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「……お嬢様、あれがこれから私たちが住む屋敷、だそうですよ」
アンナが窓の外を指さしながら、少しだけ声を震わせた。
馬車の窓から見えたのは、王都の華美な白亜の城とは対照的な、質実剛健を絵に描いたような漆黒の石造りの城塞だった。
「素晴らしいわ、アンナ! 見て、あの無駄のない直線的なフォルム。まるで見事に鍛え上げられた大腿四頭筋のようじゃない!」
「例えがさっぱり分かりませんが、とにかく頑丈そうなのは伝わりました」
馬車が重厚な門をくぐり、中庭で止まる。
待ち構えていたのは、先ほど森で出会った辺境伯ギルベルトと、彼に負けず劣らず屈強な体格をした使用人たちだった。
ギルベルトが馬上から軽やかに飛び降りる。
着地の瞬間に太ももの筋肉が跳ねるのを、私は見逃さなかった。
「よく来たな、リーナ。ここには王都のようなふかふかの絨毯も、甘ったるい菓子もないが、命を燃やすための環境だけはある」
「結構ですわ、閣下。ふかふかの絨毯は足元が不安定になりますから。自重トレーニングには、この硬い石畳こそが至高です」
私の答えに、ギルベルトは満足げに鼻を鳴らした。
「話が分かる女だ。おい、お前ら! リーナ殿の荷物を運べ。特にその、ずっしりと重い鉄塊の入った箱をな!」
「はっ!」
使用人たちが私の「マイ・ダンベル一式」を運び出していく。
普通の男なら二人掛かりで運ぶ重さだが、ここの使用人たちは一人で軽々と持ち上げていた。
……なんて素晴らしい職場環境かしら。
「案内しよう。まずは貴様が最も気になっているであろう場所だ」
ギルベルトに導かれ、私たちは屋敷の奥へと進んだ。
大きな扉が開かれた先には、かつては舞踏室だったであろう広大な空間が広がっていた。
だが、そこにあるのは美しい楽器でも、豪華なシャンデリアでもなかった。
「これは……」
「我がゼノス家の誇るトレーニングホールだ。そこにあるのは、北の果てで仕留めた『大魔熊』の骨を削り出して作った重量級の器具だ」
私の目の前には、見たこともないほど巨大で禍々しい、だが機能美に溢れたダンベルやバーベルが並んでいた。
魔物の骨は金属よりも密度が高く、魔力を帯びているため、持つだけで全身に心地よい負荷がかかるという。
私は吸い寄せられるように、一番手近にあった骨のダンベルを手に取った。
「重い……。でも、吸い付くようなグリップ感……! 閣下、これ、最高ですわ!」
「だろう? それは片方で五十キロある。王都の騎士でも、片手で扱える者は稀だ」
「五十キロ? ふふ、ちょうどアップにいい重さですわね」
私はドレスの袖をまくり、迷うことなくそのダンベルを頭上へと掲げた。
軽々と。そして正確なフォームで。
「……ほう。肩の筋肉の使い方が完璧だ。僧帽筋に無駄な力が入っていない」
ギルベルトの視線が、私の肩から腕にかけてのラインを舐めるように動く。
それは卑猥な視線ではなく、まるで名剣を鑑定する職人のような、純粋な敬意に満ちた目だった。
「リーナ、貴様に提案がある」
「何でしょうか、閣下」
「明日の朝から、私と共に朝練をしないか? この地には強力な魔物が出るが、それに対抗するには、まずは個の肉体を極めねばならん。私は、私についてこられるパートナーをずっと探していたのだ」
パートナー。
その言葉に、私の胸の奥がプロテインをシェイクした時のように激しく泡立った。
「朝練……。素敵なお誘いですわ。ですが、私のメニューはかなり厳しいですよ?」
「望むところだ。私は逃げも隠れもしない。筋肉に嘘はつけないからな」
ギルベルトが右手を差し出してきた。
私はその、タコで固くなった大きな掌をしっかりと握り返した。
「約束ですわよ、閣下。もし明日、筋肉痛で起き上がれなかったとしても、私は引きずってでも連れて行きますから」
「ははは! 面白い! 気に入ったぞ、リーナ!」
ギルベルトの豪快な笑い声がホールに響き渡る。
後ろでアンナが「もう勝手にして……」と天を仰いでいたが、今の私には関係ない。
その夜、私は支給された部屋のベッドに入ったが、興奮してなかなか眠れなかった。
明日の朝練。ギルベルトとの筋肉の語り合い。
そして、この地で手に入れるであろう、最高のバルクアップした未来。
「王都の皆さんは、今頃夜会でワインでも飲んでいるのかしら」
私は暗闇の中で、静かに上腕二頭筋を収縮させた。
月明かりに照らされた私の腕のラインは、かつてないほど美しく、そして猛々しく輝いていた。
「私はここで、本当の幸せを見つけたのかもしれないわ……」
婚約破棄されてからわずか数日。
私は、元婚約者の王子の顔を、一ミリも思い出せなくなっていた。
あんな細い男の顔を覚えているくらいなら、スクワットの正しい回数を覚えている方が、よっぽど人生のためになるのだから。
窓の外では、辺境の夜風が激しく吹き荒れている。
魔物の咆哮が遠くで聞こえるが、それは私にとって、極上のBGMに過ぎなかった。
アンナが窓の外を指さしながら、少しだけ声を震わせた。
馬車の窓から見えたのは、王都の華美な白亜の城とは対照的な、質実剛健を絵に描いたような漆黒の石造りの城塞だった。
「素晴らしいわ、アンナ! 見て、あの無駄のない直線的なフォルム。まるで見事に鍛え上げられた大腿四頭筋のようじゃない!」
「例えがさっぱり分かりませんが、とにかく頑丈そうなのは伝わりました」
馬車が重厚な門をくぐり、中庭で止まる。
待ち構えていたのは、先ほど森で出会った辺境伯ギルベルトと、彼に負けず劣らず屈強な体格をした使用人たちだった。
ギルベルトが馬上から軽やかに飛び降りる。
着地の瞬間に太ももの筋肉が跳ねるのを、私は見逃さなかった。
「よく来たな、リーナ。ここには王都のようなふかふかの絨毯も、甘ったるい菓子もないが、命を燃やすための環境だけはある」
「結構ですわ、閣下。ふかふかの絨毯は足元が不安定になりますから。自重トレーニングには、この硬い石畳こそが至高です」
私の答えに、ギルベルトは満足げに鼻を鳴らした。
「話が分かる女だ。おい、お前ら! リーナ殿の荷物を運べ。特にその、ずっしりと重い鉄塊の入った箱をな!」
「はっ!」
使用人たちが私の「マイ・ダンベル一式」を運び出していく。
普通の男なら二人掛かりで運ぶ重さだが、ここの使用人たちは一人で軽々と持ち上げていた。
……なんて素晴らしい職場環境かしら。
「案内しよう。まずは貴様が最も気になっているであろう場所だ」
ギルベルトに導かれ、私たちは屋敷の奥へと進んだ。
大きな扉が開かれた先には、かつては舞踏室だったであろう広大な空間が広がっていた。
だが、そこにあるのは美しい楽器でも、豪華なシャンデリアでもなかった。
「これは……」
「我がゼノス家の誇るトレーニングホールだ。そこにあるのは、北の果てで仕留めた『大魔熊』の骨を削り出して作った重量級の器具だ」
私の目の前には、見たこともないほど巨大で禍々しい、だが機能美に溢れたダンベルやバーベルが並んでいた。
魔物の骨は金属よりも密度が高く、魔力を帯びているため、持つだけで全身に心地よい負荷がかかるという。
私は吸い寄せられるように、一番手近にあった骨のダンベルを手に取った。
「重い……。でも、吸い付くようなグリップ感……! 閣下、これ、最高ですわ!」
「だろう? それは片方で五十キロある。王都の騎士でも、片手で扱える者は稀だ」
「五十キロ? ふふ、ちょうどアップにいい重さですわね」
私はドレスの袖をまくり、迷うことなくそのダンベルを頭上へと掲げた。
軽々と。そして正確なフォームで。
「……ほう。肩の筋肉の使い方が完璧だ。僧帽筋に無駄な力が入っていない」
ギルベルトの視線が、私の肩から腕にかけてのラインを舐めるように動く。
それは卑猥な視線ではなく、まるで名剣を鑑定する職人のような、純粋な敬意に満ちた目だった。
「リーナ、貴様に提案がある」
「何でしょうか、閣下」
「明日の朝から、私と共に朝練をしないか? この地には強力な魔物が出るが、それに対抗するには、まずは個の肉体を極めねばならん。私は、私についてこられるパートナーをずっと探していたのだ」
パートナー。
その言葉に、私の胸の奥がプロテインをシェイクした時のように激しく泡立った。
「朝練……。素敵なお誘いですわ。ですが、私のメニューはかなり厳しいですよ?」
「望むところだ。私は逃げも隠れもしない。筋肉に嘘はつけないからな」
ギルベルトが右手を差し出してきた。
私はその、タコで固くなった大きな掌をしっかりと握り返した。
「約束ですわよ、閣下。もし明日、筋肉痛で起き上がれなかったとしても、私は引きずってでも連れて行きますから」
「ははは! 面白い! 気に入ったぞ、リーナ!」
ギルベルトの豪快な笑い声がホールに響き渡る。
後ろでアンナが「もう勝手にして……」と天を仰いでいたが、今の私には関係ない。
その夜、私は支給された部屋のベッドに入ったが、興奮してなかなか眠れなかった。
明日の朝練。ギルベルトとの筋肉の語り合い。
そして、この地で手に入れるであろう、最高のバルクアップした未来。
「王都の皆さんは、今頃夜会でワインでも飲んでいるのかしら」
私は暗闇の中で、静かに上腕二頭筋を収縮させた。
月明かりに照らされた私の腕のラインは、かつてないほど美しく、そして猛々しく輝いていた。
「私はここで、本当の幸せを見つけたのかもしれないわ……」
婚約破棄されてからわずか数日。
私は、元婚約者の王子の顔を、一ミリも思い出せなくなっていた。
あんな細い男の顔を覚えているくらいなら、スクワットの正しい回数を覚えている方が、よっぽど人生のためになるのだから。
窓の外では、辺境の夜風が激しく吹き荒れている。
魔物の咆哮が遠くで聞こえるが、それは私にとって、極上のBGMに過ぎなかった。
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