「悪役令嬢」の烙印? どうでもいいので、財政赤字です!

夏乃みのり

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舞台は、北の辺境から遠く離れた王都。

王宮の奥深くにある一室で、ヒステリックな声が響き渡っていた。

「もう嫌! こんなの無理ですわ!」

バサッ!

分厚い歴史書が床に叩きつけられる。

桃色の髪を振り乱し、顔を真っ赤にして叫んだのは、男爵令嬢クララだ。

彼女の目の前には、銀縁眼鏡をかけた厳格そうな初老の女性教師が、冷ややかな目をして立っている。

「……クララ様。まだ授業の途中です」

「だって! この国の三百年前の税制なんて、覚えて何になりますの!? 私は王太子殿下に愛されているんです! 愛があれば、政治なんてできなくてもいいはずですわ!」

クララは地団駄を踏んだ。

彼女が今受けているのは、『王妃教育』だ。

王太子の婚約者となったからには、将来の王妃として相応しい教養とマナーを身につけなければならない。

だが、その内容はクララの想像を絶する厳しさだった。

語学、歴史、経済学、帝王学、ダンス、マナー、さらには刺繍や楽器まで。

朝から晩までスケジュールがぎっしりと詰まっている。

「……嘆かわしい」

教師はため息をつき、眼鏡の位置を直した。

「前任のミュナ様は、これらすべての科目を七歳で修了されておりましたよ」

「ッ……!」

クララの動きが止まる。

まただ。

また、あの女の名前だ。

「ミュナ様は一度読んだ本の内容は忘れませんでした」

「ミュナ様はダンスのステップを一度も間違えませんでした」

「ミュナ様なら、今の質問には即答されました」

教師も、侍女も、文官たちも。

誰も彼もが、事あるごとに比較してくる。

『完璧だった前任者』と、『未熟な後釜』を。

「わ、私はミュナ様とは違うんです! あんな可愛げのない石像みたいな女と一緒にしないでください!」

「ええ、違いますね。雲泥の差です」

教師は皮肉たっぷりに言った。

「ミュナ様は『石像』かもしれませんが、少なくとも国政を理解し、予算を組み、外交文書を翻訳できる石像でした。……貴女様は、何ができますか? 愛を囁くこと以外に」

「なっ……! 無礼ですわ! アルベール様に言いつけますよ!」

「どうぞ。……では、本日の授業はここまでにいたしましょう。時間の無駄ですので」

教師は冷たく言い放ち、部屋を出て行った。

残されたクララは、悔しさで唇を噛み締めた。

「……なんなのよ、みんなして! いなくなってもまだ、あの女の影がチラつくなんて!」

クララは部屋を飛び出した。

向かう先は一つ。

自分を全肯定してくれる、唯一の存在の元だ。

「アルベール様ぁ~!」

執務室に飛び込むと、王太子アルベールは書類仕事(と言っても、単にサインをするだけの作業だが)をしていた。

「おや、クララ。どうしたんだい? そんなに慌てて」

「ひどいんです! 教育係のオババが、私をいじめるんです! 『ミュナ様の方が優秀だった』って!」

クララはアルベールの胸に飛び込み、嘘泣きを始めた。

「私、頑張っているのに……! あんな冷血女と比べられるなんて、屈辱ですわ!」

「よしよし、可哀想に」

アルベールは慣れた手つきでクララの頭を撫でた。

「あのババアも困ったものだ。古い価値観に縛られているんだよ。王妃に必要なのは知識じゃない。国民を癒やす笑顔と慈愛だ。君にはそれがある」

「アルベール様……! やっぱり分かってくださるのは貴方だけです!」

クララは潤んだ瞳で見つめ返した。

「……でも、私、傷ついちゃいました。心がボロボロです」

「おや、それは大変だ。僕に何かできることはあるかい?」

クララは待ってましたとばかりに、ねだるような声を出した。

「……新しいドレスが欲しいです。心を癒やすために」

「ドレス?」

「はい! 来週のお茶会に着ていく、最高級のシルクのドレス! それがあれば、私、また頑張れる気がします!」

アルベールは一瞬、顔を引きつらせた。

「あー……ドレスか」

「ダメですか……?」

「いや、ダメじゃない! ダメじゃないけど……その、今月はちょっと出費が多くてね」

チャリティーパーティーの大赤字が、まだ尾を引いているのだ。

だが、クララのウルウルとした瞳攻撃には勝てない。

「……分かった。王室御用達の『マダム・リリー』を呼ぼう。ツケにすればなんとかなるはずだ」

「わぁっ! 大好きですアルベール様!」

一時間後。

王都でも指折りの高級ブティックの店主、マダム・リリーが執務室にやってきた。

しかし、彼女の表情はいつもの愛想笑いではなく、どこかよそよそしい。

「……お呼びでしょうか、殿下」

「ああ。クララに新しいドレスを仕立ててやってくれ。デザインは彼女の希望通りに。代金はいつものように王室へのツケで頼む」

アルベールが鷹揚に言うと、マダム・リリーは困ったように眉を下げた。

そして、衝撃の一言を放った。

「申し訳ございませんが……ツケでのお取引は、停止させていただいております」

「……は?」

アルベールとクララが同時に固まった。

「て、停止? どういうことだ? 僕は王太子だぞ?」

「存じております。ですが……先日、財務省の方から通達がありまして。『王室の信用限度額を超過したため、全ての掛売りを禁止する』と」

「なっ……!」

「それに、先日のチャリティーパーティーの衣装代も、まだお支払いいただいておりません。……当店としましても、これ以上の未回収リスクは負いかねます」

マダム・リリーの声は、極めて事務的で冷徹だった。

商人は敏感だ。

沈みかけた船には乗らない。

「そ、そんな……! じゃあ、私のドレスは!?」

クララが叫ぶ。

「現金一括払いであれば、承りますが」

「現金なんて……」

アルベールはポケットを探ったが、出てきたのはハンカチだけだ。

彼の財布は、事実上ミュナが管理していた。

彼女がいなくなった今、彼の「打ち出の小槌」は消滅していたのだ。

「……失礼いたしました」

マダム・リリーは一礼し、さっさと帰ってしまった。

部屋に残されたのは、ドレスを買えなかったという絶望的な事実だけ。

「……嘘でしょう?」

クララが呆然と呟く。

「王太子殿下が、ドレス一着も買えないなんて……」

「くっ……! 財務省の役人め、余計なことを……!」

アルベールは机を叩いた。

「これもあれも、全部金がないせいだ! そうだ、辺境からの税金はどうなった!? あれが入れば、ドレスの一着や二着!」

その時。

バタン!

扉が勢いよく開いた。

入ってきたのは、先日、北の辺境へ手紙を届けに行った使者だった。

彼は雪山で遭難しかけたのか、やつれ果て、ボロボロの姿だった。

「で、殿下ぁ……! た、ただいま戻りました……!」

「おお! 待ちわびたぞ! で、どうだ? 金貨一万枚は持ってきたか!?」

アルベールが身を乗り出す。

クララも期待の眼差しを向ける。

「そ、それが……」

使者は震える手で、一枚の紙切れを差し出した。

「……ミュナ様より、お返事を預かってまいりました」

「返事? 小切手ではないのか?」

アルベールが紙を受け取る。

そこには、美しい筆跡でこう書かれていた。

『請求書』

「……は?」

アルベールが読み上げる。

『コンサルティング料(手紙の解読および添削):金貨六枚』

『精神的苦痛に対する慰謝料(支離滅裂な文章によるストレス):金貨三枚』

『暖炉燃料リサイクル手数料:金貨一枚』

『合計:金貨十枚。 支払期限:即日』

「ふ、ふざけるなあああぁぁぁ!!」

アルベールは絶叫し、請求書をビリビリに破り捨てた。

「なんだこれは! 金を出せと言っているのに、逆に請求してくるとはどういうつもりだ! しかも手紙を燃やしただと!?」

「は、はい……。『ただの燃えるゴミでした』と……」

使者が泣きそうな顔で報告する。

「おのれミュナ……! 僕をコケにするにも程がある! 王命だぞ!? 反逆罪で処刑してやる!」

アルベールは顔を真っ赤にして暴れ回った。

椅子を蹴り倒し、花瓶を割り、わめき散らす。

その様子を、クララは冷めた目で見つめていた。

(……あれ?)

彼女の頭の中で、何かが冷えていく音がした。

(お金、ないの?)

(権力も、通じないの?)

(ドレスも買えない、宝石も買えない。……ただの、金欠でヒステリックな男?)

クララは計算高い女だ。

彼女がアルベールに近づいたのは、彼が「将来の国王」であり、自分に「贅沢な暮らし」をさせてくれると踏んだからだ。

愛だの恋だのは、そのための手段に過ぎない。

だが今、その前提が崩れようとしている。

ミュナという「金庫番」を追い出した結果、アルベールという「財布」の中身が空っぽだったことが露呈してしまったのだ。

(……まずい)

クララの背筋に冷たい汗が流れる。

(このままこの男と一緒にいたら、私も泥舟に乗ることになるんじゃ……?)

「クララ! 君も怒ってくれ! あいつは本当に許せないな!」

アルベールが同意を求めてくる。

クララは反射的に、可愛らしい笑顔を作った。

「……そ、そうですわね。ひどいですわ」

だが、その笑顔は引きつっていた。

「でもアルベール様。……お金が入らないとなると、来週のお茶会、どうしましょう?」

「え? あ、ああ……まあ、あるもので我慢してくれ」

「あるものって……もう全部着回しましたわ」

「愛があれば、何を着ていても君は美しいよ」

出た。

「愛があれば」。

クララは心の中で舌打ちをした。

(愛でドレスは作れないのよ、この甲斐性なし!)

かつてミュナが言い放った言葉が、ブーメランのようにクララの脳裏に突き刺さる。

『愛でパンは買えません』

あの時のミュナの言葉は、正しかったのだ。

嫌味なほどに、残酷なほどに、正しかった。

「……私、少し気分が悪いです」

クララはふらりと立ち上がった。

「部屋に戻って休みますわ」

「おや、大丈夫かい? 僕がついていてあげようか?」

「結構です! ……一人になりたいんです」

クララはアルベールを振り切り、執務室を出た。

廊下を歩きながら、彼女は爪を噛んだ。

「……どうしよう」

焦りが胸を焦がす。

王太子の婚約者という座は手に入れた。

でも、その座が「借金まみれの貧乏くじ」だとしたら?

「……ミュナ様は、辺境で儲けているって言ってたわね」

ふと、そんな思考がよぎる。

辺境。

極寒の地。

でも、そこには「お金」がある。

そして、あの「氷雪公爵」がいる。

噂では、氷雪公爵は冷酷だが、絶世の美形だという。

「……もし、そっちの方が『当たり』だったとしたら?」

クララの瞳に、薄暗い野心の光が宿る。

彼女はまだ諦めていなかった。

自分の幸せ(=贅沢)のためなら、乗り換えも辞さない覚悟だ。

「……もう少し、調べてみる必要があるわね」

クララはスカートを翻し、自室へと急いだ。

王都の没落カップルの間に、小さな亀裂が走った瞬間だった。

一方、北の辺境。

私は執務室で、大きなくしゃみをした。

「……くしゅっ!」

「またか? 風邪じゃないのか」

カエル公爵が心配そうにブランケットを掛けてくれる。

「いえ、違います。……なんだか、すごく粘着質な寒気を感じまして」

「粘着質?」

「はい。まるで、甘い蜜に群がる蟻のような……不快な予感です」

私は身震いをして、温かい紅茶をすすった。

「ま、気のせいでしょう。それより閣下、燻製の第二工場の設計図ができましたよ」

「早いな。……どれ、見せてみろ」

私たちは再び、平和で建設的な仕事に戻った。

遠く離れた王都で、元恋敵が不穏な計算を始めていることなど、知る由もなく。

けれど、女の直感は侮れない。

クララという名の「誤算」が、やがてこの辺境にまで波及してくることを、私の本能は感じ取っていたのかもしれません。
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