私が本当に好きなのは、元婚約者の完璧すぎる兄上なんです

夏乃みのり

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「……はぁ。お嬢様、いつまでそのポーズで固まっているんですか。見苦しいですよ」

 マーサの冷ややかな声で、私はようやく我に返った。

 アラルク様が去った後の部屋で、私は彼が座っていたソファのクッションを抱きしめ、天を仰いで静止していたのだ。

「マーサ……。今、ここには確かにアラルク様がいらしたのね。幻覚じゃないわよね? このクッションから漂う、冬の朝の森のような気高き香りは、現実のものよね!?」

「現実ですね。おかげで壁の『推し活マップ』もバッチリ見られましたし、お嬢様の変態性も公式に認定されたことでしょう」

「変態じゃないわ、熱心なファンなだけよ!」

 私はクッションを放り出し、慌てて壁の地図を剥がし始めた。

 まずい。非常にまずい。

 アラルク様は「俺の公務予定表」と言った。あれだけ緻密に書き込まれた移動ルートや、立ち寄り先の滞在時間予想。

 普通の令嬢なら「このストーカー女!」と叫ばれて、憲兵団に突き出されても文句は言えないレベルだ。

「……でも、アラルク様は笑っていらしたわ。あれは『僕をこんなに愛してくれて嬉しいよ』という慈愛の微笑みだったに違いないわ!」

「どう見ても『獲物を見つけた猛獣の笑み』でしたけどね」

 私は地図を丸めて隠し、必死に自分に言い聞かせた。

 大丈夫。私はあくまで「権力に飢えた悪役令嬢」として振る舞っているのだ。

 アラルク様の公務を調べていたのも、次期国王となる彼に取り入るための「政略的なリサーチ」だと言い張ればいい。

「そうよ、そうに決まっているわ。私は彼を愛しているんじゃない。彼の持つ『権力』と『美貌』と『声』と『性格』を、ただ戦略的に手に入れたいだけなのよ!」

「……それを世間では『愛している』と言うんですよ」

 翌日。謹慎中のはずの私の元に、再び王宮からの使者が訪れた。

 届けられたのは、簡素な封筒。中には、アラルク様の直筆でこう書かれていた。

『追伸。昨日の地図、一つ書き漏らしがあったぞ。明日の午後は、西門近くの孤児院を公式訪問する。……見学に来るなら、風水に障らない格好で来ることだ』

「…………ッ!!」

 私は手紙を握りしめ、音もなく絶叫した。

「マ、マーサ……! これ、見て! アラルク様が自ら! 自らスケジュールを教えてくださったわ!」

「……これ、完全に『お前が来るのは分かっているから、変な変装はするな』という警告ですよね」

「いいえ! これは『君に会いたいから、場所を指定してあげるよ』という、最高にデレたメッセージよ!」

 私はすぐさまクローゼットを開け放った。

 孤児院訪問。派手なドレスは論外だ。かといって、地味すぎるのも失礼。

「『清廉潔白な令嬢に見えるけれど、実は少しだけ遊び心のある悪女』……そんな矛盾したテーマを具現化するドレスが必要よ!」

「お嬢様、そんなもの存在しません」

 結局、私は動きやすい紺色のワンピースに、白のレースをあしらった清楚な装いを選んだ。

 もちろん、髪にはアラルク様の瞳の色に合わせた青いリボンを忍ばせる。

 当日。私は再び屋敷をこっそり脱出し(もはや門番たちも見て見ぬふりだ)、指定された場所へと向かった。

 孤児院の前では、すでにアラルク様の馬車が止まっていた。

 子供たちに囲まれ、少しだけ柔らかな表情を見せるアラルク様。

(……尊い。子供×アラルク様。この光景を絵画にして、国宝に指定すべきだわ)

 私が物陰からうっとりと眺めていると、アラルク様が不意にこちらに視線を向けた。

「……いつまでそこに隠れている。不審者だと思われるぞ」

 私はビクリと肩を揺らし、観念して姿を現した。

「あら……アラルク様。偶然ですわね。私もたまたま、この孤児院に寄付をしようと考えていたところですの」

「ふん。その手に持っている、明らかに俺の姿をスケッチするための画材は何だ?」

「……これは、その、子供たちの笑顔を描くためのものですわ」

「そうか。なら、俺の顔ばかり描くのはやめておけよ」

 アラルク様はくすりと笑い、私を隣へ招き寄せた。

「……ルルノ。君は、どうしてそんなに必死に嘘をつく?」

 不意に、彼の声が甘く、低くなった。

 至近距離で見つめられ、私は心臓が止まるかと思った。

「嘘……? 何のことでしょう」

「昨日の地図も、今日ここへ来たことも。君の行動はすべて、俺に向けられている」

 彼は私の顎を指先でクイと持ち上げ、逃げ場を奪った。

「……君は、俺が好きなんだろう?」

 直球。ストレートすぎる一撃。

 私の脳内で、警告アラートが鳴り響く。

(認めちゃダメよルルノ! ここで認めたら、ただの『恋する乙女』に成り下がってしまうわ! 私はミステリアスな悪女でなきゃいけないのよ!)

「……お、仰っしゃる意味が分かりませんわ! 私が好きなのは、あなたの持つ『王位継承権』ですのよ!」

「ほう。なら、俺の指先に触れられただけで、こんなに心臓をバクバクさせているのはなぜだ?」

「それは、その……! 高価な宝石に触れた時のような、興奮ですわ!」

「……強情な女だな」

 アラルク様は楽しげに目を細め、私の耳元で囁いた。

「いいだろう。その『嘘』、いつまで突き通せるか見ものだな。……だが覚えておけ。俺は、君が俺の顔を見るたびに、耳まで真っ赤にしていることを知っているぞ」

「な……っ!? 赤くなってなんて、おりませんわ!」

 私は真っ赤になった顔を両手で隠し、その場から逃げ出した。

 背後でアラルク様の、低く心地よい笑い声がいつまでも響いていた。

(……バレてる。完全にバレてるわ! でも認めない! 絶対に認めないんだから!)

 私の「悪女」としての矜持は、今にも崩壊しそうなほどグラグラに揺れていた。
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