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休日の市場めぐりから数日後。
カフェ・アルケミスタは、いつも通りの穏やかな午後の時間を迎えていた。
マリアンは、店の前に置いた大きなプランターに、新しいハーブの苗を植えていた。ミントやローズマリーの爽やかな香りが、初夏の風に乗ってふわりと漂う。
そんな彼女の周りには、いつの間にか小さな人だかりができていた。近所に住む、腕白盛りの子供たちだ。
「ねえ、マリアンお姉ちゃん! 今日のおやつの試作品はなあに?」
「昨日、団長様が食べてたチョコレートのケーキ、俺たちも食べたい!」
店の甘い香りに誘われてやってくる子供たちは、今や常連客の一員だった。
「こらこら、あなたたちはつまみ食いの専門でしょう?それに、団長様、なんて呼んではだめですよ。アレクシス様、とお呼びなさい」
マリアンは、泥だらけの手を休め、母親のような優しい口調で彼らをいなす。そんなやり取りも、すっかり日常の光景になっていた。
「えー、だって、騎士団の人たちがみんなそう呼んでるもん!」
一番年下の男の子、トムがそう言って駆け出した瞬間だった。石畳のわずかな段差につまずき、見事にすてんと転んでしまった。
「うわーん! いたいよぉ!」
あっという間に、トムの膝からは血が滲み、大きな瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちる。
「まあ、大変!」
マリアンは慌てて駆け寄り、その小さな体を抱き起こした。
「大丈夫よ、トム。男の子でしょう? ほら、涙を拭いて。お店に、よく効く薬があるから待っててね」
マリアンがハンカチでトムの涙を拭い、店へ戻ろうと立ち上がった、まさにその時だった。
すっと、大きな影が彼らの上に落ちた。
見上げると、そこには屯所から出てきたばかりなのだろう、騎士団の制服を纏ったアレクシスが、いつもの険しい顔で立っていた。
「……」
その姿を認めた瞬間、わんわん泣いていたトムはもちろん、周りではやし立てていた子供たちも、まるで魔法にでもかかったかのように、ぴたりと動きを止めた。
鬼より怖い、氷の騎士団長。その威圧感の前に、子供たちの顔は恐怖で引きつっている。
(まずいわ……。きっと、「騒々しい」と一喝されてしまう)
マリアンは、きゅっと身構えた。
しかし、アレクシスの取った行動は、マリアンの予想を、そしてそこにいた全員の予想を、鮮やかに裏切るものだった。
アレクシスは、ゆっくりと、その大きな体躯をかがめると、泣いているトムの前に、静かにしゃがみこんだのだ。子供の目線と、同じ高さになるように。
「……男だろう」
低い、けれど落ち着いた声が、トムにかけられた。
「そのくらいの傷で、みっともない声を出すな」
口調は、厳しかった。けれど、不思議といつものような刺々しさは感じられなかった。
アレクシスは、懐から雪のように白い、清潔なハンカチを取り出すと、その大きな武骨な手で、トムの膝の土を、驚くほど優しい手つきで、そっと拭ってやった。
そして。
彼は、制服のポケットから、キラリと光る小さな何かを取り出した。それは、一粒の、綺麗に包装された飴玉だった。
「……これをやる。だから、もう泣くな」
そう言って、彼はトムの小さな手のひらに、その飴玉を乗せてやった。
そして、ほんの少しだけ、本当に、ほんのわずかだけ、その鉄仮面のような口の端を、きゅっと持ち上げてみせた。
それは、笑顔と呼ぶにはあまりにも不器用で、ぎこちなかった。けれど、その青い瞳には、確かに温かい光が宿っていた。
マリアンは、その光景を、息をするのも忘れて、ただじっと見つめていた。
鬼の騎士団長が、子供のために地面に膝をつき、飴玉を渡し、そして、不器用な笑顔を見せている。
その、あまりのギャップに。
ドクン、と。
マリアンの胸が、今まで一度も感じたことのない種類の音を立てて、大きく、そして甘く、高鳴った。
(……え?)
アレクシスは、マリアンの呆然とした視線に気づくと、はっとしたように立ち上がり、ばつが悪そうに一つ、咳払いをした。
「……騒がしい」
いつもの冷たい声でそう言い捨てると、彼はくるりと踵を返し、マリアンの顔も見ずに、さっさとカフェの扉を開けて中へ入ってしまった。
後に残されたマリアンは、しばらくその場で動くことができなかった。
高鳴りが収まらない胸を、ぎゅっと押さえる。頬が、カッと熱くなるのがわかった。
泣き止んだトムが、もらった飴玉を嬉しそうに見つめている。その隣で、マリアンは、先ほどの彼の、あの不器用な笑顔を思い出していた。
(……あの顔は、反則、ですわ)
ぽつりと心の中で呟いた言葉は、自分でも驚くほど、甘く震えていた。
ただの無愛想で不器用な隣人。そう思っていたはずの男の、ほんのささいな、けれど温かい一面。
それを見てしまったマリアンの心は、もう、元には戻れそうになかった。
カフェ・アルケミスタは、いつも通りの穏やかな午後の時間を迎えていた。
マリアンは、店の前に置いた大きなプランターに、新しいハーブの苗を植えていた。ミントやローズマリーの爽やかな香りが、初夏の風に乗ってふわりと漂う。
そんな彼女の周りには、いつの間にか小さな人だかりができていた。近所に住む、腕白盛りの子供たちだ。
「ねえ、マリアンお姉ちゃん! 今日のおやつの試作品はなあに?」
「昨日、団長様が食べてたチョコレートのケーキ、俺たちも食べたい!」
店の甘い香りに誘われてやってくる子供たちは、今や常連客の一員だった。
「こらこら、あなたたちはつまみ食いの専門でしょう?それに、団長様、なんて呼んではだめですよ。アレクシス様、とお呼びなさい」
マリアンは、泥だらけの手を休め、母親のような優しい口調で彼らをいなす。そんなやり取りも、すっかり日常の光景になっていた。
「えー、だって、騎士団の人たちがみんなそう呼んでるもん!」
一番年下の男の子、トムがそう言って駆け出した瞬間だった。石畳のわずかな段差につまずき、見事にすてんと転んでしまった。
「うわーん! いたいよぉ!」
あっという間に、トムの膝からは血が滲み、大きな瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちる。
「まあ、大変!」
マリアンは慌てて駆け寄り、その小さな体を抱き起こした。
「大丈夫よ、トム。男の子でしょう? ほら、涙を拭いて。お店に、よく効く薬があるから待っててね」
マリアンがハンカチでトムの涙を拭い、店へ戻ろうと立ち上がった、まさにその時だった。
すっと、大きな影が彼らの上に落ちた。
見上げると、そこには屯所から出てきたばかりなのだろう、騎士団の制服を纏ったアレクシスが、いつもの険しい顔で立っていた。
「……」
その姿を認めた瞬間、わんわん泣いていたトムはもちろん、周りではやし立てていた子供たちも、まるで魔法にでもかかったかのように、ぴたりと動きを止めた。
鬼より怖い、氷の騎士団長。その威圧感の前に、子供たちの顔は恐怖で引きつっている。
(まずいわ……。きっと、「騒々しい」と一喝されてしまう)
マリアンは、きゅっと身構えた。
しかし、アレクシスの取った行動は、マリアンの予想を、そしてそこにいた全員の予想を、鮮やかに裏切るものだった。
アレクシスは、ゆっくりと、その大きな体躯をかがめると、泣いているトムの前に、静かにしゃがみこんだのだ。子供の目線と、同じ高さになるように。
「……男だろう」
低い、けれど落ち着いた声が、トムにかけられた。
「そのくらいの傷で、みっともない声を出すな」
口調は、厳しかった。けれど、不思議といつものような刺々しさは感じられなかった。
アレクシスは、懐から雪のように白い、清潔なハンカチを取り出すと、その大きな武骨な手で、トムの膝の土を、驚くほど優しい手つきで、そっと拭ってやった。
そして。
彼は、制服のポケットから、キラリと光る小さな何かを取り出した。それは、一粒の、綺麗に包装された飴玉だった。
「……これをやる。だから、もう泣くな」
そう言って、彼はトムの小さな手のひらに、その飴玉を乗せてやった。
そして、ほんの少しだけ、本当に、ほんのわずかだけ、その鉄仮面のような口の端を、きゅっと持ち上げてみせた。
それは、笑顔と呼ぶにはあまりにも不器用で、ぎこちなかった。けれど、その青い瞳には、確かに温かい光が宿っていた。
マリアンは、その光景を、息をするのも忘れて、ただじっと見つめていた。
鬼の騎士団長が、子供のために地面に膝をつき、飴玉を渡し、そして、不器用な笑顔を見せている。
その、あまりのギャップに。
ドクン、と。
マリアンの胸が、今まで一度も感じたことのない種類の音を立てて、大きく、そして甘く、高鳴った。
(……え?)
アレクシスは、マリアンの呆然とした視線に気づくと、はっとしたように立ち上がり、ばつが悪そうに一つ、咳払いをした。
「……騒がしい」
いつもの冷たい声でそう言い捨てると、彼はくるりと踵を返し、マリアンの顔も見ずに、さっさとカフェの扉を開けて中へ入ってしまった。
後に残されたマリアンは、しばらくその場で動くことができなかった。
高鳴りが収まらない胸を、ぎゅっと押さえる。頬が、カッと熱くなるのがわかった。
泣き止んだトムが、もらった飴玉を嬉しそうに見つめている。その隣で、マリアンは、先ほどの彼の、あの不器用な笑顔を思い出していた。
(……あの顔は、反則、ですわ)
ぽつりと心の中で呟いた言葉は、自分でも驚くほど、甘く震えていた。
ただの無愛想で不器用な隣人。そう思っていたはずの男の、ほんのささいな、けれど温かい一面。
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