腰を抜かしたまま、吉原君が呆然と問います。闇鍋の肉は、人間のものではなかったのか。金子君と美部君が吉原君に振り返りました。
「まだ呆けているのかい。いい加減に気づき給えよ、人肉鍋だなんて狂言さ」
「でも、二階から……」
「梯子(はしご)さ」
「梯子……」
 あっけない種明かしに、吉原君はガックリと首を落としました。二階の窓から現れる怪も、分かってみれば単純なカラクリであります。クスクス笑いながら、美部君が鍋に羊肉を入れます。
「ああ、担がれた。それにしてもひどい。腰が抜けちまったぜ」
 ようやく腰に力が戻り、吉原君が恨めしく金子君と美部君を睨みます。
「すまんな、吉原君。でも薔薇の君に頼まれたら、嫌というわけにいかないだろう」
 金子君が頭を掻きながら言います。どうやら、イタズラの主犯は美部君のようです。
「美部君。何の恨みがあって、こんなイタズラをするのだね。手が込んでるじゃないか」
 闇鍋会を立ち上げ、肉を用意して人肉怪談を語らせ、梯子で二階の窓下に張り付いて待機しているのですから、担ぐにしても随分手間をかけています。
「仕方ないさ、天罰天罰」
 羊肉を頬張りながら、美部君は涼しいものです。
「人災だろう、何が天罰だよ」
 少し怒って吉原君が言うと、美部君が彼を睨み返しました。
「姉さんの復讐だよ」
「美部君。君、お姉さんがいるのかい」
 金子君が目を丸くして訊きます。吉原君も驚きました。
「そいつぁ初耳だ」
「ずっと遊郭にいたからね。去年ようやく年季が明けて、今は芸者をしているのだよ。甲野君に言わせると、二十五の年増で、芸者あがりの娼婦みたいな女で、読み書きも出来ない無学低脳なんだとさ」
「おい、それは……」
 驚く金子君と吉原君に、美部君はさらに言いました。
「ついでに吉原君に言わせると、どこか悪いのか青白くホッソリした、女郎蜘蛛を思わせる年増盛りのいい女、でもツンと澄ましかえった天狗美人らしい」
「うわわわ」
 吉原君が慌てて口を開閉します。弄んだ死美人の身内が目の前にいるのですから、狼狽するのも当然です。金子君はへーえと感心しました。
「すると、美人画の裸体モデルも、温泉旅館の病弱美女も、同じ女で美部君のお姉さんだったわけかい」
 なんという偶然でありましょう。なるほど美部君の姉なら美人なわけだと、金子君はため息をつきました。そして金子君は、口惜しそうに爪を噛みました。
「ああ、でももう、美しいお姉さんは亡くなってしまったのだね。惜しい、生きているうちに会いたかった!」
 人の死を悼むよりも、美が失われたことを惜しむ金子君であります。そんな彼を美部君は呆れた顔で見やり、言いました。
「じゃあ今度会わせてあげるさ」
「え、存命なのかい」
「人の姉を勝手に殺さないでくれ給えよ。なあ、吉原君」
「いや、すまんすまん」
 吉原君はばつが悪そうに頬を掻きました。
「なんだい、死美人はホラかい」
「当たり前じゃないか。俺がやったのは眠り薬を垂らすまでよ。帯に手をかけたら、あっけなく目を覚まして、追い出されちまった」
「笑い事じゃあないぞ。夜中に目を覚まして、男が忍んでいたらどれだけ怖いと思う」
「悪い、許してくれ給え」
 吉原君が手をすり合わせて平身低頭するのを、美部君は見下ろして言います。
「謝るなら、誠意を見せてくれないと。言葉じゃなくて、目に見える形でね」
 そう言って、手のひらを突き出します。
「チェッ、結局は金かよ」
「当然さぁ、姉の体は商品なのだからね」
「なんて弟だよ、まったく」
 吉原君から金を取り上げると、美部君は素早く懐にしまいました。美女に指一本触れていないのに金だけ取られて、吉原君は口惜しそうであります。
「美部君。お姉さんが商品なら、僕も金を出せば相手をしてもらえるのかね」
 金子君が美部君の肩をつついて言います。美部君はチョット目を見開きました。
「まあ、相応の金子を払ってくれるなら……でも君、男色じゃなかったの」
「美部君の姉君なら、是非付き合ってみたいよ。ああ嬉しいな、やっと美女と出会えるよ」
 美女への渇望を美少年と戯れることで紛らわしていた金子君、実に嬉しそうであります。そんな金子君を見て美部君は、やれやれようやく少年愛ごっこから解放されると息をつきながら、でも金蔓を手放すわけにはいかないぞと、姉を末永く高く売りつける算段を考えるのでありました。
「それにしても甲野君も吉原君も、手を出した女が美部君の姉だと、分からなかったのかね」
「芸者は芸名を使うからねぇ。素性を隠す者も多いし」
 美部君が長い睫を陰らせました。
「随分と苦労したのだよ、姉は。貧困のために身を売って、裸体のモデルになって。ようやく遊郭を出た所に現れた、大学生。青年学士とまっとうに生きていこうと思ったら捨てられるし、傷心旅行に出たら変な薬を垂らされるし」
 姉から話を聞いて美部君は、悪い男たちが学友の甲野君と吉原君であることに思い当たり、このような怪奇闇鍋会を計画したのでありました。
「だから悪かったって。金払っただろ」
 口を尖らせる吉原君を無視して、美部君は得意の上目遣いで、金子君を見上げました。
「だからね、金子君。姉を紹介するのはいいけれど、遊びや興味本位では困るのだよ。僕ら姉弟が、どれだけ金のために苦労してきたか、察してもらいたい。姉ももう若くないのだ、いい加減な男に会わせるわけにはいかない。君を紳士と見込んで紹介するのだ、僕の信用を裏切らないでほしい」
 潤んだ瞳で囁くように言われ、手を握られると、もう金子君はアッサリと美部君の言うなりであります。
「ああ、もちろんだ。悪いようにはしない」
 胸を叩く金子君に、美部君は俯いてニヤリと欲深い笑みを漏らします。それを吉原君が、呆れた目で見ているのでありました。

「はあ、はあ、はあ……」
 所変わって、闇鍋教室から飛び出して、無意識に逃げ込んだ美術室で恐怖の息をついているのは、甲野君であります。
 夜は白々明け始め、幽霊も後を追って来ないようです。甲野君は汗を拭いました。
「キチガイだ、あいつら……」
 闇鍋怪談の顛末を知らぬ甲野君は、嫌悪と恐れに呟きました。幽霊も怖いけれど、夜が明けると幽霊よりも生者の所業のほうが恐ろしく思われました。闇鍋を中座した甲野君には、吉原君は屍姦者で、金子君に至っては男色死体愛好カニバリストであります。なんという連中かと、甲野君は震え上がりました。恐ろしさのあまり、猟奇犯罪を警察に通報しようということも思いつきません。通報どころか、恐怖に戦く甲野君には、校舎から出ようという頭すらないのでありました。むしろ、美術室にいると休まるので、ここから出たくないのです。
「あいつらに比べたら、僕のほうが、ずっとずっとまともだ……」
 恐怖のなかにも、どこか安堵するように言い、甲野君は彼に安心をもたらす裸婦画を見上げました。
「ああ美しい」
 ため息交じりに賛美する甲野君の表情からは、闇鍋怪談の恐怖は消えております。それどころか、理知的な面差しは失せ、白痴的な恍惚が浮かんでいます。
 画のモデルを捜し当て交際したるも破局を迎えたのは、美部君の姉が弟同様、金を無心する女だったからではなく、甲野君が心を奪われたのは生身のモデルではなく、描かれた絵であったからであります。
 甲野君は絵に恋しているのでありました。
 変態であります。人外の恋であります。甲野君も己の恋情が異常であることを自覚しております。それでも甲野君は、美人画から離れられないのでありました。
 ずっと己の変質を胸に秘め、自責していた甲野君でありましたが、上には上の変態がいるものだと、奇妙な安堵を覚えました。滑稽な安心であります、今宵の闇鍋の真実の怪談は、甲野君の恋ではありますまいか……。

終わり

この作品はエロ怪談シリーズ「怪談百話」の一遍です。
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