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「背筋が曲がっていますわよ、ダリア様。その姿勢で、頭に乗せた本を落とさずに歩くのです」
「……鬼」
「何かおっしゃいましたか?」
「いえ、愛の鞭が心地よいと申しました」
バルディス城の広間にて。
私は今、地獄の只中にいた。
最強の味方(にして最大の天敵)となったキャサリン様による、スパルタ花嫁修業である。
私の頭の上には、分厚い百科事典が三冊乗っている。
足元は不安定な一本橋(平均台)。
そして手には、なぜかティーカップセット。
「これは何の訓練ですか? サーカスに入団する予定はないのですが」
「公爵夫人は、いかなる状況でも優雅にお茶を振る舞えなければなりません。たとえ足場が崩れようとも、頭上で爆発が起きようとも、です」
「戦場カメラマンでも目指しているのでしょうか」
私は白目を剥きながら、プルプルと震える足で平均台を進んだ。
逃げたい。
今すぐこの事典を放り投げて、ベッドにダイブしたい。
「ふん! こんな茶番、見ていられんな!」
その時、ドカドカと荒い足音と共に、数人の男女が入ってきた。
煌びやかだが、どこか品のない衣装をまとった中年の男と、その妻らしき女性、そして息子だ。
「おや、分家のバロン叔父様ではありませんか」
キャサリン様が眉をひそめる。
彼らはルーカスの親戚筋にあたる分家の人間だ。
普段は領地に引きこもっているくせに、金の匂いがすると現れるハイエナのような連中だと、ルーカスから聞いている。
「キャサリン! お前ともあろう者が、こんなふしだらな女を認めたとはな!」
バロン叔父と呼ばれた男が、私を指差して唾を飛ばした。
「聞いているぞ! 執務室で寝てばかりいる怠け者だと! しかも、アレン王子に婚約破棄された傷物だとな! こんな女が公爵夫人など、一族の恥だ!」
「そうだそうだ! 兄さん(ルーカス)は騙されているんだ!」
息子のほうも野次を飛ばす。
彼らの目は、明らかに私を見下していた。
「ここから追い出して、自分たちの息のかかった娘を嫁がせよう」という魂胆が透けて見える。
普通なら不愉快になるところだ。
しかし、今の私にとっては、彼らは救世主に見えた。
(……来た!)
私は頭上の事典を床に落とし(ドサッ!)、平均台から飛び降りた。
そして、バロン叔父の手をガシッと握った。
「おっしゃる通りです、叔父様!」
「な、なんだ!?」
「私はふしだらで、怠け者で、傷物です! 公爵夫人の器ではありません! よくぞ言ってくださいました!」
私は感動で打ち震えた。
キャサリン様という防波堤を突破するには、内部からの圧力しかないと思っていたのだ。
これぞ渡りに船。
「さあ、もっと罵ってください! 『出て行け』と! 『婚約は無効だ』と! 今すぐルーカス様に抗議してください!」
「お、おう……?」
バロン叔父がたじろぐ。
罵倒しようとした相手から感謝され、調子が狂ったようだ。
「ダリア様、何を勝手なことを」
キャサリン様が杖を鳴らして制止しようとするが、私は止まらない。
「キャサリン様も聞いたでしょう? 親族会議の結果、私は不適格と判断されました! 残念ですが、これにて花嫁修業は終了です! ああ、無念だ!(棒読み)」
私は早口でまくし立て、出口へと向かった。
このまま部屋を出て、荷物をまとめて、今度こそ本当の自由へ――!
「待て」
その野望は、またしても絶対零度の声によって阻まれた。
広間の入り口に、ルーカスが立っていた。
背後には武装した近衛兵がズラリ。
そして彼自身も、なぜか抜刀している。
「ル、ルーカス!?」
バロン叔父が悲鳴を上げる。
「久しぶりだな、叔父上。……俺の婚約者に、何か用か?」
ルーカスの笑顔は、能面のように張り付いていた。
目が笑っていないどころか、瞳の奥で赤い炎が渦巻いている。
アレン王子の時とは違う。
もっと静かで、底知れない殺気だ。
「い、いや、我々は忠告に来たのだ! この女は良くない噂がある! 一族として認められん!」
叔父が必死に弁明する。
「認めない、か」
ルーカスは剣先を床に向けたまま、ゆっくりと歩み寄る。
カツ、カツ、という足音が、死刑台へのカウントダウンのように響く。
「誰の許可を得て、俺の決定に口を挟んでいる?」
「だ、だって、公爵家の将来を思えばこそ……!」
「将来? 貴様らが心配しているのは、自分たちの『小遣い』だろう? 俺が結婚して子供ができれば、貴様らへの支援金が減るかもしれないとな」
「ぐっ……!」
図星らしい。
「言っておくが、ダリアを追い出せば、この家はどうなると思う?」
ルーカスが私の方を見た。
私は「追い出してください」という目で訴えかけたが、彼は無視した。
「彼女がいなくなれば、現在進行中の国家プロジェクト三十件が即座に停止する。予算案の策定が遅れ、軍の補給が滞り、外交交渉が決裂する。彼女の脳内にある『最適化プログラム』なしでは、もはやこの国は回らんのだ」
「そ、そんな大袈裟な……たかが女一人で!」
「大袈裟ではない。事実だ」
ルーカスは叔父の前に立ち、見下ろした。
「つまり、貴様らのやっていることは、国家機能の破壊工作だ。反逆罪で処刑されても文句は言えんぞ」
「ひいぃっ!」
叔父たちは腰を抜かしてへたり込んだ。
勝負ありだ。
私の「クビ切り計画」は、またしてもルーカスの論破力によって粉砕された。
「連れて行け。二度と敷居を跨がせるな」
衛兵たちが叔父たちを引きずっていく。
「ま、待ってくれ!」「悪気はなかったんだ!」という叫び声が遠ざかっていく。
あーあ。
私の救世主たちが、ゴミのように処理されてしまった。
広間に残されたのは、私とキャサリン様、そしてルーカス。
気まずい沈黙が流れる。
「……はぁ」
私は深いため息をついた。
「公爵様。やりすぎです。彼らの言うことも一理ありましたよ。私は本当に怠け者ですから」
「ダリア」
ルーカスが剣を鞘に収め、私の前に立った。
その表情は、先ほどまでの冷徹さとは一変し、どこか切羽詰まったものになっていた。
「……頼む」
「はい?」
「頼むから、俺を置いていかないでくれ」
ルーカスはその場で、ガバッと膝をついた。
床に手をつき、頭を下げる。
これは……。
「ど、土下座!?」
私は仰天した。
一国の宰相、氷の公爵と呼ばれる男が、衆人環視の中で(といってもキャサリン様しかいないが)、婚約者に土下座をしている。
「ルーカス、何をしているの! 公爵たる者が!」
キャサリン様も慌てるが、ルーカスは頭を上げない。
「なりふり構っていられるか! ダリア、君がいなくなったら、俺は本当に死ぬ!」
「仕事が回らないからですか?」
「それもある! だが、それ以上に……君がいないと、俺は息の仕方を忘れる!」
ルーカスが顔を上げた。
その目は潤み、必死な形相だった。
「先ほど、叔父たちの前では『仕事のため』と言った。だが、それは建前だ。本音は違う。君が隣にいない執務室など、俺にとっては独房と同じだ! 君の寝顔がない休憩時間など、拷問でしかない!」
「……重いです」
「重くて結構! 俺の全重量をかけて君を引き留める!」
彼は私の足首にすがりついた。
「お願いだ、ダリア。修業が辛いなら辞めていい。叔母上が何と言おうと、俺が盾になる。だから『出て行く』なんて言わないでくれ! 君の『クビにしてください』という言葉を聞くたびに、俺の寿命が三年縮むんだ!」
なんという駄々っ子だろうか。
この姿を国民に見せたら、支持率が暴落するか、逆に「人間味がある」と爆上がりするかどちらかだ。
キャサリン様が呆れたように額を押さえた。
「……まったく。あの冷徹なルーカスを、ここまで骨抜きにするとはね」
彼女は私を見て、苦笑した。
「分かったわ、ダリア。私の負けよ。花嫁修業は免除します」
「えっ、本当ですか!?」
「ええ。こんな情けない男の妻になるのに、高尚なマナーなど必要ないでしょう。貴女は貴女らしく、そのままでいなさい」
「ありがとうございます!!」
私はキャサリン様の手を握りしめた。
今日一番の朗報だ。
平均台も、百科事典も、もういらない。
「その代わり、ルーカス。貴方は立ちなさい。見苦しい」
「……ダリアが許してくれるまでは立たん」
ルーカスは私の足首を掴んだまま、頑固に動かない。
「許します! 許しますから離してください! 重いです!」
「本当か? もう二度と『クビにしてくれ』と言わないと誓えるか?」
「……善処します」
「誓え!」
「誓います! 誓いますから!」
私が叫ぶと、ルーカスはようやくパッと顔を輝かせ、立ち上がった。
そして、ホコリを払うこともせず、私を力一杯抱きしめた。
「良かった……! 君を失うかと思った……!」
彼は本当に震えていた。
公爵家の反乱分子などよりも、私の「退職願」のほうが、彼にとってはよほど恐ろしい脅威だったらしい。
「……バカな人ですね」
私は彼の背中に手を回し、ポンポンと叩いた。
こんな有能で、冷酷で、完璧な男が、私ごときにここまで執着するなんて。
合理的じゃない。
全然、効率的じゃない。
でも。
(……まあ、悪くない気分ね)
彼の体温に包まれながら、私は観念した。
この「重すぎる愛」からは、もう逃げられそうにない。
だったら、この愛を燃料にして、私の快適な生活圏を死守するしかない。
「ルーカス様。一つ条件があります」
「なんだ? 何でも言え。城を建て直すか? 国法を変えるか?」
「花嫁修業がなくなった分、空いた時間を全て『昼寝』に充ててもよろしいですか?」
「……フッ」
ルーカスは私の耳元で笑った。
「もちろん承認だ。なんなら、俺も付き合おう」
「それは却下です。貴方は働いてください。私の安眠を守るために」
「厳しいな、我が主人は」
こうして、公爵家の反乱(という名の親族の野次)は鎮圧され、私の花嫁修業も消滅した。
残ったのは、土下座までして私を引き留めた、溺愛公爵という名の「忠犬」だけだった。
これで私の「定時退社ライフ」を阻むものは、もう何もない……はずだ。
私はルーカスの腕の中で、明日からのダラダラ生活に思いを馳せ、ニヤリと笑った。
「……鬼」
「何かおっしゃいましたか?」
「いえ、愛の鞭が心地よいと申しました」
バルディス城の広間にて。
私は今、地獄の只中にいた。
最強の味方(にして最大の天敵)となったキャサリン様による、スパルタ花嫁修業である。
私の頭の上には、分厚い百科事典が三冊乗っている。
足元は不安定な一本橋(平均台)。
そして手には、なぜかティーカップセット。
「これは何の訓練ですか? サーカスに入団する予定はないのですが」
「公爵夫人は、いかなる状況でも優雅にお茶を振る舞えなければなりません。たとえ足場が崩れようとも、頭上で爆発が起きようとも、です」
「戦場カメラマンでも目指しているのでしょうか」
私は白目を剥きながら、プルプルと震える足で平均台を進んだ。
逃げたい。
今すぐこの事典を放り投げて、ベッドにダイブしたい。
「ふん! こんな茶番、見ていられんな!」
その時、ドカドカと荒い足音と共に、数人の男女が入ってきた。
煌びやかだが、どこか品のない衣装をまとった中年の男と、その妻らしき女性、そして息子だ。
「おや、分家のバロン叔父様ではありませんか」
キャサリン様が眉をひそめる。
彼らはルーカスの親戚筋にあたる分家の人間だ。
普段は領地に引きこもっているくせに、金の匂いがすると現れるハイエナのような連中だと、ルーカスから聞いている。
「キャサリン! お前ともあろう者が、こんなふしだらな女を認めたとはな!」
バロン叔父と呼ばれた男が、私を指差して唾を飛ばした。
「聞いているぞ! 執務室で寝てばかりいる怠け者だと! しかも、アレン王子に婚約破棄された傷物だとな! こんな女が公爵夫人など、一族の恥だ!」
「そうだそうだ! 兄さん(ルーカス)は騙されているんだ!」
息子のほうも野次を飛ばす。
彼らの目は、明らかに私を見下していた。
「ここから追い出して、自分たちの息のかかった娘を嫁がせよう」という魂胆が透けて見える。
普通なら不愉快になるところだ。
しかし、今の私にとっては、彼らは救世主に見えた。
(……来た!)
私は頭上の事典を床に落とし(ドサッ!)、平均台から飛び降りた。
そして、バロン叔父の手をガシッと握った。
「おっしゃる通りです、叔父様!」
「な、なんだ!?」
「私はふしだらで、怠け者で、傷物です! 公爵夫人の器ではありません! よくぞ言ってくださいました!」
私は感動で打ち震えた。
キャサリン様という防波堤を突破するには、内部からの圧力しかないと思っていたのだ。
これぞ渡りに船。
「さあ、もっと罵ってください! 『出て行け』と! 『婚約は無効だ』と! 今すぐルーカス様に抗議してください!」
「お、おう……?」
バロン叔父がたじろぐ。
罵倒しようとした相手から感謝され、調子が狂ったようだ。
「ダリア様、何を勝手なことを」
キャサリン様が杖を鳴らして制止しようとするが、私は止まらない。
「キャサリン様も聞いたでしょう? 親族会議の結果、私は不適格と判断されました! 残念ですが、これにて花嫁修業は終了です! ああ、無念だ!(棒読み)」
私は早口でまくし立て、出口へと向かった。
このまま部屋を出て、荷物をまとめて、今度こそ本当の自由へ――!
「待て」
その野望は、またしても絶対零度の声によって阻まれた。
広間の入り口に、ルーカスが立っていた。
背後には武装した近衛兵がズラリ。
そして彼自身も、なぜか抜刀している。
「ル、ルーカス!?」
バロン叔父が悲鳴を上げる。
「久しぶりだな、叔父上。……俺の婚約者に、何か用か?」
ルーカスの笑顔は、能面のように張り付いていた。
目が笑っていないどころか、瞳の奥で赤い炎が渦巻いている。
アレン王子の時とは違う。
もっと静かで、底知れない殺気だ。
「い、いや、我々は忠告に来たのだ! この女は良くない噂がある! 一族として認められん!」
叔父が必死に弁明する。
「認めない、か」
ルーカスは剣先を床に向けたまま、ゆっくりと歩み寄る。
カツ、カツ、という足音が、死刑台へのカウントダウンのように響く。
「誰の許可を得て、俺の決定に口を挟んでいる?」
「だ、だって、公爵家の将来を思えばこそ……!」
「将来? 貴様らが心配しているのは、自分たちの『小遣い』だろう? 俺が結婚して子供ができれば、貴様らへの支援金が減るかもしれないとな」
「ぐっ……!」
図星らしい。
「言っておくが、ダリアを追い出せば、この家はどうなると思う?」
ルーカスが私の方を見た。
私は「追い出してください」という目で訴えかけたが、彼は無視した。
「彼女がいなくなれば、現在進行中の国家プロジェクト三十件が即座に停止する。予算案の策定が遅れ、軍の補給が滞り、外交交渉が決裂する。彼女の脳内にある『最適化プログラム』なしでは、もはやこの国は回らんのだ」
「そ、そんな大袈裟な……たかが女一人で!」
「大袈裟ではない。事実だ」
ルーカスは叔父の前に立ち、見下ろした。
「つまり、貴様らのやっていることは、国家機能の破壊工作だ。反逆罪で処刑されても文句は言えんぞ」
「ひいぃっ!」
叔父たちは腰を抜かしてへたり込んだ。
勝負ありだ。
私の「クビ切り計画」は、またしてもルーカスの論破力によって粉砕された。
「連れて行け。二度と敷居を跨がせるな」
衛兵たちが叔父たちを引きずっていく。
「ま、待ってくれ!」「悪気はなかったんだ!」という叫び声が遠ざかっていく。
あーあ。
私の救世主たちが、ゴミのように処理されてしまった。
広間に残されたのは、私とキャサリン様、そしてルーカス。
気まずい沈黙が流れる。
「……はぁ」
私は深いため息をついた。
「公爵様。やりすぎです。彼らの言うことも一理ありましたよ。私は本当に怠け者ですから」
「ダリア」
ルーカスが剣を鞘に収め、私の前に立った。
その表情は、先ほどまでの冷徹さとは一変し、どこか切羽詰まったものになっていた。
「……頼む」
「はい?」
「頼むから、俺を置いていかないでくれ」
ルーカスはその場で、ガバッと膝をついた。
床に手をつき、頭を下げる。
これは……。
「ど、土下座!?」
私は仰天した。
一国の宰相、氷の公爵と呼ばれる男が、衆人環視の中で(といってもキャサリン様しかいないが)、婚約者に土下座をしている。
「ルーカス、何をしているの! 公爵たる者が!」
キャサリン様も慌てるが、ルーカスは頭を上げない。
「なりふり構っていられるか! ダリア、君がいなくなったら、俺は本当に死ぬ!」
「仕事が回らないからですか?」
「それもある! だが、それ以上に……君がいないと、俺は息の仕方を忘れる!」
ルーカスが顔を上げた。
その目は潤み、必死な形相だった。
「先ほど、叔父たちの前では『仕事のため』と言った。だが、それは建前だ。本音は違う。君が隣にいない執務室など、俺にとっては独房と同じだ! 君の寝顔がない休憩時間など、拷問でしかない!」
「……重いです」
「重くて結構! 俺の全重量をかけて君を引き留める!」
彼は私の足首にすがりついた。
「お願いだ、ダリア。修業が辛いなら辞めていい。叔母上が何と言おうと、俺が盾になる。だから『出て行く』なんて言わないでくれ! 君の『クビにしてください』という言葉を聞くたびに、俺の寿命が三年縮むんだ!」
なんという駄々っ子だろうか。
この姿を国民に見せたら、支持率が暴落するか、逆に「人間味がある」と爆上がりするかどちらかだ。
キャサリン様が呆れたように額を押さえた。
「……まったく。あの冷徹なルーカスを、ここまで骨抜きにするとはね」
彼女は私を見て、苦笑した。
「分かったわ、ダリア。私の負けよ。花嫁修業は免除します」
「えっ、本当ですか!?」
「ええ。こんな情けない男の妻になるのに、高尚なマナーなど必要ないでしょう。貴女は貴女らしく、そのままでいなさい」
「ありがとうございます!!」
私はキャサリン様の手を握りしめた。
今日一番の朗報だ。
平均台も、百科事典も、もういらない。
「その代わり、ルーカス。貴方は立ちなさい。見苦しい」
「……ダリアが許してくれるまでは立たん」
ルーカスは私の足首を掴んだまま、頑固に動かない。
「許します! 許しますから離してください! 重いです!」
「本当か? もう二度と『クビにしてくれ』と言わないと誓えるか?」
「……善処します」
「誓え!」
「誓います! 誓いますから!」
私が叫ぶと、ルーカスはようやくパッと顔を輝かせ、立ち上がった。
そして、ホコリを払うこともせず、私を力一杯抱きしめた。
「良かった……! 君を失うかと思った……!」
彼は本当に震えていた。
公爵家の反乱分子などよりも、私の「退職願」のほうが、彼にとってはよほど恐ろしい脅威だったらしい。
「……バカな人ですね」
私は彼の背中に手を回し、ポンポンと叩いた。
こんな有能で、冷酷で、完璧な男が、私ごときにここまで執着するなんて。
合理的じゃない。
全然、効率的じゃない。
でも。
(……まあ、悪くない気分ね)
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この「重すぎる愛」からは、もう逃げられそうにない。
だったら、この愛を燃料にして、私の快適な生活圏を死守するしかない。
「ルーカス様。一つ条件があります」
「なんだ? 何でも言え。城を建て直すか? 国法を変えるか?」
「花嫁修業がなくなった分、空いた時間を全て『昼寝』に充ててもよろしいですか?」
「……フッ」
ルーカスは私の耳元で笑った。
「もちろん承認だ。なんなら、俺も付き合おう」
「それは却下です。貴方は働いてください。私の安眠を守るために」
「厳しいな、我が主人は」
こうして、公爵家の反乱(という名の親族の野次)は鎮圧され、私の花嫁修業も消滅した。
残ったのは、土下座までして私を引き留めた、溺愛公爵という名の「忠犬」だけだった。
これで私の「定時退社ライフ」を阻むものは、もう何もない……はずだ。
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