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煌びやかなシャンデリアの光が、王城の大夜会会場をこれでもかと照らし出している。
耳に心地よいはずの円舞曲が不自然に止まり、何百人という貴族たちの視線が一箇所に集まった。
その視線の先に立っているのは、この国の第一王子ジュリアン。
そして、その腕にこれ見よがしに抱きついている男爵令嬢のカトレアだ。
二人の正面に立つ私、リーナ・フォン・アトラスは、扇で口元を隠しながら静かにその時を待っていた。
「リーナ・フォン・アトラス! 貴様のような冷酷で、あまつさえカトレアを害そうとする悪女との婚約を、私は今この場をもって破棄する!」
ジュリアン王子の声が、会場の隅々にまで響き渡った。
周囲からは「ああ、ついに……」「あんなに美しいのに、中身は蛇のようだと聞くしな」という、勝手極まりない囁き声が漏れ聞こえてくる。
私は、ゆっくりと扇を閉じた。
そして、精一杯の「悲劇のヒロイン」を演じるべく、わずかに眉を寄せて見せる。
「……ジュリアン様、それは本気でございますか? 私には、身に覚えのないことばかりでございますが」
「黙れ! カトレアが全てを話してくれたぞ。貴様は彼女を噴水に突き飛ばし、さらには教科書を切り裂き、挙句の果てには毒を盛ろうとしたそうではないか!」
王子の隣で、カトレアが「ひっ」と短い悲鳴を上げて王子の胸に顔を埋めた。
「怖いです、ジュリアン様……。リーナ様があんなに恐ろしい目で私を睨むから……」
「大丈夫だ、カトレア。これからは私が君を守る。リーナ、貴様に言い残すことはあるか!」
言い残すこと?
そんなもの、一つしかない。
私は内心で、ガッツポーズを通り越して、大腿四頭筋に力を込めていた。
(やった……! ついに来たわ! この重たくて苦しいコルセット、肩を凝らせるだけの豪華な装飾品、そして動きにくいドレスから解放される日が!)
私はこの瞬間のために、何年も「冷酷な悪役令嬢」を演じ続けてきたのだ。
愛想を振りまかなければ、王子の方から勝手に嫌ってくれる。
そうすれば、面倒な王妃教育からも、窮屈な宮廷生活からもおさらばできる。
私の真の目的は、自由な身になって、思う存分「己の肉体」を鍛え上げることにある。
前世の記憶なんてものはないが、幼い頃から私の魂は叫んでいたのだ。
「強くあれ。鋼の如き肉体こそが、唯一裏切らない真実である」と。
「……そこまで仰るのでしたら、仕方がございません。私の身の潔白を信じていただけないのは残念ですが、殿下のお幸せを祈り、身を引きましょう」
私は深々と頭を下げた。
顔を上げると、そこには「あ、しまった」という顔をした父、アトラス公爵が立っている。
父は私の「本性」を唯一知る人物だ。
「リーナ、お前……。本当にいいのか?」
「はい、お父様。私は潔く、この場を去ります。……ただ、殿下。一つだけ、条件を飲んでいただけますか?」
ジュリアン王子は鼻を鳴らし、勝ち誇ったような顔で言った。
「条件だと? 金か、それとも名誉の維持か? 何なりと言え。慈悲深い私が聞き届けてやろう」
私は、淑女の微笑みを浮かべながら告げた。
「私を、辺境の地『ゼノス領』へ追放していただきたいのです。公爵家の籍も抜き、一人の自由人として、あの厳しい環境で静かに暮らしたいと思います」
会場がざわめいた。
ゼノス領。そこは年中強力な魔物が跋扈し、冬は雪に閉ざされる。
「生きて帰れぬ魔境」として有名な場所だ。
「……自ら地獄を選ぶというのか? ふん、いいだろう! 望み通りにしてやる。明日には王都を去れ!」
「ありがとうございます、殿下。寛大なお心に感謝いたしますわ」
私は優雅にカーテシーをした。
実際、心の中ではサンバを踊り、ベンチプレスを100キロ上げているような気分だった。
(あそこは魔物が出るおかげで、最高のトレーニング相手に困らないって噂じゃない。しかも、空気は澄んでいて、坂道も多い。自重トレーニングにはうってつけの聖地だわ!)
私は周囲の憐れむような視線を背に、軽やかな足取りで会場を後にした。
あまりに足取りが軽すぎて、ドレスの裾を少し踏んでしまったが、強靭な体幹のおかげで微塵も揺らがなかった。
「待ちなさい、リーナ!」
馬車に乗り込もうとした時、背後から声をかけられた。
父、アトラス公爵だ。
「お父様。夜会を台無しにしてしまい、申し訳ございません」
「いや、それはいいんだが……。お前、さっきから筋肉の収縮を抑えきれていないぞ。口角がニヤついている」
「おっと、失礼。つい、あちらでのメニューを考えてしまいまして。まずは重力に感謝しながらのスクワットから始めようかと」
父は大きなため息をつき、私の肩に手を置いた。
「お前がそれを望むなら、私は止めん。だが、あのゼノス領を治める辺境伯、ギルベルト殿は……かなり『個性的』な男だと聞く。気をつけなさい」
「個性的? それは楽しみですね。筋肉に理解がある方だと嬉しいのですが」
「……そういう意味ではないと思うんだがな」
父に見送られ、私は馬車に飛び乗った。
馬車が走り出すと同時に、私は窮屈なドレスの背中の紐を強引に引きちぎった。
「ぷはぁっ! 空気が美味しい! 肺活量が戻ってくるわ!」
私は馬車の座席に手をつき、そのまま逆立ちをした。
振動する馬車内での逆立ちは、体幹を鍛えるのに非常に効率が良い。
「さようなら、軟弱な王子。さようなら、退屈な社交界。こんにちは、私のプロテイン・パラダイス!」
リーナ・フォン・アトラス、18歳。
婚約破棄をきっかけに、彼女の本当の人生が今、幕を開けたのである。
翌朝、私は最低限の荷物(と言いつつ、半分以上は特注の鉄アレイと高タンパクな乾燥肉だ)を抱え、辺境への長い旅路についた。
目指すは、筋肉の聖地、ゼノス領。
そこで私を待ち受けているのが、運命の恋か、それとも更なる筋肉の追い込みか。
この時の私は、まだ知る由もなかった。
耳に心地よいはずの円舞曲が不自然に止まり、何百人という貴族たちの視線が一箇所に集まった。
その視線の先に立っているのは、この国の第一王子ジュリアン。
そして、その腕にこれ見よがしに抱きついている男爵令嬢のカトレアだ。
二人の正面に立つ私、リーナ・フォン・アトラスは、扇で口元を隠しながら静かにその時を待っていた。
「リーナ・フォン・アトラス! 貴様のような冷酷で、あまつさえカトレアを害そうとする悪女との婚約を、私は今この場をもって破棄する!」
ジュリアン王子の声が、会場の隅々にまで響き渡った。
周囲からは「ああ、ついに……」「あんなに美しいのに、中身は蛇のようだと聞くしな」という、勝手極まりない囁き声が漏れ聞こえてくる。
私は、ゆっくりと扇を閉じた。
そして、精一杯の「悲劇のヒロイン」を演じるべく、わずかに眉を寄せて見せる。
「……ジュリアン様、それは本気でございますか? 私には、身に覚えのないことばかりでございますが」
「黙れ! カトレアが全てを話してくれたぞ。貴様は彼女を噴水に突き飛ばし、さらには教科書を切り裂き、挙句の果てには毒を盛ろうとしたそうではないか!」
王子の隣で、カトレアが「ひっ」と短い悲鳴を上げて王子の胸に顔を埋めた。
「怖いです、ジュリアン様……。リーナ様があんなに恐ろしい目で私を睨むから……」
「大丈夫だ、カトレア。これからは私が君を守る。リーナ、貴様に言い残すことはあるか!」
言い残すこと?
そんなもの、一つしかない。
私は内心で、ガッツポーズを通り越して、大腿四頭筋に力を込めていた。
(やった……! ついに来たわ! この重たくて苦しいコルセット、肩を凝らせるだけの豪華な装飾品、そして動きにくいドレスから解放される日が!)
私はこの瞬間のために、何年も「冷酷な悪役令嬢」を演じ続けてきたのだ。
愛想を振りまかなければ、王子の方から勝手に嫌ってくれる。
そうすれば、面倒な王妃教育からも、窮屈な宮廷生活からもおさらばできる。
私の真の目的は、自由な身になって、思う存分「己の肉体」を鍛え上げることにある。
前世の記憶なんてものはないが、幼い頃から私の魂は叫んでいたのだ。
「強くあれ。鋼の如き肉体こそが、唯一裏切らない真実である」と。
「……そこまで仰るのでしたら、仕方がございません。私の身の潔白を信じていただけないのは残念ですが、殿下のお幸せを祈り、身を引きましょう」
私は深々と頭を下げた。
顔を上げると、そこには「あ、しまった」という顔をした父、アトラス公爵が立っている。
父は私の「本性」を唯一知る人物だ。
「リーナ、お前……。本当にいいのか?」
「はい、お父様。私は潔く、この場を去ります。……ただ、殿下。一つだけ、条件を飲んでいただけますか?」
ジュリアン王子は鼻を鳴らし、勝ち誇ったような顔で言った。
「条件だと? 金か、それとも名誉の維持か? 何なりと言え。慈悲深い私が聞き届けてやろう」
私は、淑女の微笑みを浮かべながら告げた。
「私を、辺境の地『ゼノス領』へ追放していただきたいのです。公爵家の籍も抜き、一人の自由人として、あの厳しい環境で静かに暮らしたいと思います」
会場がざわめいた。
ゼノス領。そこは年中強力な魔物が跋扈し、冬は雪に閉ざされる。
「生きて帰れぬ魔境」として有名な場所だ。
「……自ら地獄を選ぶというのか? ふん、いいだろう! 望み通りにしてやる。明日には王都を去れ!」
「ありがとうございます、殿下。寛大なお心に感謝いたしますわ」
私は優雅にカーテシーをした。
実際、心の中ではサンバを踊り、ベンチプレスを100キロ上げているような気分だった。
(あそこは魔物が出るおかげで、最高のトレーニング相手に困らないって噂じゃない。しかも、空気は澄んでいて、坂道も多い。自重トレーニングにはうってつけの聖地だわ!)
私は周囲の憐れむような視線を背に、軽やかな足取りで会場を後にした。
あまりに足取りが軽すぎて、ドレスの裾を少し踏んでしまったが、強靭な体幹のおかげで微塵も揺らがなかった。
「待ちなさい、リーナ!」
馬車に乗り込もうとした時、背後から声をかけられた。
父、アトラス公爵だ。
「お父様。夜会を台無しにしてしまい、申し訳ございません」
「いや、それはいいんだが……。お前、さっきから筋肉の収縮を抑えきれていないぞ。口角がニヤついている」
「おっと、失礼。つい、あちらでのメニューを考えてしまいまして。まずは重力に感謝しながらのスクワットから始めようかと」
父は大きなため息をつき、私の肩に手を置いた。
「お前がそれを望むなら、私は止めん。だが、あのゼノス領を治める辺境伯、ギルベルト殿は……かなり『個性的』な男だと聞く。気をつけなさい」
「個性的? それは楽しみですね。筋肉に理解がある方だと嬉しいのですが」
「……そういう意味ではないと思うんだがな」
父に見送られ、私は馬車に飛び乗った。
馬車が走り出すと同時に、私は窮屈なドレスの背中の紐を強引に引きちぎった。
「ぷはぁっ! 空気が美味しい! 肺活量が戻ってくるわ!」
私は馬車の座席に手をつき、そのまま逆立ちをした。
振動する馬車内での逆立ちは、体幹を鍛えるのに非常に効率が良い。
「さようなら、軟弱な王子。さようなら、退屈な社交界。こんにちは、私のプロテイン・パラダイス!」
リーナ・フォン・アトラス、18歳。
婚約破棄をきっかけに、彼女の本当の人生が今、幕を開けたのである。
翌朝、私は最低限の荷物(と言いつつ、半分以上は特注の鉄アレイと高タンパクな乾燥肉だ)を抱え、辺境への長い旅路についた。
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