婚約破棄後、優雅な引退ライフを目指すも、なぜか溺愛されまして!?~

夏乃みのり

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国境を越え、バルバロッサ帝国領内に入ってから数日が経過した。

旅は順調そのものだ。

いや、「順調」という言葉では生ぬるい。

「快適すぎて異常」と言うべきだろう。

「エミリエ、クッションの位置はそれでいいか? 腰が痛くないか?」

「……問題ありません」

「空調の魔道具の出力はどうだ? 寒くないか? 私のマントを貸そうか?」

「適温です。お構いなく」

「喉は乾いていないか? 最高級の紅茶を淹れさせたぞ」

「さっき飲んだばかりです」

向かいの席に座る皇帝陛下――アレクセイは、まるで壊れ物を扱うかのように私を世話焼き続けている。

書類仕事をしている私の手元が少しでも暗くなれば、即座に照明の明るさを調整し。

私が小さく欠伸をすれば、すぐさまフカフカのブランケットを膝にかけてくる。

至れり尽くせりだ。

あまりの待遇の良さに、私の危機管理センサーがガンガンと警報を鳴らしている。

(……これは罠だ。絶対に罠です)

私はペンを走らせながら、冷静に分析する。

人間、極度の快適環境に置かれると、思考能力が低下し、現状維持バイアスがかかる。

つまり、私をこの「動くスイートルーム」で堕落させ、思考を奪い、なし崩し的に「何も考えられないお飾り妃」にする作戦に違いない。

恐ろしい男だ、アレクセイ・フォン・バルバロッサ。

「エミリエ」

「はい、なんでしょう。今は予算案の試算中ですので、手短にお願いします」

私が顔を上げずに答えると、口元に何かが差し出された。

甘い香り。

見ると、フォークに刺された艶やかなイチゴだった。

「休憩だ。口を開けろ」

「……は?」

「『あーん』だ」

アレクセイは真顔で言った。

私はペンを置き、眉間を押さえた。

「陛下。私は乳幼児でも介護が必要な老人でもありません。食事くらい自分の手で摂取できます」

「わかっている。だが、君は仕事に熱中すると食事を忘れるだろう? これは雇用主としての健康管理(ヘルスケア)だ」

「でしたら、そこに置いておいてください。後で食べます」

「ダメだ。今すぐ食べてほしい。私が食べさせたいんだ」

「公私混同も甚だしいですね」

私は呆れてため息をついた。

しかし、アレクセイはフォークを引っ込めない。

むしろ、楽しそうに目を細めている。

「ほら、どうした? 業務命令だぞ」

「……そのような業務命令は、雇用契約書には記載されておりません」

「『その他、雇用主が必要と認めた業務』に含まれる」

「解釈の拡大が過ぎます! パワハラで訴えますよ?」

「誰にだ? この国の最高裁判長は私だが」

「くっ……独裁国家め……!」

私はギリリと歯噛みした。

三権分立が機能していない国はこれだから困る。

「それに、エミリエ。君の手を見てみろ」

「手?」

「インクがつくだろう? イチゴを手で摘めば指が汚れる。フォークを使えば仕事の手が止まる。だが、私が食べさせてやれば、君はペンを持ったまま糖分補給ができる。……極めて合理的だと思わないか?」

「……ッ!」

私は言葉に詰まった。

悔しいが、その理屈は正しい。

私の最優先事項は「効率」だ。

作業効率を落とさずに栄養補給ができるなら、その手段は問わないのがプロフェッショナルというもの。

(……くそう、論理で攻めてくるとは)

私は不承不承、口を開いた。

「……わかりました。合理的判断として受け入れます。あー」

パクり。

口の中に甘酸っぱい果汁が弾けた。

とんでもなく美味い。

市場には出回らない、王室専用農園の最高級品だろう。

糖度が段違いだ。

「どうだ? 美味いか?」

「……悔しいですが、絶品です」

「そうか。君が美味しそうに食べてくれると、私も嬉しい」

アレクセイは満足げに微笑み、次々とフルーツや焼き菓子を私の口に運んでくる。

「次はこのマスカットだ」

「んぐっ……」

「このクッキーも美味いぞ。東方のスパイス入りだ」

「もぐもぐ……」

まるで餌付けだ。

小動物か何かのように扱われている。

しかし、味は最高だし、確かに仕事は捗る。

私は複雑な気分のまま、咀嚼を続けた。

「ふふ、可愛いな」

「……戯言は結構です」

「本当だとも。君のその、膨らんだ頬。リスのようで愛らしい」

「リス……」

公爵令嬢に対してリスとは。

もっとこう、優雅な白鳥とか、気高い猫とかあるだろうに。

「陛下。確認ですが、この『餌付けタイム』に特別手当はつきますか?」

私は口元のクッキー屑を拭いながら尋ねた。

「手当?」

「はい。羞恥心に対する精神的慰謝料と、咀嚼による顎の疲労に対する手当です」

「ははは! 君はどこまで現金なんだ」

アレクセイは爆笑した。

「金銭での手当はないな。だが、報酬ならあるぞ」

「報酬?」

「ああ。私の『極上の笑顔』と『愛の言葉』だ。プライスレスだぞ?」

アレクセイはキラキラとしたエフェクトが見えそうなほどの、完璧なイケメンスマイルを向けた。

普通の令嬢なら、この笑顔だけで三回は気絶し、一生ついていくと誓うレベルの破壊力だ。

だが、私は冷徹に切り捨てた。

「つまり『無給』ですね」

「……えっ」

「報酬が『笑顔』や『やりがい』だけというのは、ブラック企業の典型的な手口です。『やりがい搾取』はお断りします」

私はピシャリと言い放ち、再び書類に目を落とした。

「次からは、一口につき銀貨一枚を請求させていただきます」

「……君の笑顔を見るためなら、それくらい安いものだが」

アレクセイは肩をすくめ、しかしどこか嬉しそうに呟いた。

「手強いな、私の事務官は。だが、その壁を崩すのが楽しみになってきた」

「壁ではありません。堅牢な金庫の扉です。暗証番号は複雑ですよ」

「ならば、総当たり攻撃(ブルートフォースアタック)で解錠するまでだ」

アレクセイはニヤリと笑い、私の髪をひと房、指に絡め取った。

その瞳の奥にある、狩人のような熱が変わらずそこにあることに、私は気づかないふりをした。

馬車の窓の外には、いつの間にか雪景色が広がっていた。

バルバロッサの帝都はもうすぐだ。

この甘くて危険な密室(馬車)から出た時、本当の戦い――私の「職場」での戦争が始まるのだ。

私は気合を入れるために、もう一つだけイチゴを要求した。

「陛下。……もう一個だけ、ください」

「お安い御用だ」

甘いイチゴの味と、アレクセイの甘い視線。

私の胃が痛くなるのは、食べ過ぎのせいだけではないはずだ。
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