『お前の顔は見飽きた!』内心ガッツポーズで辺境へ

夏乃みのり

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王都から辺境ゼノス領までは、馬車で一週間ほどの道のりだ。
普通の令嬢なら「お尻が痛いわ」「馬車酔いがひどくて死んでしまう」と嘆くところだろう。

だが、私は違う。
私は今、疾走する馬車の天井から吊り下げられた手すりに指をかけ、静かに懸垂を行っていた。

「……九十九、百。ふぅ、やはり揺れる車内だと広背筋への刺激が複雑になって効率が良いわね」

私は着地し、額の汗を拭った。
父が用意してくれたこの特注馬車は、中が非常に広く、床には滑り止めのマットまで敷いてある。

「お嬢様……。いくら誰も見ていないからといって、そのお姿はあんまりです」

呆れた声を上げたのは、唯一私についてきてくれた侍女のアンナだ。
彼女は私の筋肉マニアぶりを幼い頃から見てきた、数少ない理解者(というか諦め人)である。

「何を言うの、アンナ。辺境に着いた瞬間、強力な魔物と相まみえるかもしれないのよ? なまった体で筋肉の神様に顔向けできると思って?」

「筋肉の神様が実在するかは存じませんが、少なくとも貴族の神様は見捨てていらっしゃる気がします」

「いいのよ。私はもう、公爵令嬢リーナではなく、ただの筋肉を愛するリーナなんだから」

私は満足げに、己の二の腕をさすった。
ドレスを脱ぎ捨て、動きやすい革製のタイトな訓練着に着替えた私の体は、今や解放感に満ち溢れている。

その時だった。
急に馬車が激しく揺れ、御者の悲鳴が聞こえてきた。

「ひいいっ! ぞ、賊だ! 野盗が出たぞ!」

荒々しい怒号が馬車の外から響く。
アンナが真っ青になって私の袖を掴んだ。

「お、お嬢様! 賊です! やはりこのあたりは治安が……!」

「アンナ、落ち着きなさい。これは……チャンスよ」

「チャンス、ですか?」

私はニヤリと口角を上げた。
ちょうど懸垂が終わって、少し心拍数を上げたいと思っていたところなのだ。

「有酸素運動と実戦形式のスパーリングを同時に行えるなんて、なんて運が良いのかしら」

私は馬車の扉を勢いよく蹴り開けた。
外には、十人ほどの薄汚れた男たちが、剣や斧を構えて馬車を囲んでいた。

「へっへっへ、立派な馬車だと思ったら、中から出てきたのは上等な女じゃねえか!」

先頭に立つ大男が、下卑た笑いを浮かべて近づいてくる。
私は無表情のまま、ゆっくりと手首を回した。

「そこのあなた。ちょうどいいわ。今の私の心拍数は百二十。これを百六十まで上げる手伝いをしてくれるかしら?」

「あ? 何言ってんだこの女。頭がおかしくなったか?」

「質問は受け付けていないわ。さあ、来なさい。まずはウォーミングアップよ」

大男が呆気にとられた瞬間、私は地を蹴った。
重いドレスから解放された私の足は、驚くほど軽い。

「はっ!」

「ぎ、ぎゃああああっ!?」

私の一撃、正確には「下から突き上げるような掌打」が男のアゴを捉えた。
大男の巨体が宙を舞い、そのまま後方の茂みに突っ込んでいく。

「な、なんだ今のスピードは!? お前ら、構わねえ、やっちまえ!」

残りの男たちが一斉に襲いかかってくる。
私は飛んできた剣を紙一重でかわし、その男の腕を掴んで、そのまま背負い投げの要領で地面に叩きつけた。

「背筋の使い方が甘いわね。もっと地面をしっかり踏み締めなさい!」

「ぐはっ!」

「次はあなた! 腹直筋が緩んでいるわよ! ワン・ツー!」

左、右。
私の拳が正確に賊の鳩尾を撃ち抜く。
バキッという良い音が響き、男たちが次々と「くの字」になって倒れていった。

「ひ、化け物だ……! この女、人間じゃねえ!」

「失礼ね。私はただ、毎日欠かさずトレーニングをしているだけよ」

最後の一人をラリアットでなぎ倒した時、私の心拍数はちょうど百六十に達していた。
実に清々しい気分だ。

「ふぅ……。いい運動になったわ。ねえ、アンナ。予備のプロテインを持ってきてくれる?」

馬車から顔を出したアンナが、死体の山(死んではいないが)を見て、遠い目をしていた。

「……お嬢様。もう、隠す気ゼロですね」

「だって、誰も見ていないもの。あ、御者さん、もう大丈夫ですよ。出発しましょう」

私がそう言った瞬間。
森の奥から、地響きのような蹄の音が聞こえてきた。

「何事だ! この先で騒ぎがあったと報告を受けたが!」

現れたのは、漆黒の巨大な馬にまたがった、一人の騎士だった。
いや、騎士というよりは……。

(……なんて、素晴らしい広背筋なの……!)

私は思わず、その男を凝視した。
男は、熊のような体格をしていた。
漆黒の鎧越しでもわかる、盛り上がった大胸筋。丸太のように太い腕。
そして何より、厳しい冬を越えてきた獣のような、鋭くも力強い眼光。

彼こそが、この地を統治する辺境伯、ギルベルト・フォン・ゼノス。
通称「野獣公」と呼ばれる男だった。

ギルベルトは馬から降り、倒れている賊たちと、その中央に立つ私を交互に見た。

「……お前が、王都から追放されてきたというリーナ・フォン・アトラスか?」

「ええ、左様でございますわ。ゼノス卿とお見受けいたします」

私は淑女の礼(カーテシー)をしようとしたが、訓練着のせいでうまく決まらない。
それよりも、私は彼の体に釘付けだった。

ギルベルトは私の目の前まで歩いてくると、不意に私の右腕をガシッと掴んだ。

「ひっ、お嬢様!」

アンナが悲鳴を上げるが、私は動じない。
むしろ、彼の掌の厚みと熱に、得も言われぬ感動を覚えていた。

ギルベルトは、私の二の腕の筋肉を親指で「ギュッ」と押し込んだ。
そして、驚いたように目を見開く。

「……このカット、この弾力。貴様、ただの令嬢ではないな。どれほどの負荷をかければ、これほどの『仕上がり』になるのだ?」

私は、生まれて初めて、自分を理解してくれる男性に出会った気がした。

「毎日、自重と負荷を合わせて三時間は。特にスクワットは欠かしませんわ」

「ほう……。素晴らしい。王都の女は皆、枝のように細いのが美徳だと思っていたが……。貴様、実に良い筋肉を持っている」

ギルベルトの口元が、野性味溢れる笑みに歪んだ。

「気に入った。リーナ・フォン・アトラス。我が領地へようこそ。貴様には、最高の『設備』を用意してやろう」

「……設備、ですか?」

「ああ。私の屋敷には、魔物の骨で作った特製のダンベルがある。ついてこい」

私の胸が高鳴った。
これが恋なのか、それともバルクアップへの期待なのか、今の私には判別がつかない。
ただ一つ確かなのは、この辺境生活が、想像以上に「熱い」ものになるということだけだった。
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