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ついに、その時が来た。
我が領土(私の安眠空間)を脅かし続けてきた害獣たち、アレン王子とリリィの処分が決定したのだ。
場所は城の謁見の間。
普段は外国の使節を迎える厳粛な場所だが、今日の空気はどこか「ゴミ出しの日」に似た清々しさがあった。
「……放せ! 私は王子だぞ! こんな扱いをして、ただで済むと思っているのか!」
喚きながら引き立てられてきたのは、数日間の地下牢生活ですっかりやつれたアレン王子だ。
かつてのキラキラしたオーラは消え失せ、ボサボサの髪に無精髭、服はヨレヨレ。
見る影もない姿だが、その瞳だけはまだ「悲劇のヒーロー」を演じる狂気でギラついている。
「嫌ぁぁっ! 帰りたくない! まだ何もしていないのよぉっ!」
続いて引きずり出されたのはリリィだ。
彼女もまた、先日の「ベーコン事件」で精神崩壊を起こしており、虚ろな目でブツブツと「カリカリ……ジューシー……」と呟いていたが、衛兵に腕を掴まれた瞬間に正気を取り戻して暴れ出した。
玉座には、この城の主であるルーカスが、氷の彫像のように冷たく座っている。
そしてその隣には、私が「特別顧問」として用意されたフカフカの椅子に深く沈み込んでいた。
「……うるさい」
私は小さく呟いた。
彼らの声量は、私の鼓膜にとって許容範囲を超えている。
「静粛に」
ルーカスの一言で、衛兵たちが槍の柄で床を打ち鳴らす。
ドンッ! という重低音が響き、二人はビクリと震えて黙った。
「アレン・フォン・エルトリア、およびリリィ。貴様らの処遇が決まった」
ルーカスが羊皮紙を広げる。
そこには、真っ赤なインクで何やら恐ろしい金額が書き連ねられていた。
「貴様らは、我が国の最重要人物であるダリアに対し、数々の『テロ行為』を行った。その損害賠償請求書だ」
「て、テロだと!? 愛を語っただけだ!」
「黙って聞け」
ルーカスは淡々と読み上げ始めた。
「一、不法侵入および器物損壊(羊型枕二号機の破壊)。これは国宝の破損と同義であるため、賠償金は金貨一万枚」
「枕一つで一万枚!?」
王子が目を剥く。
「二、精神的苦痛による業務妨害。貴様らの騒音により、ダリアの『聖なる午睡』が妨げられ、脳の演算処理が〇・五秒遅延した。これにより発生した国益の損失、金貨五万枚」
「暴利だ! そんな計算があるか!」
「三、視覚的公害。貴様らの見るに堪えない痴話喧嘩およびピンク色のドレスが、ダリアの視神経にストレスを与えた。慰謝料、金貨三万枚」
「私のドレスを公害扱いですって!?」
リリィが叫ぶ。
「締めて、金貨九万枚。これに延滞利息と事務手数料を加え、合計十万枚を即時請求する」
ルーカスは請求書を二人の前に投げ捨てた。
ヒラヒラと舞い落ちる紙切れが、二人には死刑宣告のように見えただろう。
十万枚といえば、小国の国家予算に匹敵する。
「払えるわけがないだろう! 正気か!」
「払えなければ、体で払ってもらうことになるな。我が国の北の果てにある『永久凍土の鉱山』で、死ぬまでツルハシを振るうか?」
ルーカスがサディスティックな笑みを浮かべる。
二人の顔から血の気が引いていく。
「ま、待て……! 話し合おう! 外交的解決を!」
王子が必死に懇願する。
ルーカスは「仕方ないな」という演技がかった仕草で肩を竦めた。
「……いいだろう。特別に『司法取引』を用意してやった」
「し、司法取引?」
「この書類にサインしろ」
ルーカスは別の羊皮紙を取り出した。
「これは『永久不可侵条約』および『強制送還合意書』だ。内容はシンプルだ。今後一切、ダリアの半径一キロメートル以内に近づかないこと。視界に入らないこと。名前を呼ばないこと。これを守り、直ちに帰国するなら、賠償金は免除してやる」
究極の二択だ。
借金地獄か、完全敗北しての撤退か。
「くっ……!」
王子は屈辱に唇を噛み締め、そして私を見た。
その目は、まだ諦めていなかった。
「ダリア……! 君はこれでいいのか!?」
王子が叫ぶ。
「こんな理不尽な男に支配されて、君は幸せなのか!? 借金や暴力で私を遠ざけようとする、こんな汚いやり方が、君の望む『正義』なのか!」
彼は最後の賭けに出たのだ。
私の「良心」に訴えかけ、私がルーカスを諫めることを期待している。
かつての私なら、あるいは「やりすぎです」と言ったかもしれない。
だが。
私はゆっくりと、椅子のリクライニングを起こした。
そして、王子を真っ直ぐに見つめた。
「……アレン殿下。一つ訂正させてください」
「なんだい? やはり君も、こんなことは間違っていると……」
「『汚いやり方』とおっしゃいましたね」
私は静かに首を振った。
「これは『効率的な経費削減』です」
「は……?」
「貴方を鉱山に送れば、管理コストと食費がかかります。ここで処刑すれば、死体処理と外交問題の解決に時間がかかります。しかし、借金を帳消しにする代わりに追い出せば、コストゼロで最大の害虫駆除が完了する。……これ以上ないほど、美しく合理的な解決策です」
「害虫駆除……」
「はい。私の目には、ルーカス公爵の行動は『慈悲』にすら見えます。感謝してサインするべきでは?」
私はトドメを刺した。
感情論ではない。
損得勘定のみで、彼の存在価値を否定したのだ。
王子は膝から崩れ落ちた。
彼の最後のプライド、「ダリアはまだ自分を愛している(あるいは同情している)」という幻想が、粉々に砕け散った瞬間だった。
「……負けた」
王子は震える手で羽ペンを取り、書類にサインをした。
リリィも泣きながらそれに続いた。
「契約成立だ」
ルーカスが書類を回収し、満足げに頷く。
「直ちに連行しろ。国境まで馬車で送れ。ただし、馬車の中は防音仕様にしておけ。彼らの泣き言が、沿道の住民の迷惑にならんようにな」
「はっ!」
衛兵たちが二人を乱暴に立たせる。
「離せ! 自分で歩く!」
王子は最後の抵抗で衛兵の手を振り払った。
そして、出口に向かう前、もう一度だけ振り返った。
その顔には、憑き物が落ちたような、奇妙な清々しさがあった。
「ダリア。……君は変わったな」
「そうですか? 私は最初からこうでしたよ。貴方が見ていなかっただけです」
「……そうかもしれないな」
王子は自嘲気味に笑った。
「氷の公爵よ。……忠告しておいてやる。その女は、君が思っているより厄介だぞ。彼女の『合理性』の前では、愛も情熱も、ただの計算式の一部にされる」
「忠告感謝する。だが、俺はその計算式を解くのが楽しくて仕方がないんだ」
ルーカスが不敵に笑うと、王子は「勝手にしろ」と吐き捨て、背を向けた。
リリィも「もう来ませんわ! こんな寒い国、こっちから願い下げです!」と捨て台詞を吐き、二人は衛兵に囲まれて退場していった。
重厚な扉が閉まる。
その音が、長い戦いの終わりを告げるゴングのように響いた。
シーン……。
謁見の間に、完全なる静寂が訪れた。
私は大きく、本当に大きく息を吐いた。
「終わった……」
肩の力が抜ける。
もう、どこからともなく現れるピンク色のドレスに怯えなくていい。
窓から侵入してくるナルシストに枕を壊される心配もない。
「……帰ったんですね」
「ああ。二度と戻ってこないだろう。あの書類には魔法的な拘束力も付与してある。破れば物理的に痛い目に遭う」
「さすがです。抜け目がない」
私は心からの称賛を贈った。
ルーカスは私の手を取り、労うように撫でた。
「疲れただろう、ダリア。君の平穏を守るための戦いだったが、君自身を矢面に立たせてしまった」
「いいえ。結果オーライです。これでやっと、私の『定時退社ライフ』が始まります」
私は椅子から立ち上がり、伸びをした。
関節がポキポキと鳴る。
「公爵様。今日はもう仕事はありませんよね? 祝勝会という名の残業もなしですよ?」
「ああ。今日は解散だ。君は部屋に戻り、思う存分、新しい枕と戯れるといい」
「新しい枕!?」
私の目が輝いた。
「ああ。実は、君への詫びの品として、世界最高峰の職人に作らせた『羊型枕・改(マークスリー)』が、今しがた届いたところだ」
「マークスリー……!」
「弾力性は従来の二倍、肌触りは絹ごし豆腐の如し。さらに、内部に魔石を組み込み、常に最適な温度を保つ機能付きだ」
「神ですか、貴方は」
私はルーカスを拝んだ。
やはりこの男、有能すぎる。
上司としても、パートナーとしても、これ以上の物件はない。
「さあ、行こう。俺が部屋まで送る」
ルーカスがエスコートしてくれる。
私はスキップしそうな足を抑えつつ、彼の隣を歩いた。
廊下を歩きながら、ふとルーカスが言った。
「あのアレン王子が最後に言った言葉。『愛も情熱も計算式の一部にされる』か」
「気になりますか?」
「いや。むしろ光栄だ。君の計算式の中に、俺という変数が組み込まれているなら、それは君の人生の一部になれたということだろう?」
「……変な解釈ですね」
私は苦笑した。
私の計算式はもっと単純だ。
『ルーカス=快適な寝具と環境を提供してくれる人』。
今のところ、それ以上でも以下でもない。
でも。
彼と並んで歩くこの廊下が、以前よりも少しだけ温かく、居心地良く感じるのは事実だった。
計算式の結果に、微細な誤差(エラー)が生じているのかもしれない。
『感情』という名の、予測不能な変数が。
「……まあ、悪くない誤差ですね」
「ん? 何か言ったか?」
「いいえ。早く枕にダイブしたいと言っただけです」
私は誤魔化し、歩調を速めた。
背後でルーカスが嬉しそうに笑う気配がした。
こうして、元婚約者たちは去り、城には平和が戻った。
私の敵は消えた。
あとは、この有能すぎる公爵からの「溺愛」という名の過干渉を、いかにかわして睡眠時間を確保するか。
それが、これからの私の新たな戦いになるだろう。
部屋に到着すると、ベッドの上には神々しい光を放つ『羊型枕・改』が鎮座していた。
私はドレスのまま、吸い込まれるようにダイブした。
「むぎゅぅぅぅ……」
最高だ。
これぞ人生。
「おやすみ、俺の愛しい人」
ルーカスの優しい声が遠くで聞こえ、額に温かい感触が触れた気がしたが、私の意識は既に夢の国へと旅立っていた。
完全勝利の味がする、甘い眠りの中へ。
我が領土(私の安眠空間)を脅かし続けてきた害獣たち、アレン王子とリリィの処分が決定したのだ。
場所は城の謁見の間。
普段は外国の使節を迎える厳粛な場所だが、今日の空気はどこか「ゴミ出しの日」に似た清々しさがあった。
「……放せ! 私は王子だぞ! こんな扱いをして、ただで済むと思っているのか!」
喚きながら引き立てられてきたのは、数日間の地下牢生活ですっかりやつれたアレン王子だ。
かつてのキラキラしたオーラは消え失せ、ボサボサの髪に無精髭、服はヨレヨレ。
見る影もない姿だが、その瞳だけはまだ「悲劇のヒーロー」を演じる狂気でギラついている。
「嫌ぁぁっ! 帰りたくない! まだ何もしていないのよぉっ!」
続いて引きずり出されたのはリリィだ。
彼女もまた、先日の「ベーコン事件」で精神崩壊を起こしており、虚ろな目でブツブツと「カリカリ……ジューシー……」と呟いていたが、衛兵に腕を掴まれた瞬間に正気を取り戻して暴れ出した。
玉座には、この城の主であるルーカスが、氷の彫像のように冷たく座っている。
そしてその隣には、私が「特別顧問」として用意されたフカフカの椅子に深く沈み込んでいた。
「……うるさい」
私は小さく呟いた。
彼らの声量は、私の鼓膜にとって許容範囲を超えている。
「静粛に」
ルーカスの一言で、衛兵たちが槍の柄で床を打ち鳴らす。
ドンッ! という重低音が響き、二人はビクリと震えて黙った。
「アレン・フォン・エルトリア、およびリリィ。貴様らの処遇が決まった」
ルーカスが羊皮紙を広げる。
そこには、真っ赤なインクで何やら恐ろしい金額が書き連ねられていた。
「貴様らは、我が国の最重要人物であるダリアに対し、数々の『テロ行為』を行った。その損害賠償請求書だ」
「て、テロだと!? 愛を語っただけだ!」
「黙って聞け」
ルーカスは淡々と読み上げ始めた。
「一、不法侵入および器物損壊(羊型枕二号機の破壊)。これは国宝の破損と同義であるため、賠償金は金貨一万枚」
「枕一つで一万枚!?」
王子が目を剥く。
「二、精神的苦痛による業務妨害。貴様らの騒音により、ダリアの『聖なる午睡』が妨げられ、脳の演算処理が〇・五秒遅延した。これにより発生した国益の損失、金貨五万枚」
「暴利だ! そんな計算があるか!」
「三、視覚的公害。貴様らの見るに堪えない痴話喧嘩およびピンク色のドレスが、ダリアの視神経にストレスを与えた。慰謝料、金貨三万枚」
「私のドレスを公害扱いですって!?」
リリィが叫ぶ。
「締めて、金貨九万枚。これに延滞利息と事務手数料を加え、合計十万枚を即時請求する」
ルーカスは請求書を二人の前に投げ捨てた。
ヒラヒラと舞い落ちる紙切れが、二人には死刑宣告のように見えただろう。
十万枚といえば、小国の国家予算に匹敵する。
「払えるわけがないだろう! 正気か!」
「払えなければ、体で払ってもらうことになるな。我が国の北の果てにある『永久凍土の鉱山』で、死ぬまでツルハシを振るうか?」
ルーカスがサディスティックな笑みを浮かべる。
二人の顔から血の気が引いていく。
「ま、待て……! 話し合おう! 外交的解決を!」
王子が必死に懇願する。
ルーカスは「仕方ないな」という演技がかった仕草で肩を竦めた。
「……いいだろう。特別に『司法取引』を用意してやった」
「し、司法取引?」
「この書類にサインしろ」
ルーカスは別の羊皮紙を取り出した。
「これは『永久不可侵条約』および『強制送還合意書』だ。内容はシンプルだ。今後一切、ダリアの半径一キロメートル以内に近づかないこと。視界に入らないこと。名前を呼ばないこと。これを守り、直ちに帰国するなら、賠償金は免除してやる」
究極の二択だ。
借金地獄か、完全敗北しての撤退か。
「くっ……!」
王子は屈辱に唇を噛み締め、そして私を見た。
その目は、まだ諦めていなかった。
「ダリア……! 君はこれでいいのか!?」
王子が叫ぶ。
「こんな理不尽な男に支配されて、君は幸せなのか!? 借金や暴力で私を遠ざけようとする、こんな汚いやり方が、君の望む『正義』なのか!」
彼は最後の賭けに出たのだ。
私の「良心」に訴えかけ、私がルーカスを諫めることを期待している。
かつての私なら、あるいは「やりすぎです」と言ったかもしれない。
だが。
私はゆっくりと、椅子のリクライニングを起こした。
そして、王子を真っ直ぐに見つめた。
「……アレン殿下。一つ訂正させてください」
「なんだい? やはり君も、こんなことは間違っていると……」
「『汚いやり方』とおっしゃいましたね」
私は静かに首を振った。
「これは『効率的な経費削減』です」
「は……?」
「貴方を鉱山に送れば、管理コストと食費がかかります。ここで処刑すれば、死体処理と外交問題の解決に時間がかかります。しかし、借金を帳消しにする代わりに追い出せば、コストゼロで最大の害虫駆除が完了する。……これ以上ないほど、美しく合理的な解決策です」
「害虫駆除……」
「はい。私の目には、ルーカス公爵の行動は『慈悲』にすら見えます。感謝してサインするべきでは?」
私はトドメを刺した。
感情論ではない。
損得勘定のみで、彼の存在価値を否定したのだ。
王子は膝から崩れ落ちた。
彼の最後のプライド、「ダリアはまだ自分を愛している(あるいは同情している)」という幻想が、粉々に砕け散った瞬間だった。
「……負けた」
王子は震える手で羽ペンを取り、書類にサインをした。
リリィも泣きながらそれに続いた。
「契約成立だ」
ルーカスが書類を回収し、満足げに頷く。
「直ちに連行しろ。国境まで馬車で送れ。ただし、馬車の中は防音仕様にしておけ。彼らの泣き言が、沿道の住民の迷惑にならんようにな」
「はっ!」
衛兵たちが二人を乱暴に立たせる。
「離せ! 自分で歩く!」
王子は最後の抵抗で衛兵の手を振り払った。
そして、出口に向かう前、もう一度だけ振り返った。
その顔には、憑き物が落ちたような、奇妙な清々しさがあった。
「ダリア。……君は変わったな」
「そうですか? 私は最初からこうでしたよ。貴方が見ていなかっただけです」
「……そうかもしれないな」
王子は自嘲気味に笑った。
「氷の公爵よ。……忠告しておいてやる。その女は、君が思っているより厄介だぞ。彼女の『合理性』の前では、愛も情熱も、ただの計算式の一部にされる」
「忠告感謝する。だが、俺はその計算式を解くのが楽しくて仕方がないんだ」
ルーカスが不敵に笑うと、王子は「勝手にしろ」と吐き捨て、背を向けた。
リリィも「もう来ませんわ! こんな寒い国、こっちから願い下げです!」と捨て台詞を吐き、二人は衛兵に囲まれて退場していった。
重厚な扉が閉まる。
その音が、長い戦いの終わりを告げるゴングのように響いた。
シーン……。
謁見の間に、完全なる静寂が訪れた。
私は大きく、本当に大きく息を吐いた。
「終わった……」
肩の力が抜ける。
もう、どこからともなく現れるピンク色のドレスに怯えなくていい。
窓から侵入してくるナルシストに枕を壊される心配もない。
「……帰ったんですね」
「ああ。二度と戻ってこないだろう。あの書類には魔法的な拘束力も付与してある。破れば物理的に痛い目に遭う」
「さすがです。抜け目がない」
私は心からの称賛を贈った。
ルーカスは私の手を取り、労うように撫でた。
「疲れただろう、ダリア。君の平穏を守るための戦いだったが、君自身を矢面に立たせてしまった」
「いいえ。結果オーライです。これでやっと、私の『定時退社ライフ』が始まります」
私は椅子から立ち上がり、伸びをした。
関節がポキポキと鳴る。
「公爵様。今日はもう仕事はありませんよね? 祝勝会という名の残業もなしですよ?」
「ああ。今日は解散だ。君は部屋に戻り、思う存分、新しい枕と戯れるといい」
「新しい枕!?」
私の目が輝いた。
「ああ。実は、君への詫びの品として、世界最高峰の職人に作らせた『羊型枕・改(マークスリー)』が、今しがた届いたところだ」
「マークスリー……!」
「弾力性は従来の二倍、肌触りは絹ごし豆腐の如し。さらに、内部に魔石を組み込み、常に最適な温度を保つ機能付きだ」
「神ですか、貴方は」
私はルーカスを拝んだ。
やはりこの男、有能すぎる。
上司としても、パートナーとしても、これ以上の物件はない。
「さあ、行こう。俺が部屋まで送る」
ルーカスがエスコートしてくれる。
私はスキップしそうな足を抑えつつ、彼の隣を歩いた。
廊下を歩きながら、ふとルーカスが言った。
「あのアレン王子が最後に言った言葉。『愛も情熱も計算式の一部にされる』か」
「気になりますか?」
「いや。むしろ光栄だ。君の計算式の中に、俺という変数が組み込まれているなら、それは君の人生の一部になれたということだろう?」
「……変な解釈ですね」
私は苦笑した。
私の計算式はもっと単純だ。
『ルーカス=快適な寝具と環境を提供してくれる人』。
今のところ、それ以上でも以下でもない。
でも。
彼と並んで歩くこの廊下が、以前よりも少しだけ温かく、居心地良く感じるのは事実だった。
計算式の結果に、微細な誤差(エラー)が生じているのかもしれない。
『感情』という名の、予測不能な変数が。
「……まあ、悪くない誤差ですね」
「ん? 何か言ったか?」
「いいえ。早く枕にダイブしたいと言っただけです」
私は誤魔化し、歩調を速めた。
背後でルーカスが嬉しそうに笑う気配がした。
こうして、元婚約者たちは去り、城には平和が戻った。
私の敵は消えた。
あとは、この有能すぎる公爵からの「溺愛」という名の過干渉を、いかにかわして睡眠時間を確保するか。
それが、これからの私の新たな戦いになるだろう。
部屋に到着すると、ベッドの上には神々しい光を放つ『羊型枕・改』が鎮座していた。
私はドレスのまま、吸い込まれるようにダイブした。
「むぎゅぅぅぅ……」
最高だ。
これぞ人生。
「おやすみ、俺の愛しい人」
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