13 / 28
13
舞台は、北の辺境から遠く離れた王都。
王宮の奥深くにある一室で、ヒステリックな声が響き渡っていた。
「もう嫌! こんなの無理ですわ!」
バサッ!
分厚い歴史書が床に叩きつけられる。
桃色の髪を振り乱し、顔を真っ赤にして叫んだのは、男爵令嬢クララだ。
彼女の目の前には、銀縁眼鏡をかけた厳格そうな初老の女性教師が、冷ややかな目をして立っている。
「……クララ様。まだ授業の途中です」
「だって! この国の三百年前の税制なんて、覚えて何になりますの!? 私は王太子殿下に愛されているんです! 愛があれば、政治なんてできなくてもいいはずですわ!」
クララは地団駄を踏んだ。
彼女が今受けているのは、『王妃教育』だ。
王太子の婚約者となったからには、将来の王妃として相応しい教養とマナーを身につけなければならない。
だが、その内容はクララの想像を絶する厳しさだった。
語学、歴史、経済学、帝王学、ダンス、マナー、さらには刺繍や楽器まで。
朝から晩までスケジュールがぎっしりと詰まっている。
「……嘆かわしい」
教師はため息をつき、眼鏡の位置を直した。
「前任のミュナ様は、これらすべての科目を七歳で修了されておりましたよ」
「ッ……!」
クララの動きが止まる。
まただ。
また、あの女の名前だ。
「ミュナ様は一度読んだ本の内容は忘れませんでした」
「ミュナ様はダンスのステップを一度も間違えませんでした」
「ミュナ様なら、今の質問には即答されました」
教師も、侍女も、文官たちも。
誰も彼もが、事あるごとに比較してくる。
『完璧だった前任者』と、『未熟な後釜』を。
「わ、私はミュナ様とは違うんです! あんな可愛げのない石像みたいな女と一緒にしないでください!」
「ええ、違いますね。雲泥の差です」
教師は皮肉たっぷりに言った。
「ミュナ様は『石像』かもしれませんが、少なくとも国政を理解し、予算を組み、外交文書を翻訳できる石像でした。……貴女様は、何ができますか? 愛を囁くこと以外に」
「なっ……! 無礼ですわ! アルベール様に言いつけますよ!」
「どうぞ。……では、本日の授業はここまでにいたしましょう。時間の無駄ですので」
教師は冷たく言い放ち、部屋を出て行った。
残されたクララは、悔しさで唇を噛み締めた。
「……なんなのよ、みんなして! いなくなってもまだ、あの女の影がチラつくなんて!」
クララは部屋を飛び出した。
向かう先は一つ。
自分を全肯定してくれる、唯一の存在の元だ。
「アルベール様ぁ~!」
執務室に飛び込むと、王太子アルベールは書類仕事(と言っても、単にサインをするだけの作業だが)をしていた。
「おや、クララ。どうしたんだい? そんなに慌てて」
「ひどいんです! 教育係のオババが、私をいじめるんです! 『ミュナ様の方が優秀だった』って!」
クララはアルベールの胸に飛び込み、嘘泣きを始めた。
「私、頑張っているのに……! あんな冷血女と比べられるなんて、屈辱ですわ!」
「よしよし、可哀想に」
アルベールは慣れた手つきでクララの頭を撫でた。
「あのババアも困ったものだ。古い価値観に縛られているんだよ。王妃に必要なのは知識じゃない。国民を癒やす笑顔と慈愛だ。君にはそれがある」
「アルベール様……! やっぱり分かってくださるのは貴方だけです!」
クララは潤んだ瞳で見つめ返した。
「……でも、私、傷ついちゃいました。心がボロボロです」
「おや、それは大変だ。僕に何かできることはあるかい?」
クララは待ってましたとばかりに、ねだるような声を出した。
「……新しいドレスが欲しいです。心を癒やすために」
「ドレス?」
「はい! 来週のお茶会に着ていく、最高級のシルクのドレス! それがあれば、私、また頑張れる気がします!」
アルベールは一瞬、顔を引きつらせた。
「あー……ドレスか」
「ダメですか……?」
「いや、ダメじゃない! ダメじゃないけど……その、今月はちょっと出費が多くてね」
チャリティーパーティーの大赤字が、まだ尾を引いているのだ。
だが、クララのウルウルとした瞳攻撃には勝てない。
「……分かった。王室御用達の『マダム・リリー』を呼ぼう。ツケにすればなんとかなるはずだ」
「わぁっ! 大好きですアルベール様!」
一時間後。
王都でも指折りの高級ブティックの店主、マダム・リリーが執務室にやってきた。
しかし、彼女の表情はいつもの愛想笑いではなく、どこかよそよそしい。
「……お呼びでしょうか、殿下」
「ああ。クララに新しいドレスを仕立ててやってくれ。デザインは彼女の希望通りに。代金はいつものように王室へのツケで頼む」
アルベールが鷹揚に言うと、マダム・リリーは困ったように眉を下げた。
そして、衝撃の一言を放った。
「申し訳ございませんが……ツケでのお取引は、停止させていただいております」
「……は?」
アルベールとクララが同時に固まった。
「て、停止? どういうことだ? 僕は王太子だぞ?」
「存じております。ですが……先日、財務省の方から通達がありまして。『王室の信用限度額を超過したため、全ての掛売りを禁止する』と」
「なっ……!」
「それに、先日のチャリティーパーティーの衣装代も、まだお支払いいただいておりません。……当店としましても、これ以上の未回収リスクは負いかねます」
マダム・リリーの声は、極めて事務的で冷徹だった。
商人は敏感だ。
沈みかけた船には乗らない。
「そ、そんな……! じゃあ、私のドレスは!?」
クララが叫ぶ。
「現金一括払いであれば、承りますが」
「現金なんて……」
アルベールはポケットを探ったが、出てきたのはハンカチだけだ。
彼の財布は、事実上ミュナが管理していた。
彼女がいなくなった今、彼の「打ち出の小槌」は消滅していたのだ。
「……失礼いたしました」
マダム・リリーは一礼し、さっさと帰ってしまった。
部屋に残されたのは、ドレスを買えなかったという絶望的な事実だけ。
「……嘘でしょう?」
クララが呆然と呟く。
「王太子殿下が、ドレス一着も買えないなんて……」
「くっ……! 財務省の役人め、余計なことを……!」
アルベールは机を叩いた。
「これもあれも、全部金がないせいだ! そうだ、辺境からの税金はどうなった!? あれが入れば、ドレスの一着や二着!」
その時。
バタン!
扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、先日、北の辺境へ手紙を届けに行った使者だった。
彼は雪山で遭難しかけたのか、やつれ果て、ボロボロの姿だった。
「で、殿下ぁ……! た、ただいま戻りました……!」
「おお! 待ちわびたぞ! で、どうだ? 金貨一万枚は持ってきたか!?」
アルベールが身を乗り出す。
クララも期待の眼差しを向ける。
「そ、それが……」
使者は震える手で、一枚の紙切れを差し出した。
「……ミュナ様より、お返事を預かってまいりました」
「返事? 小切手ではないのか?」
アルベールが紙を受け取る。
そこには、美しい筆跡でこう書かれていた。
『請求書』
「……は?」
アルベールが読み上げる。
『コンサルティング料(手紙の解読および添削):金貨六枚』
『精神的苦痛に対する慰謝料(支離滅裂な文章によるストレス):金貨三枚』
『暖炉燃料リサイクル手数料:金貨一枚』
『合計:金貨十枚。 支払期限:即日』
「ふ、ふざけるなあああぁぁぁ!!」
アルベールは絶叫し、請求書をビリビリに破り捨てた。
「なんだこれは! 金を出せと言っているのに、逆に請求してくるとはどういうつもりだ! しかも手紙を燃やしただと!?」
「は、はい……。『ただの燃えるゴミでした』と……」
使者が泣きそうな顔で報告する。
「おのれミュナ……! 僕をコケにするにも程がある! 王命だぞ!? 反逆罪で処刑してやる!」
アルベールは顔を真っ赤にして暴れ回った。
椅子を蹴り倒し、花瓶を割り、わめき散らす。
その様子を、クララは冷めた目で見つめていた。
(……あれ?)
彼女の頭の中で、何かが冷えていく音がした。
(お金、ないの?)
(権力も、通じないの?)
(ドレスも買えない、宝石も買えない。……ただの、金欠でヒステリックな男?)
クララは計算高い女だ。
彼女がアルベールに近づいたのは、彼が「将来の国王」であり、自分に「贅沢な暮らし」をさせてくれると踏んだからだ。
愛だの恋だのは、そのための手段に過ぎない。
だが今、その前提が崩れようとしている。
ミュナという「金庫番」を追い出した結果、アルベールという「財布」の中身が空っぽだったことが露呈してしまったのだ。
(……まずい)
クララの背筋に冷たい汗が流れる。
(このままこの男と一緒にいたら、私も泥舟に乗ることになるんじゃ……?)
「クララ! 君も怒ってくれ! あいつは本当に許せないな!」
アルベールが同意を求めてくる。
クララは反射的に、可愛らしい笑顔を作った。
「……そ、そうですわね。ひどいですわ」
だが、その笑顔は引きつっていた。
「でもアルベール様。……お金が入らないとなると、来週のお茶会、どうしましょう?」
「え? あ、ああ……まあ、あるもので我慢してくれ」
「あるものって……もう全部着回しましたわ」
「愛があれば、何を着ていても君は美しいよ」
出た。
「愛があれば」。
クララは心の中で舌打ちをした。
(愛でドレスは作れないのよ、この甲斐性なし!)
かつてミュナが言い放った言葉が、ブーメランのようにクララの脳裏に突き刺さる。
『愛でパンは買えません』
あの時のミュナの言葉は、正しかったのだ。
嫌味なほどに、残酷なほどに、正しかった。
「……私、少し気分が悪いです」
クララはふらりと立ち上がった。
「部屋に戻って休みますわ」
「おや、大丈夫かい? 僕がついていてあげようか?」
「結構です! ……一人になりたいんです」
クララはアルベールを振り切り、執務室を出た。
廊下を歩きながら、彼女は爪を噛んだ。
「……どうしよう」
焦りが胸を焦がす。
王太子の婚約者という座は手に入れた。
でも、その座が「借金まみれの貧乏くじ」だとしたら?
「……ミュナ様は、辺境で儲けているって言ってたわね」
ふと、そんな思考がよぎる。
辺境。
極寒の地。
でも、そこには「お金」がある。
そして、あの「氷雪公爵」がいる。
噂では、氷雪公爵は冷酷だが、絶世の美形だという。
「……もし、そっちの方が『当たり』だったとしたら?」
クララの瞳に、薄暗い野心の光が宿る。
彼女はまだ諦めていなかった。
自分の幸せ(=贅沢)のためなら、乗り換えも辞さない覚悟だ。
「……もう少し、調べてみる必要があるわね」
クララはスカートを翻し、自室へと急いだ。
王都の没落カップルの間に、小さな亀裂が走った瞬間だった。
一方、北の辺境。
私は執務室で、大きなくしゃみをした。
「……くしゅっ!」
「またか? 風邪じゃないのか」
カエル公爵が心配そうにブランケットを掛けてくれる。
「いえ、違います。……なんだか、すごく粘着質な寒気を感じまして」
「粘着質?」
「はい。まるで、甘い蜜に群がる蟻のような……不快な予感です」
私は身震いをして、温かい紅茶をすすった。
「ま、気のせいでしょう。それより閣下、燻製の第二工場の設計図ができましたよ」
「早いな。……どれ、見せてみろ」
私たちは再び、平和で建設的な仕事に戻った。
遠く離れた王都で、元恋敵が不穏な計算を始めていることなど、知る由もなく。
けれど、女の直感は侮れない。
クララという名の「誤算」が、やがてこの辺境にまで波及してくることを、私の本能は感じ取っていたのかもしれません。
王宮の奥深くにある一室で、ヒステリックな声が響き渡っていた。
「もう嫌! こんなの無理ですわ!」
バサッ!
分厚い歴史書が床に叩きつけられる。
桃色の髪を振り乱し、顔を真っ赤にして叫んだのは、男爵令嬢クララだ。
彼女の目の前には、銀縁眼鏡をかけた厳格そうな初老の女性教師が、冷ややかな目をして立っている。
「……クララ様。まだ授業の途中です」
「だって! この国の三百年前の税制なんて、覚えて何になりますの!? 私は王太子殿下に愛されているんです! 愛があれば、政治なんてできなくてもいいはずですわ!」
クララは地団駄を踏んだ。
彼女が今受けているのは、『王妃教育』だ。
王太子の婚約者となったからには、将来の王妃として相応しい教養とマナーを身につけなければならない。
だが、その内容はクララの想像を絶する厳しさだった。
語学、歴史、経済学、帝王学、ダンス、マナー、さらには刺繍や楽器まで。
朝から晩までスケジュールがぎっしりと詰まっている。
「……嘆かわしい」
教師はため息をつき、眼鏡の位置を直した。
「前任のミュナ様は、これらすべての科目を七歳で修了されておりましたよ」
「ッ……!」
クララの動きが止まる。
まただ。
また、あの女の名前だ。
「ミュナ様は一度読んだ本の内容は忘れませんでした」
「ミュナ様はダンスのステップを一度も間違えませんでした」
「ミュナ様なら、今の質問には即答されました」
教師も、侍女も、文官たちも。
誰も彼もが、事あるごとに比較してくる。
『完璧だった前任者』と、『未熟な後釜』を。
「わ、私はミュナ様とは違うんです! あんな可愛げのない石像みたいな女と一緒にしないでください!」
「ええ、違いますね。雲泥の差です」
教師は皮肉たっぷりに言った。
「ミュナ様は『石像』かもしれませんが、少なくとも国政を理解し、予算を組み、外交文書を翻訳できる石像でした。……貴女様は、何ができますか? 愛を囁くこと以外に」
「なっ……! 無礼ですわ! アルベール様に言いつけますよ!」
「どうぞ。……では、本日の授業はここまでにいたしましょう。時間の無駄ですので」
教師は冷たく言い放ち、部屋を出て行った。
残されたクララは、悔しさで唇を噛み締めた。
「……なんなのよ、みんなして! いなくなってもまだ、あの女の影がチラつくなんて!」
クララは部屋を飛び出した。
向かう先は一つ。
自分を全肯定してくれる、唯一の存在の元だ。
「アルベール様ぁ~!」
執務室に飛び込むと、王太子アルベールは書類仕事(と言っても、単にサインをするだけの作業だが)をしていた。
「おや、クララ。どうしたんだい? そんなに慌てて」
「ひどいんです! 教育係のオババが、私をいじめるんです! 『ミュナ様の方が優秀だった』って!」
クララはアルベールの胸に飛び込み、嘘泣きを始めた。
「私、頑張っているのに……! あんな冷血女と比べられるなんて、屈辱ですわ!」
「よしよし、可哀想に」
アルベールは慣れた手つきでクララの頭を撫でた。
「あのババアも困ったものだ。古い価値観に縛られているんだよ。王妃に必要なのは知識じゃない。国民を癒やす笑顔と慈愛だ。君にはそれがある」
「アルベール様……! やっぱり分かってくださるのは貴方だけです!」
クララは潤んだ瞳で見つめ返した。
「……でも、私、傷ついちゃいました。心がボロボロです」
「おや、それは大変だ。僕に何かできることはあるかい?」
クララは待ってましたとばかりに、ねだるような声を出した。
「……新しいドレスが欲しいです。心を癒やすために」
「ドレス?」
「はい! 来週のお茶会に着ていく、最高級のシルクのドレス! それがあれば、私、また頑張れる気がします!」
アルベールは一瞬、顔を引きつらせた。
「あー……ドレスか」
「ダメですか……?」
「いや、ダメじゃない! ダメじゃないけど……その、今月はちょっと出費が多くてね」
チャリティーパーティーの大赤字が、まだ尾を引いているのだ。
だが、クララのウルウルとした瞳攻撃には勝てない。
「……分かった。王室御用達の『マダム・リリー』を呼ぼう。ツケにすればなんとかなるはずだ」
「わぁっ! 大好きですアルベール様!」
一時間後。
王都でも指折りの高級ブティックの店主、マダム・リリーが執務室にやってきた。
しかし、彼女の表情はいつもの愛想笑いではなく、どこかよそよそしい。
「……お呼びでしょうか、殿下」
「ああ。クララに新しいドレスを仕立ててやってくれ。デザインは彼女の希望通りに。代金はいつものように王室へのツケで頼む」
アルベールが鷹揚に言うと、マダム・リリーは困ったように眉を下げた。
そして、衝撃の一言を放った。
「申し訳ございませんが……ツケでのお取引は、停止させていただいております」
「……は?」
アルベールとクララが同時に固まった。
「て、停止? どういうことだ? 僕は王太子だぞ?」
「存じております。ですが……先日、財務省の方から通達がありまして。『王室の信用限度額を超過したため、全ての掛売りを禁止する』と」
「なっ……!」
「それに、先日のチャリティーパーティーの衣装代も、まだお支払いいただいておりません。……当店としましても、これ以上の未回収リスクは負いかねます」
マダム・リリーの声は、極めて事務的で冷徹だった。
商人は敏感だ。
沈みかけた船には乗らない。
「そ、そんな……! じゃあ、私のドレスは!?」
クララが叫ぶ。
「現金一括払いであれば、承りますが」
「現金なんて……」
アルベールはポケットを探ったが、出てきたのはハンカチだけだ。
彼の財布は、事実上ミュナが管理していた。
彼女がいなくなった今、彼の「打ち出の小槌」は消滅していたのだ。
「……失礼いたしました」
マダム・リリーは一礼し、さっさと帰ってしまった。
部屋に残されたのは、ドレスを買えなかったという絶望的な事実だけ。
「……嘘でしょう?」
クララが呆然と呟く。
「王太子殿下が、ドレス一着も買えないなんて……」
「くっ……! 財務省の役人め、余計なことを……!」
アルベールは机を叩いた。
「これもあれも、全部金がないせいだ! そうだ、辺境からの税金はどうなった!? あれが入れば、ドレスの一着や二着!」
その時。
バタン!
扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、先日、北の辺境へ手紙を届けに行った使者だった。
彼は雪山で遭難しかけたのか、やつれ果て、ボロボロの姿だった。
「で、殿下ぁ……! た、ただいま戻りました……!」
「おお! 待ちわびたぞ! で、どうだ? 金貨一万枚は持ってきたか!?」
アルベールが身を乗り出す。
クララも期待の眼差しを向ける。
「そ、それが……」
使者は震える手で、一枚の紙切れを差し出した。
「……ミュナ様より、お返事を預かってまいりました」
「返事? 小切手ではないのか?」
アルベールが紙を受け取る。
そこには、美しい筆跡でこう書かれていた。
『請求書』
「……は?」
アルベールが読み上げる。
『コンサルティング料(手紙の解読および添削):金貨六枚』
『精神的苦痛に対する慰謝料(支離滅裂な文章によるストレス):金貨三枚』
『暖炉燃料リサイクル手数料:金貨一枚』
『合計:金貨十枚。 支払期限:即日』
「ふ、ふざけるなあああぁぁぁ!!」
アルベールは絶叫し、請求書をビリビリに破り捨てた。
「なんだこれは! 金を出せと言っているのに、逆に請求してくるとはどういうつもりだ! しかも手紙を燃やしただと!?」
「は、はい……。『ただの燃えるゴミでした』と……」
使者が泣きそうな顔で報告する。
「おのれミュナ……! 僕をコケにするにも程がある! 王命だぞ!? 反逆罪で処刑してやる!」
アルベールは顔を真っ赤にして暴れ回った。
椅子を蹴り倒し、花瓶を割り、わめき散らす。
その様子を、クララは冷めた目で見つめていた。
(……あれ?)
彼女の頭の中で、何かが冷えていく音がした。
(お金、ないの?)
(権力も、通じないの?)
(ドレスも買えない、宝石も買えない。……ただの、金欠でヒステリックな男?)
クララは計算高い女だ。
彼女がアルベールに近づいたのは、彼が「将来の国王」であり、自分に「贅沢な暮らし」をさせてくれると踏んだからだ。
愛だの恋だのは、そのための手段に過ぎない。
だが今、その前提が崩れようとしている。
ミュナという「金庫番」を追い出した結果、アルベールという「財布」の中身が空っぽだったことが露呈してしまったのだ。
(……まずい)
クララの背筋に冷たい汗が流れる。
(このままこの男と一緒にいたら、私も泥舟に乗ることになるんじゃ……?)
「クララ! 君も怒ってくれ! あいつは本当に許せないな!」
アルベールが同意を求めてくる。
クララは反射的に、可愛らしい笑顔を作った。
「……そ、そうですわね。ひどいですわ」
だが、その笑顔は引きつっていた。
「でもアルベール様。……お金が入らないとなると、来週のお茶会、どうしましょう?」
「え? あ、ああ……まあ、あるもので我慢してくれ」
「あるものって……もう全部着回しましたわ」
「愛があれば、何を着ていても君は美しいよ」
出た。
「愛があれば」。
クララは心の中で舌打ちをした。
(愛でドレスは作れないのよ、この甲斐性なし!)
かつてミュナが言い放った言葉が、ブーメランのようにクララの脳裏に突き刺さる。
『愛でパンは買えません』
あの時のミュナの言葉は、正しかったのだ。
嫌味なほどに、残酷なほどに、正しかった。
「……私、少し気分が悪いです」
クララはふらりと立ち上がった。
「部屋に戻って休みますわ」
「おや、大丈夫かい? 僕がついていてあげようか?」
「結構です! ……一人になりたいんです」
クララはアルベールを振り切り、執務室を出た。
廊下を歩きながら、彼女は爪を噛んだ。
「……どうしよう」
焦りが胸を焦がす。
王太子の婚約者という座は手に入れた。
でも、その座が「借金まみれの貧乏くじ」だとしたら?
「……ミュナ様は、辺境で儲けているって言ってたわね」
ふと、そんな思考がよぎる。
辺境。
極寒の地。
でも、そこには「お金」がある。
そして、あの「氷雪公爵」がいる。
噂では、氷雪公爵は冷酷だが、絶世の美形だという。
「……もし、そっちの方が『当たり』だったとしたら?」
クララの瞳に、薄暗い野心の光が宿る。
彼女はまだ諦めていなかった。
自分の幸せ(=贅沢)のためなら、乗り換えも辞さない覚悟だ。
「……もう少し、調べてみる必要があるわね」
クララはスカートを翻し、自室へと急いだ。
王都の没落カップルの間に、小さな亀裂が走った瞬間だった。
一方、北の辺境。
私は執務室で、大きなくしゃみをした。
「……くしゅっ!」
「またか? 風邪じゃないのか」
カエル公爵が心配そうにブランケットを掛けてくれる。
「いえ、違います。……なんだか、すごく粘着質な寒気を感じまして」
「粘着質?」
「はい。まるで、甘い蜜に群がる蟻のような……不快な予感です」
私は身震いをして、温かい紅茶をすすった。
「ま、気のせいでしょう。それより閣下、燻製の第二工場の設計図ができましたよ」
「早いな。……どれ、見せてみろ」
私たちは再び、平和で建設的な仕事に戻った。
遠く離れた王都で、元恋敵が不穏な計算を始めていることなど、知る由もなく。
けれど、女の直感は侮れない。
クララという名の「誤算」が、やがてこの辺境にまで波及してくることを、私の本能は感じ取っていたのかもしれません。
あなたにおすすめの小説
『お前の針仕事など誰でもできる』——なら社交界のドレスの裏地を、めくってごらんなさい
歩人
ファンタジー
「地味な針仕事しかできない令嬢は要らない」——公爵家の嫡男にそう言い渡された伯爵令嬢ティナは、
裁縫道具だけを持って屋敷を出た。その翌週、社交界が凍りつく。王妃の夜会服も、公爵令嬢の舞踏会
ドレスも、第一王女の外交用ローブも——仕立てた職人が消えたのだ。しかもティナが十年かけて縫った
全てのドレスの裏地には、二重縫いで隠された署名が残されていて——。
辺境の小さな仕立て屋で穏やかに暮らすティナの元に、王都から使者がやってくる。
【完結】遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
【残り数話を持ちまして3月29日完結!!】
夫にも子どもにも、私は選ばれなかった。
長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。
待っていたのは、凍てつく絶望。
けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。
「夫は愛人と生きればいい。
今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」
それでも私は誓う――
「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」
歪で、完全な幸福――それとも、破滅。
“石”に翻弄された者たちの、狂おしい物語。
『婚約破棄だ』と王子が告げた瞬間、王城の花が枯れ、泉が涸れ、空が曇った——令嬢に宿る精霊の加護を、誰も知らなかった
歩人
ファンタジー
公爵令嬢エレオノーラは、生まれつき大精霊の加護を宿していた。
しかし本人も、それが自分の力だとは知らなかった。
王城の庭園が四季を問わず花で溢れていたのも、泉が枯れなかったのも、
王都に災害が起きなかったのも——全てエレオノーラの存在がもたらす精霊の恩恵だった。
王子に「地味で退屈な女」と婚約破棄され、王城を去った瞬間——
花が萎れ、泉が涸れ、空が曇り始めた。
追放されたエレオノーラが辺境の荒野に足を踏み入れると、枯れた大地に花が咲き乱れた。
そのとき初めて、彼女は自分の中にある力に気づく。
わたくしがお父様に疎まれている?いいえ、目に入れても痛くない程溺愛されております。
織り子
ファンタジー
王国貴族院の卒業記念パーティーの場で、大公家の令嬢ルクレツィア・アーヴェントは王太子エドワードから突然の婚約破棄を告げられる。
父であるアーヴェント大公に疎まれている――
噂を知った王太子は、彼女を公衆の面前で侮辱する。
『教育係など誰でもできる』と私を捨てた婚約者だけが、誰にも教わらなかった
歩人
ファンタジー
頭上に才能値が見える加護を持つ伯爵令嬢セシリアは、貴族子弟の家庭教師として十年を捧げた。
「教育係など誰でもできる」——婚約者の侯爵嫡男に捨てられた翌年、異変が起きる。
宰相の息子が「セシリア先生のおかげです」と宣言し、騎士団長の娘が「戦術は先生から」と語り、
第三王子が即位演説で頭を下げた。王国の未来を作った女性が名もなき家庭教師として捨てられていたと
知ったとき——教えを拒んだたった一人の男だけが、取り残された。
追放されたお茶係の令嬢ですが、辺境で開いた茶館が『本音で話せる唯一の場所』として大繁盛しています
歩人
ファンタジー
「お茶を淹れるだけの令嬢に、婚約者の資格はない」——宮廷お茶会の筆頭給仕だった伯爵令嬢ユーフィリア
は追放された。翌月から宮廷は混乱する。約束は破られ、密約は露見し、外交は紛糾する。
実はユーフィリアのお茶には「真実の一煎」の加護が宿っていた。一煎目で本音がこぼれ、二煎目で嘘が
苦しくなり、三煎目で心の底が溢れ出す。辺境で開いた茶館「一煎堂」は「ここで話すと夫婦喧嘩が
解決する」と評判に。そして最後のお茶会で、三煎目が全てを暴く——。
「お前のことは忘れる」と婚約破棄した王子が、本当に令嬢の記憶だけを失ったら、残ったのは空っぽの日常だった
歩人
ファンタジー
公爵令嬢シャルロッテは、第一王子ヴィルヘルムの影で内政・外交・軍事顧問を
こなす実質的なブレーンだった。しかしヴィルヘルムはその功績を全て「自分の
才能」と信じ、婚約破棄の席で「お前のことは忘れる」と宣言してしまう。
王家に伝わる「忘却の呪い」が発動し、ヴィルヘルムはシャルロッテに関する
全ての記憶を失う。残されたのは、なぜ自分がこれほど恵まれているのか
わからない空白の日常だった。一方シャルロッテは、彼女の価値を最初から
見抜いていた第二王子ユリウスの元で穏やかに暮らし始める。
すみっこ婚約破棄同盟〜王子様による婚約破棄のすみっこで〜
まりー
恋愛
ある夜会で王子とその側近達の婚約破棄が行われた。腕に恋人をぶら下げて。所謂、王道断罪劇である。
でもこのお話の主役は麗しのヒロインでも、キラキラ王子でも、学園一の秀才や騎士団期待のホープでもない。これは王道のすみっこで行われた、弱小貴族と商人の子息たちの婚約破棄のお話である。
_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
「もう俺ら、恋なんてしない!」と言う小学生の息子の話を参考に書きました。登場人物の男子たちの頭は小学生レベルだと思って読んでください。