悪役令嬢の婚約破棄は「定時退社」です!

夏乃みのり

文字の大きさ
25 / 28

25

しおりを挟む
「背筋が曲がっていますわよ、ダリア様。その姿勢で、頭に乗せた本を落とさずに歩くのです」

「……鬼」

「何かおっしゃいましたか?」

「いえ、愛の鞭が心地よいと申しました」

バルディス城の広間にて。
私は今、地獄の只中にいた。

最強の味方(にして最大の天敵)となったキャサリン様による、スパルタ花嫁修業である。
私の頭の上には、分厚い百科事典が三冊乗っている。
足元は不安定な一本橋(平均台)。
そして手には、なぜかティーカップセット。

「これは何の訓練ですか? サーカスに入団する予定はないのですが」

「公爵夫人は、いかなる状況でも優雅にお茶を振る舞えなければなりません。たとえ足場が崩れようとも、頭上で爆発が起きようとも、です」

「戦場カメラマンでも目指しているのでしょうか」

私は白目を剥きながら、プルプルと震える足で平均台を進んだ。
逃げたい。
今すぐこの事典を放り投げて、ベッドにダイブしたい。

「ふん! こんな茶番、見ていられんな!」

その時、ドカドカと荒い足音と共に、数人の男女が入ってきた。
煌びやかだが、どこか品のない衣装をまとった中年の男と、その妻らしき女性、そして息子だ。

「おや、分家のバロン叔父様ではありませんか」

キャサリン様が眉をひそめる。
彼らはルーカスの親戚筋にあたる分家の人間だ。
普段は領地に引きこもっているくせに、金の匂いがすると現れるハイエナのような連中だと、ルーカスから聞いている。

「キャサリン! お前ともあろう者が、こんなふしだらな女を認めたとはな!」

バロン叔父と呼ばれた男が、私を指差して唾を飛ばした。

「聞いているぞ! 執務室で寝てばかりいる怠け者だと! しかも、アレン王子に婚約破棄された傷物だとな! こんな女が公爵夫人など、一族の恥だ!」

「そうだそうだ! 兄さん(ルーカス)は騙されているんだ!」

息子のほうも野次を飛ばす。
彼らの目は、明らかに私を見下していた。
「ここから追い出して、自分たちの息のかかった娘を嫁がせよう」という魂胆が透けて見える。

普通なら不愉快になるところだ。
しかし、今の私にとっては、彼らは救世主に見えた。

(……来た!)

私は頭上の事典を床に落とし(ドサッ!)、平均台から飛び降りた。
そして、バロン叔父の手をガシッと握った。

「おっしゃる通りです、叔父様!」

「な、なんだ!?」

「私はふしだらで、怠け者で、傷物です! 公爵夫人の器ではありません! よくぞ言ってくださいました!」

私は感動で打ち震えた。
キャサリン様という防波堤を突破するには、内部からの圧力しかないと思っていたのだ。
これぞ渡りに船。

「さあ、もっと罵ってください! 『出て行け』と! 『婚約は無効だ』と! 今すぐルーカス様に抗議してください!」

「お、おう……?」

バロン叔父がたじろぐ。
罵倒しようとした相手から感謝され、調子が狂ったようだ。

「ダリア様、何を勝手なことを」

キャサリン様が杖を鳴らして制止しようとするが、私は止まらない。

「キャサリン様も聞いたでしょう? 親族会議の結果、私は不適格と判断されました! 残念ですが、これにて花嫁修業は終了です! ああ、無念だ!(棒読み)」

私は早口でまくし立て、出口へと向かった。
このまま部屋を出て、荷物をまとめて、今度こそ本当の自由へ――!

「待て」

その野望は、またしても絶対零度の声によって阻まれた。

広間の入り口に、ルーカスが立っていた。
背後には武装した近衛兵がズラリ。
そして彼自身も、なぜか抜刀している。

「ル、ルーカス!?」

バロン叔父が悲鳴を上げる。

「久しぶりだな、叔父上。……俺の婚約者に、何か用か?」

ルーカスの笑顔は、能面のように張り付いていた。
目が笑っていないどころか、瞳の奥で赤い炎が渦巻いている。
アレン王子の時とは違う。
もっと静かで、底知れない殺気だ。

「い、いや、我々は忠告に来たのだ! この女は良くない噂がある! 一族として認められん!」

叔父が必死に弁明する。

「認めない、か」

ルーカスは剣先を床に向けたまま、ゆっくりと歩み寄る。
カツ、カツ、という足音が、死刑台へのカウントダウンのように響く。

「誰の許可を得て、俺の決定に口を挟んでいる?」

「だ、だって、公爵家の将来を思えばこそ……!」

「将来? 貴様らが心配しているのは、自分たちの『小遣い』だろう? 俺が結婚して子供ができれば、貴様らへの支援金が減るかもしれないとな」

「ぐっ……!」

図星らしい。

「言っておくが、ダリアを追い出せば、この家はどうなると思う?」

ルーカスが私の方を見た。
私は「追い出してください」という目で訴えかけたが、彼は無視した。

「彼女がいなくなれば、現在進行中の国家プロジェクト三十件が即座に停止する。予算案の策定が遅れ、軍の補給が滞り、外交交渉が決裂する。彼女の脳内にある『最適化プログラム』なしでは、もはやこの国は回らんのだ」

「そ、そんな大袈裟な……たかが女一人で!」

「大袈裟ではない。事実だ」

ルーカスは叔父の前に立ち、見下ろした。

「つまり、貴様らのやっていることは、国家機能の破壊工作だ。反逆罪で処刑されても文句は言えんぞ」

「ひいぃっ!」

叔父たちは腰を抜かしてへたり込んだ。
勝負ありだ。
私の「クビ切り計画」は、またしてもルーカスの論破力によって粉砕された。

「連れて行け。二度と敷居を跨がせるな」

衛兵たちが叔父たちを引きずっていく。
「ま、待ってくれ!」「悪気はなかったんだ!」という叫び声が遠ざかっていく。

あーあ。
私の救世主たちが、ゴミのように処理されてしまった。

広間に残されたのは、私とキャサリン様、そしてルーカス。
気まずい沈黙が流れる。

「……はぁ」

私は深いため息をついた。

「公爵様。やりすぎです。彼らの言うことも一理ありましたよ。私は本当に怠け者ですから」

「ダリア」

ルーカスが剣を鞘に収め、私の前に立った。
その表情は、先ほどまでの冷徹さとは一変し、どこか切羽詰まったものになっていた。

「……頼む」

「はい?」

「頼むから、俺を置いていかないでくれ」

ルーカスはその場で、ガバッと膝をついた。
床に手をつき、頭を下げる。
これは……。

「ど、土下座!?」

私は仰天した。
一国の宰相、氷の公爵と呼ばれる男が、衆人環視の中で(といってもキャサリン様しかいないが)、婚約者に土下座をしている。

「ルーカス、何をしているの! 公爵たる者が!」

キャサリン様も慌てるが、ルーカスは頭を上げない。

「なりふり構っていられるか! ダリア、君がいなくなったら、俺は本当に死ぬ!」

「仕事が回らないからですか?」

「それもある! だが、それ以上に……君がいないと、俺は息の仕方を忘れる!」

ルーカスが顔を上げた。
その目は潤み、必死な形相だった。

「先ほど、叔父たちの前では『仕事のため』と言った。だが、それは建前だ。本音は違う。君が隣にいない執務室など、俺にとっては独房と同じだ! 君の寝顔がない休憩時間など、拷問でしかない!」

「……重いです」

「重くて結構! 俺の全重量をかけて君を引き留める!」

彼は私の足首にすがりついた。

「お願いだ、ダリア。修業が辛いなら辞めていい。叔母上が何と言おうと、俺が盾になる。だから『出て行く』なんて言わないでくれ! 君の『クビにしてください』という言葉を聞くたびに、俺の寿命が三年縮むんだ!」

なんという駄々っ子だろうか。
この姿を国民に見せたら、支持率が暴落するか、逆に「人間味がある」と爆上がりするかどちらかだ。

キャサリン様が呆れたように額を押さえた。

「……まったく。あの冷徹なルーカスを、ここまで骨抜きにするとはね」

彼女は私を見て、苦笑した。

「分かったわ、ダリア。私の負けよ。花嫁修業は免除します」

「えっ、本当ですか!?」

「ええ。こんな情けない男の妻になるのに、高尚なマナーなど必要ないでしょう。貴女は貴女らしく、そのままでいなさい」

「ありがとうございます!!」

私はキャサリン様の手を握りしめた。
今日一番の朗報だ。
平均台も、百科事典も、もういらない。

「その代わり、ルーカス。貴方は立ちなさい。見苦しい」

「……ダリアが許してくれるまでは立たん」

ルーカスは私の足首を掴んだまま、頑固に動かない。

「許します! 許しますから離してください! 重いです!」

「本当か? もう二度と『クビにしてくれ』と言わないと誓えるか?」

「……善処します」

「誓え!」

「誓います! 誓いますから!」

私が叫ぶと、ルーカスはようやくパッと顔を輝かせ、立ち上がった。
そして、ホコリを払うこともせず、私を力一杯抱きしめた。

「良かった……! 君を失うかと思った……!」

彼は本当に震えていた。
公爵家の反乱分子などよりも、私の「退職願」のほうが、彼にとってはよほど恐ろしい脅威だったらしい。

「……バカな人ですね」

私は彼の背中に手を回し、ポンポンと叩いた。
こんな有能で、冷酷で、完璧な男が、私ごときにここまで執着するなんて。
合理的じゃない。
全然、効率的じゃない。
でも。

(……まあ、悪くない気分ね)

彼の体温に包まれながら、私は観念した。
この「重すぎる愛」からは、もう逃げられそうにない。
だったら、この愛を燃料にして、私の快適な生活圏を死守するしかない。

「ルーカス様。一つ条件があります」

「なんだ? 何でも言え。城を建て直すか? 国法を変えるか?」

「花嫁修業がなくなった分、空いた時間を全て『昼寝』に充ててもよろしいですか?」

「……フッ」

ルーカスは私の耳元で笑った。

「もちろん承認だ。なんなら、俺も付き合おう」

「それは却下です。貴方は働いてください。私の安眠を守るために」

「厳しいな、我が主人は」

こうして、公爵家の反乱(という名の親族の野次)は鎮圧され、私の花嫁修業も消滅した。
残ったのは、土下座までして私を引き留めた、溺愛公爵という名の「忠犬」だけだった。

これで私の「定時退社ライフ」を阻むものは、もう何もない……はずだ。
私はルーカスの腕の中で、明日からのダラダラ生活に思いを馳せ、ニヤリと笑った。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

婚約者様への逆襲です。

有栖川灯里
恋愛
王太子との婚約を、一方的な断罪と共に破棄された令嬢・アンネリーゼ=フォン=アイゼナッハ。 理由は“聖女を妬んだ悪役”という、ありふれた台本。 だが彼女は涙ひとつ見せずに微笑み、ただ静かに言い残した。 ――「さようなら、婚約者様。二度と戻りませんわ」 すべてを捨て、王宮を去った“悪役令嬢”が辿り着いたのは、沈黙と再生の修道院。 そこで出会ったのは、聖女の奇跡に疑問を抱く神官、情報を操る傭兵、そしてかつて見逃された“真実”。 これは、少女が嘘を暴き、誇りを取り戻し、自らの手で未来を選び取る物語。 断罪は終わりではなく、始まりだった。 “信仰”に支配された王国を、静かに揺るがす――悪役令嬢の逆襲。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

4人の女

猫枕
恋愛
カトリーヌ・スタール侯爵令嬢、セリーヌ・ラルミナ伯爵令嬢、イネス・フーリエ伯爵令嬢、ミレーユ・リオンヌ子爵令息夫人。 うららかな春の日の午後、4人の見目麗しき女性達の優雅なティータイム。 このご婦人方には共通点がある。 かつて4人共が、ある一人の男性の妻であった。 『氷の貴公子』の異名を持つ男。 ジルベール・タレーラン公爵令息。 絶対的権力と富を有するタレーラン公爵家の唯一の後継者で絶世の美貌を持つ男。 しかしてその本性は冷酷無慈悲の女嫌い。 この国きっての選りすぐりの4人のご令嬢達は揃いも揃ってタレーラン家を叩き出された仲間なのだ。 こうやって集まるのはこれで2回目なのだが、やはり、話は自然と共通の話題、あの男のことになるわけで・・・。

冷徹侯爵の契約妻ですが、ざまぁの準備はできています

鍛高譚
恋愛
政略結婚――それは逃れられぬ宿命。 伯爵令嬢ルシアーナは、冷徹と名高いクロウフォード侯爵ヴィクトルのもとへ“白い結婚”として嫁ぐことになる。 愛のない契約、形式だけの夫婦生活。 それで十分だと、彼女は思っていた。 しかし、侯爵家には裏社会〈黒狼〉との因縁という深い闇が潜んでいた。 襲撃、脅迫、謀略――次々と迫る危機の中で、 ルシアーナは自分がただの“飾り”で終わることを拒む。 「この結婚をわたしの“負け”で終わらせませんわ」 財務の才と冷静な洞察を武器に、彼女は黒狼との攻防に踏み込み、 やがて侯爵をも驚かせる一手を放つ。 契約から始まった関係は、いつしか互いの未来を揺るがすものへ――。 白い結婚の裏で繰り広げられる、 “ざまぁ”と逆転のラブストーリー、いま開幕。

幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係

紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。 顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。 ※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)

婚約破棄されたので、とりあえず王太子のことは忘れます!

パリパリかぷちーの
恋愛
クライネルト公爵令嬢のリーチュは、王太子ジークフリートから卒業パーティーで大勢の前で婚約破棄を告げられる。しかし、王太子妃教育から解放されることを喜ぶリーチュは全く意に介さず、むしろ祝杯をあげる始末。彼女は領地の離宮に引きこもり、趣味である薬草園作りに没頭する自由な日々を謳歌し始める。

「役立たず」と婚約破棄されたけれど、私の価値に気づいたのは国中であなた一人だけでしたね?

ゆっこ
恋愛
「――リリアーヌ、お前との婚約は今日限りで破棄する」  王城の謁見の間。高い天井に声が響いた。  そう告げたのは、私の婚約者である第二王子アレクシス殿下だった。  周囲の貴族たちがくすくすと笑うのが聞こえる。彼らは、殿下の隣に寄り添う美しい茶髪の令嬢――伯爵令嬢ミリアが勝ち誇ったように微笑んでいるのを見て、もうすべてを察していた。 「理由は……何でしょうか?」  私は静かに問う。

婚約破棄された地味伯爵令嬢は、隠れ錬金術師でした~追放された辺境でスローライフを始めたら、隣国の冷徹魔導公爵に溺愛されて最強です~

ふわふわ
恋愛
地味で目立たない伯爵令嬢・エルカミーノは、王太子カイロンとの政略婚約を強いられていた。 しかし、転生聖女ソルスティスに心を奪われたカイロンは、公開の舞踏会で婚約破棄を宣言。「地味でお前は不要!」と嘲笑う。 周囲から「悪役令嬢」の烙印を押され、辺境追放を言い渡されたエルカミーノ。 だが内心では「やったー! これで自由!」と大喜び。 実は彼女は前世の記憶を持つ天才錬金術師で、希少素材ゼロで最強ポーションを作れるチート級の才能を隠していたのだ。 追放先の辺境で、忠実なメイド・セシルと共に薬草園を開き、のんびりスローライフを始めるエルカミーノ。 作ったポーションが村人を救い、次第に評判が広がっていく。 そんな中、隣国から視察に来た冷徹で美麗な魔導公爵・ラクティスが、エルカミーノの才能に一目惚れ(?)。 「君の錬金術は国宝級だ。僕の国へ来ないか?」とスカウトし、腹黒ながらエルカミーノにだけ甘々溺愛モード全開に! 一方、王都ではソルスティスの聖魔法が効かず魔瘴病が流行。 エルカミーノのポーションなしでは国が危機に陥り、カイロンとソルスティスは後悔の渦へ……。 公開土下座、聖女の暴走と転生者バレ、国際的な陰謀…… さまざまな試練をラクティスの守護と溺愛で乗り越え、エルカミーノは大陸の救済者となり、幸せな結婚へ! **婚約破棄ざまぁ×隠れチート錬金術×辺境スローライフ×冷徹公爵の甘々溺愛** 胸キュン&スカッと満載の異世界ファンタジー、全32話完結!

処理中です...