悪役令嬢の婚約破棄は「定時退社」です!

夏乃みのり

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視察から城に戻った日の夜。
私は自室の暖炉の前に座り、静かに紅茶を飲んでいた。

(疲れた……)

六時間かけて移動し、八時間かけて鉱山都市の無駄を指摘し、また六時間かけて帰ってくる。
体力の消耗が激しい。
おかげで、羊枕の上でなければ体力が回復しない体にされてしまった。

私は暖炉の火を眺め、ぼんやりと今日のことを振り返っていた。
ルーカスの太ももは、確かに最高の枕だった。
あの安定感と温かさ……あれはもはや、私の睡眠戦略における重要インフラだ。

「お嬢様、お客様からお荷物です」

ノックと共に、侍女が小さな木箱を持ってきた。
送り主の欄には、懐かしい名前が書かれていた。

**『アレン・フォン・エルトリア王子殿下より』**

「……げっ」

私は思わず、嫌そうな声を上げた。
もう関わりたくない人間ランキング、堂々の一位の人物である。
彼はこの国に滞在しているリリィが連行されたことを知って、焦っているのかもしれない。

「開けていいですか?」

「開けるな。そのまま燃やせ」

私が即答すると、侍女は驚いた顔をした。

「そ、そのような、外交上の信書を!?」

「いいえ。これは信書ではなく、単なる『未練の押し付け』です。放置する方が外交上、面倒になります」

侍女が躊躇していると、ルーカスが執務室から現れた。
彼は書類を片手に、私の方へと歩いてくる。

「何をしている、ダリア。荷物か」

「公爵様。見てください。腐ったリンゴが送られてきました」

私は木箱を指差した。

「エルトリアの王子から? 珍しい。開けてみろ」

ルーカスが興味深そうに言うので、私は仕方なく箱の封を解いた。
中には、分厚い羊皮紙の書状が入っていた。

その書状を広げた瞬間、甘ったるい香水の匂いが辺りに漂った。
そして、達筆だが、やたらと余白の多い文面が目に飛び込んできた。

> 『愛しいダリアへ
> 貴女が去りし後、我がエルトリア王国はまるで魂を抜かれたように乱れている。
> 財務官は混乱し、議会は停滞。まるで世界が嘆いているようだ。
>
> 私は、愛ゆえに厳しすぎたかもしれない。
> だが、許してくれ。
>
> 私は今、過去の過ちを水に流し、貴女に手を差し伸べよう。
> 王国には貴女の類稀なる才覚が必要なのだ。
>
> 貴女がこの狂乱を鎮めるため、すぐにでも帰国し、私を補佐してくれるなら――
> **王太子妃の地位を、特別に返してやろう。**
>
> 待っているぞ、私の賢い薔薇よ。
> アレン・フォン・エルトリア』

私は読み終わった瞬間、心底嫌な顔をした。

「……気持ち悪い」

「どれ」

ルーカスが書状を覗き込む。

「彼の言い分では、王国の混乱の原因が、私の不在にあると認めているのですね。つまり、私が今までどれだけ彼の仕事を肩代わりしていたか、という証明書です」

「そして、その上で、特別に『王太子妃の地位を返してやる』だと?」

ルーカスは冷笑した。

「あくまで、自分が上の立場だと思い込んでいる。救いようのないナルシストだ」

「問題はそこではありません」

私はため息をついた。

「この書状。私を『許してやる』という体で、事実上の『帰社命令』を出しています。しかも、あんな面倒な王太子妃の地位を報酬として提示するとは……。労働に対して、報酬がまったく見合っていません」

「当然だ。彼は君の労働の価値を知らん」

「はい。そして、この書状を保管しておくこと自体が、私にとってリスクです。いつ、この『愛の呼びかけ』が外交の場で利用されるか分かりません」

私は立ち上がると、暖炉に燃えている炎を見た。
チロチロと、ゆらめく赤い炎。

(これだ)

私は迷いなく、その分厚い羊皮紙の書状を、二つに折り、暖炉の炎の中に放り込んだ。

ヒュッ、と音を立てて、書状が燃え上がる。
甘い香水の匂いが、焦げた紙の匂いに変わり、一瞬にして消え去った。

「っ! ダリア!」

ルーカスが驚いて声を上げた。

「なぜ燃やした! それは外交文書だぞ!」

「いいえ。これは『私の二度と見たくない過去』です」

私は淡々と答えた。
炎が、あっという間に書状を黒い灰に変えていく。

「それに、暖炉の火力が弱まっていたので、火力増強のための燃料が必要でした。高価な羊皮紙なので、着火剤として優秀でしたね」

(ちょうどビスケットを食べた後の口直しにもなるし)

私は満足げに、暖炉の炎が強くなったのを眺めた。
これで、面倒な返信を書く手間も省けたし、証拠も残らない。
一石二鳥ならぬ、一石三鳥だ。

ルーカスは、呆然とした顔で燃え尽きる灰を見ていた。

「……君は」

彼は私に向き直った。
その表情は、驚き、感動、そして畏怖が入り混じった、複雑なものだった。

「なぜ燃やした。もう少し具体的に説明してみろ」

「だから、燃料として優秀で……」

「違う! 君が燃やした理由は、単なる火力増強のためではないだろう!」

ルーカスは興奮したように、私の両肩を掴んだ。

「君は、この書状を『敵からの心理的な攻撃』だと判断したのだ! 我々の関係、そしてバルディス帝国の威信を揺るがす前に、その存在自体を完全に消滅させた! 証拠を残さず、返信の労力も省き、敵の挑発を無に帰す!」

「……ええ、まあ、そんなところです」

(考えるのが面倒だっただけです)

「なんという判断力だ。そして、なんという潔さ! 君は、あの王子からの未練という名の『悪意』を、一瞬で『灰』に変えた!」

ルーカスの瞳は、熱烈な尊敬の念を帯びていた。

「君は、俺の想像以上に合理的で、そして残忍だ。……その徹底した非情さ、俺は心から愛している」

「……その愛は、ちょっと怖いです」

「恐れるな。その非情さは、俺とこの国を守るために向けられる」

ルーカスは私を抱きしめた。
彼の体は、暖炉の熱よりも熱かった。

「君は、もうあの王子のモノではない。過去の鎖は、君自身の手で燃やし尽くしたのだ。君の居場所は、ここだ。俺の隣だ」

「……はい」

私は彼の腕の中で、静かに頷いた。
面倒くさい書類が灰になったという事実が、私の心に平和をもたらしていた。

その時、ルーカスが小さな声で言った。

「だが、残念なことが一つある」

「何でしょうか」

「暖炉の火力が上がったせいで、室温が上がった。もう少し寒ければ、君を抱きしめる口実がもっと長く続いたのだが」

「……」

この男、本当にどこまでが合理的な判断で、どこからが私的な感情なのだろうか。
やはり判別不能だ。

ルーカスは私を抱きしめたまま、燃え尽きた灰を見た。

「あの愚かな王子は、君の『不在』が国を滅ぼすと気づいた。だが、もう遅い」

彼は私を解放し、自室に戻って行った。
そして、数分後。
彼は二枚の書類を持って戻ってきた。

「ダリア。君の故郷への、俺からの返信だ」

「返信? 燃やしたのに」

「ああ。燃やしたという事実は伏せて、これを使え」

そこには、極めて簡潔な文面が書かれていた。

**『我が補佐官(ダリア・ローズ)は、現在、我が国の中枢における最重要機密に携わっている。外交上の理由により、一切の接触は不可能である。以上。ルーカス・ヴァン・ハール』**

「……強引ですね」

「そしてもう一枚は、俺からの婚約申し込み書だ。君の答えを、待っている」

彼は二枚目の書類を私に渡すと、そのまま執務室に戻っていった。
私は、婚約申し込み書を前に、深くため息をついた。

(公務と私事が、完全に混ざり合ってる……)

しかし、彼のこの強引さが、私の心を惹きつけているのも事実だった。
少なくとも、もうあのナルシスト王子の顔を見ずに済む。
その点だけは、評価できる。

私は、申し込み書の裏に「週休二日制と、二時間のおやつタイムを要求する」と書き加えた。
これは、私なりの「イエス」の返事だった。
私の自由を奪うなら、同等の報酬を要求する。
それが、私の愛の形(契約)なのだ。
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