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王宮の夜会で起きた、あの衝撃的な一夜から、数日が過ぎた。
あの一件は、招待客たちの間で瞬く間に広がり、尾ひれどころか、竜の翼でも生えたのではないかという勢いで、王都の社交界を駆け巡っていた。
「ねえ、お聞きになって?あのアークライト公爵が、夜会の場で、ヴァインベルク公爵家のご令嬢を『私の』と、そう仰ったそうですわ!」
「まあ!王太子殿下が見て見ぬふりをなさったというのに、それを遮って…!殿下のお顔は、真っ赤でいらしたとか」
「一体、あの悪役令嬢は、どんな手管を使ったのかしら…」
その結果、わたくしのカフェ「ルミナス」には、またしても客層に大きな変化が訪れていた。
「…な、なんなのかしら、あの方たち…」
クロエが、カウンターの陰から、こめかみをひくつかせながら呟く。
彼女の視線の先には、明らかに場違いな、きらびやかなドレスを身にまとった貴族の令嬢や夫人たちが、数組、おずおずと紅茶を飲んでいる姿があった。
魔術師や研究者たちのむさ苦しい(失礼)雰囲気とは、全く相容れない光景だ。
そして、彼女たちの目的は、どう考えても魔道具やスイーツではなかった。
紅茶を一口飲むごとに、こちらをチラチラと盗み見ては、扇子で口元を隠し、ひそひそと囁き合っている。
その視線は、珍しい生き物を観察するような、好奇と、ほんの少しの侮蔑が入り混じった、非常に居心地の悪いものだった。
「まあ、あの方が、噂の…」
「見た目は、ごく普通のご令嬢ですわね。とても、あの変人公爵を手玉に取るような魔性の女には見えませんけれど…」
「きっと、見えないところで、とんでもない媚薬でも使っているのよ」
「王太子殿下に捨てられた腹いせに、今度は公爵閣下を当て馬にするなんて、恐ろしい方…」
そんな、心ない囁きが、風に乗って、わたくしたちの耳にも届いてくる。
「もーっ!我慢できないわ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたクロエが、カウンターを叩いて立ち上がろうとするのを、わたくしは慌てて制した。
「クロエ、落ち着いて」
「落ち着いていられるもんですか!また『悪役令嬢』だなんて言われてるのよ!しかも、今度は『変人公爵を誑かした』ですって!ひどすぎるわ!」
「誑かす、ですか」
わたくしは、クロエの怒りとは裏腹に、不思議な気持ちでその言葉を反芻した。
「わたくしが、ゼノン公爵を?一体、どうやってですの?魔道具を使って?そんな、人の心を操るような危険な機能、実装した覚えは全くありませんわ」
「そういう物理的な話じゃないのよ!」
クロエが、がっくりと肩を落とす。
わたくしの、この恋愛ごとに関する致命的なまでの鈍感さは、彼女にとって、もはや頭痛の種のようだった。
わたくしにとって、社交界の噂話など、夜会の魔道具システムから得られた膨大な稼働データに比べれば、全くもって興味のない事象だった。
今も、頭の中は、次の新作魔道具である『全自動パンケーキ焼き機』の、生地の最適な攪拌速度と、焼き加減のプログラミングのことで、いっぱいであった。
そんな時だった。
カラン、と。噂の中心人物の一人が、いつものように店に現れた。
「店主、今日のスイーツはなんだ?」
ゼノン公爵は、自分に向けられる好奇の視線など、まるで存在しないかのように、まっすぐにカウンターへとやってくる。
「今日は、新作の試作品がございますの。公爵閣下におかれましても、ぜひ、その構造を解析していただきたく…」
「ほう、それは楽しみだ」
わたくしが、いつもの調子で応対していると、公爵はふと、店の異様な雰囲気に気づいたように、眉をひそめた。
「…店主。今日は、一段と騒がしいな。何か、非合理的な音波でも発生しているのか?」
「音波、と言いますか…」
わたくしは、先ほどから聞こえてくる噂話の内容を、ありのままに彼に伝えた。
わたくしが悪役令嬢で、公爵閣下を誑かした魔性の女である、と社交界では噂になっているらしい、と。
すると、公爵は一瞬だけ、ぴくりと眉を動かしたが、すぐに、ふん、と鼻で笑った。
「愚かな連中だ」
吐き捨てるように、彼は言った。
「事実と、憶測と、願望の区別すらつかんとはな。奴らの脳の情報処理能力は、生まれたてのスライム以下だと言わざるを得ない」
彼らしい、最大級の罵倒だった。
そして、彼はそれ以上、噂について言及することはなく、いつもの席に着くと、わたくしが差し出したパンケーキの試作品の解析を、真剣な顔で開始したのだった。
「この気泡の含有率…美しい。だが、焼き加減にコンマ三秒の誤差がある。それ故に、表面のメイラード反応に僅かなムラが生じている。オーブンの魔力出力を、あと二パーセント上げるべきだ」
「なるほど…!ありがとうございます、公爵閣下!」
周囲の貴婦人たちが、呆気に取られてこちらを見ている。
きっと、彼女たちの目には、スキャンダルの渦中にいる男女が、世間の噂など全く意に介さず、パンケーキの焼き加減について、真剣に議論しているという、全く理解不能な光景が映っていることだろう。
わたくしたちにとって、社交界の噂など、解析する価値もない、ただのノイズでしかなかった。
しかし、この時、わたくしたちはまだ知らなかった。
この新たな噂が、わたくしの父であるヴァインベルク公爵や、ゼノン公爵の忠実な従者であるギルバートといった、周囲の常識ある大人たちを、静かに、しかし確実に、動かし始めているということを。
嵐の中心にいる二人が、今日もマイペースにパンケーキを焼いている間に、水面下では、わたくしたちの運命を左右する、大きな何かが、動き出そうとしていたのである。
あの一件は、招待客たちの間で瞬く間に広がり、尾ひれどころか、竜の翼でも生えたのではないかという勢いで、王都の社交界を駆け巡っていた。
「ねえ、お聞きになって?あのアークライト公爵が、夜会の場で、ヴァインベルク公爵家のご令嬢を『私の』と、そう仰ったそうですわ!」
「まあ!王太子殿下が見て見ぬふりをなさったというのに、それを遮って…!殿下のお顔は、真っ赤でいらしたとか」
「一体、あの悪役令嬢は、どんな手管を使ったのかしら…」
その結果、わたくしのカフェ「ルミナス」には、またしても客層に大きな変化が訪れていた。
「…な、なんなのかしら、あの方たち…」
クロエが、カウンターの陰から、こめかみをひくつかせながら呟く。
彼女の視線の先には、明らかに場違いな、きらびやかなドレスを身にまとった貴族の令嬢や夫人たちが、数組、おずおずと紅茶を飲んでいる姿があった。
魔術師や研究者たちのむさ苦しい(失礼)雰囲気とは、全く相容れない光景だ。
そして、彼女たちの目的は、どう考えても魔道具やスイーツではなかった。
紅茶を一口飲むごとに、こちらをチラチラと盗み見ては、扇子で口元を隠し、ひそひそと囁き合っている。
その視線は、珍しい生き物を観察するような、好奇と、ほんの少しの侮蔑が入り混じった、非常に居心地の悪いものだった。
「まあ、あの方が、噂の…」
「見た目は、ごく普通のご令嬢ですわね。とても、あの変人公爵を手玉に取るような魔性の女には見えませんけれど…」
「きっと、見えないところで、とんでもない媚薬でも使っているのよ」
「王太子殿下に捨てられた腹いせに、今度は公爵閣下を当て馬にするなんて、恐ろしい方…」
そんな、心ない囁きが、風に乗って、わたくしたちの耳にも届いてくる。
「もーっ!我慢できないわ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたクロエが、カウンターを叩いて立ち上がろうとするのを、わたくしは慌てて制した。
「クロエ、落ち着いて」
「落ち着いていられるもんですか!また『悪役令嬢』だなんて言われてるのよ!しかも、今度は『変人公爵を誑かした』ですって!ひどすぎるわ!」
「誑かす、ですか」
わたくしは、クロエの怒りとは裏腹に、不思議な気持ちでその言葉を反芻した。
「わたくしが、ゼノン公爵を?一体、どうやってですの?魔道具を使って?そんな、人の心を操るような危険な機能、実装した覚えは全くありませんわ」
「そういう物理的な話じゃないのよ!」
クロエが、がっくりと肩を落とす。
わたくしの、この恋愛ごとに関する致命的なまでの鈍感さは、彼女にとって、もはや頭痛の種のようだった。
わたくしにとって、社交界の噂話など、夜会の魔道具システムから得られた膨大な稼働データに比べれば、全くもって興味のない事象だった。
今も、頭の中は、次の新作魔道具である『全自動パンケーキ焼き機』の、生地の最適な攪拌速度と、焼き加減のプログラミングのことで、いっぱいであった。
そんな時だった。
カラン、と。噂の中心人物の一人が、いつものように店に現れた。
「店主、今日のスイーツはなんだ?」
ゼノン公爵は、自分に向けられる好奇の視線など、まるで存在しないかのように、まっすぐにカウンターへとやってくる。
「今日は、新作の試作品がございますの。公爵閣下におかれましても、ぜひ、その構造を解析していただきたく…」
「ほう、それは楽しみだ」
わたくしが、いつもの調子で応対していると、公爵はふと、店の異様な雰囲気に気づいたように、眉をひそめた。
「…店主。今日は、一段と騒がしいな。何か、非合理的な音波でも発生しているのか?」
「音波、と言いますか…」
わたくしは、先ほどから聞こえてくる噂話の内容を、ありのままに彼に伝えた。
わたくしが悪役令嬢で、公爵閣下を誑かした魔性の女である、と社交界では噂になっているらしい、と。
すると、公爵は一瞬だけ、ぴくりと眉を動かしたが、すぐに、ふん、と鼻で笑った。
「愚かな連中だ」
吐き捨てるように、彼は言った。
「事実と、憶測と、願望の区別すらつかんとはな。奴らの脳の情報処理能力は、生まれたてのスライム以下だと言わざるを得ない」
彼らしい、最大級の罵倒だった。
そして、彼はそれ以上、噂について言及することはなく、いつもの席に着くと、わたくしが差し出したパンケーキの試作品の解析を、真剣な顔で開始したのだった。
「この気泡の含有率…美しい。だが、焼き加減にコンマ三秒の誤差がある。それ故に、表面のメイラード反応に僅かなムラが生じている。オーブンの魔力出力を、あと二パーセント上げるべきだ」
「なるほど…!ありがとうございます、公爵閣下!」
周囲の貴婦人たちが、呆気に取られてこちらを見ている。
きっと、彼女たちの目には、スキャンダルの渦中にいる男女が、世間の噂など全く意に介さず、パンケーキの焼き加減について、真剣に議論しているという、全く理解不能な光景が映っていることだろう。
わたくしたちにとって、社交界の噂など、解析する価値もない、ただのノイズでしかなかった。
しかし、この時、わたくしたちはまだ知らなかった。
この新たな噂が、わたくしの父であるヴァインベルク公爵や、ゼノン公爵の忠実な従者であるギルバートといった、周囲の常識ある大人たちを、静かに、しかし確実に、動かし始めているということを。
嵐の中心にいる二人が、今日もマイペースにパンケーキを焼いている間に、水面下では、わたくしたちの運命を左右する、大きな何かが、動き出そうとしていたのである。
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