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祝宴の興奮も冷めやらぬ翌朝、私はゲストルームの一角で「逆立ち片手腕立て伏せ」に励んでいた。
視界が上下逆さまになり、血が頭に上るこの感覚。
脳への血流が増し、思考がクリアになるのを感じる。
そこへ、アンナがトレイを持って入ってきた。
トレイの上には、先ほどギルベルト様が受け取った王家からの親書が乗っている。
「お嬢様、いつまで逆さまなのですか。例の手紙の内容が判明しましたよ」
「……九十八、九十九、……百。ふぅ。アンナ、手紙の内容なんて読むまでもないわ。どうせ『戻ってきて公務を手伝え』とか、そんな泣き言でしょう?」
私は軽やかに着地し、タオルで汗を拭った。
アンナは手紙を広げ、無表情のまま読み上げ始める。
「ええ、その通りです。正確には『カトレアが国庫の三割を美容と宝石に使い込み、隣国との外交ルートを壊滅させた。リーナ、お前の実務能力が必要だ。婚約破棄はなかったことにしてやるから、すぐに戻れ』だそうです」
私は思わず吹き出した。
あんなに大見得を切って私を追い出しておいて、一ヶ月も経たずにこれだ。
あまりの図々しさに、腹筋が痙攣(けいれん)して笑いのエクササイズになりそうだった。
「『なかったことにしてやる』? 笑わせるわね。私のこの素晴らしい筋肉も、なかったことにしろと言うのかしら」
私は自身の引き締まった腹筋を指先で弾いた。
「パチン」と、硬質な良い音が響く。
「……そもそも、王都には高タンパクな赤身肉を安定して供給できるルートも、魔物の骨で作ったダンベルもないわ。あんな筋肉不毛の地に戻る理由がどこにあるっていうの?」
「お嬢様、世間一般ではそれを『王命』と呼び、逆らえば反逆罪になるのですが」
「あら、アンナ。今の私を見て。この広背筋があれば、王都の城門を物理的にこじ開けることだって可能ですわよ。物理(パワー)は全ての理屈を凌駕するの」
その時、部屋の扉がノックもなしに勢いよく開いた。
現れたのは、苦虫を噛み潰したような顔をしたギルベルト様だった。
「リーナ、聞いたか。あの軟弱王子の世迷い言を」
ギルベルト様の手の中で、もう一通の公式な書簡がメキメキと音を立てて握りつぶされていた。
どうやら彼の方にも、私を返還せよとの通達が届いたらしい。
「ええ、閣下。どうやら殿下は、私のことを便利な『計算機』か何かだと思っていらっしゃるようですわ」
「ふざけるな。貴様は今や、このゼノス領の希望であり、筋肉の象徴だ。あんな、ドレスの重みで膝を笑わせるような男に、貴様を渡すつもりはない」
ギルベルト様が私の一歩手前まで歩み寄り、その巨大な影で私を包み込んだ。
彼の瞳には、怒りと、それ以上に強い「執着」の色が混じっている。
「リーナ。貴様はどうしたい? 王都へ戻り、再びあの退屈な書類仕事に追われる日々を選ぶのか?」
私は、ギルベルト様の分厚い大胸筋を見つめながら、静かに、しかし力強く首を振った。
「閣下、答えは決まっています。私は、私の筋肉が最も喜ぶ場所で生きていたい。……ここには、閣下がいます。私を理解し、共に高みを目指してくれる『真のパートナー』が」
パートナー、という言葉を口にした瞬間、ギルベルト様の喉仏が大きく動いた。
「……そうか。ならば、決まりだ。王都からの使者には、こう伝えよう。『リーナは今、新種の魔物との死闘で忙しい。ついでに言うなら、彼女はもう、細腕の令嬢ではない』とな」
「あら、閣下。それは嘘ではありませんわね。……アンナ、返信の用意を。宛先はジュリアン殿下。内容はこう書いてちょうだい」
私は、窓の外に広がる広大な辺境の山々を見据えながら告げた。
「『拝啓、ジュリアン殿下。私は今、重力との対話に忙しく、殿下のような軽いお方の相手をしている暇はございません。お体にお気をつけて、精々その細い首で王冠を支えていてくださいませ』――以上よ」
アンナが、初めて少しだけ楽しそうにペンを走らせた。
「……承知いたしました。煽り性能が限界を突破していますが、そのまま代筆させていただきますね」
「お願い。……さあ、閣下! 不快な手紙のせいでアドレナリンが出てしまいましたわ。このまま外へ出て、巨石運びのトレーニングにつき合っていただけますか?」
「ああ、望むところだ! 王都の使者が来たら、その石を奴らの馬車の前に並べて通せんぼしてやろうじゃないか!」
私たちは豪快に笑い合い、部屋を後にした。
王都での平穏な(そして筋肉の衰える)生活に戻るなど、今の私には死を意味する。
一方、その頃。
王都のジュリアン王子は、カトレアが「このドレス、肩の部分がキツいわ! もっと痩せて見えるように作り直させて!」と暴れる声を聞きながら、胃を押さえていた。
「……リーナ。どうして、どうしてお前は戻ってこないんだ……。お前さえいれば、こんな事務作業も、この狂った女の相手も、全て丸く収まったはずなのに……」
ジュリアンのもとに、リーナからの「重力との対話」という名の絶縁状が届くのは、その三日後のことである。
そして彼は知ることになる。
一度捨てた「最強の盾(実務能力)」が、今や「最強の矛(物理的筋肉)」へと進化してしまったことを。
辺境の太陽は、今日もトレーニングに励む二人を熱く照らしていた。
視界が上下逆さまになり、血が頭に上るこの感覚。
脳への血流が増し、思考がクリアになるのを感じる。
そこへ、アンナがトレイを持って入ってきた。
トレイの上には、先ほどギルベルト様が受け取った王家からの親書が乗っている。
「お嬢様、いつまで逆さまなのですか。例の手紙の内容が判明しましたよ」
「……九十八、九十九、……百。ふぅ。アンナ、手紙の内容なんて読むまでもないわ。どうせ『戻ってきて公務を手伝え』とか、そんな泣き言でしょう?」
私は軽やかに着地し、タオルで汗を拭った。
アンナは手紙を広げ、無表情のまま読み上げ始める。
「ええ、その通りです。正確には『カトレアが国庫の三割を美容と宝石に使い込み、隣国との外交ルートを壊滅させた。リーナ、お前の実務能力が必要だ。婚約破棄はなかったことにしてやるから、すぐに戻れ』だそうです」
私は思わず吹き出した。
あんなに大見得を切って私を追い出しておいて、一ヶ月も経たずにこれだ。
あまりの図々しさに、腹筋が痙攣(けいれん)して笑いのエクササイズになりそうだった。
「『なかったことにしてやる』? 笑わせるわね。私のこの素晴らしい筋肉も、なかったことにしろと言うのかしら」
私は自身の引き締まった腹筋を指先で弾いた。
「パチン」と、硬質な良い音が響く。
「……そもそも、王都には高タンパクな赤身肉を安定して供給できるルートも、魔物の骨で作ったダンベルもないわ。あんな筋肉不毛の地に戻る理由がどこにあるっていうの?」
「お嬢様、世間一般ではそれを『王命』と呼び、逆らえば反逆罪になるのですが」
「あら、アンナ。今の私を見て。この広背筋があれば、王都の城門を物理的にこじ開けることだって可能ですわよ。物理(パワー)は全ての理屈を凌駕するの」
その時、部屋の扉がノックもなしに勢いよく開いた。
現れたのは、苦虫を噛み潰したような顔をしたギルベルト様だった。
「リーナ、聞いたか。あの軟弱王子の世迷い言を」
ギルベルト様の手の中で、もう一通の公式な書簡がメキメキと音を立てて握りつぶされていた。
どうやら彼の方にも、私を返還せよとの通達が届いたらしい。
「ええ、閣下。どうやら殿下は、私のことを便利な『計算機』か何かだと思っていらっしゃるようですわ」
「ふざけるな。貴様は今や、このゼノス領の希望であり、筋肉の象徴だ。あんな、ドレスの重みで膝を笑わせるような男に、貴様を渡すつもりはない」
ギルベルト様が私の一歩手前まで歩み寄り、その巨大な影で私を包み込んだ。
彼の瞳には、怒りと、それ以上に強い「執着」の色が混じっている。
「リーナ。貴様はどうしたい? 王都へ戻り、再びあの退屈な書類仕事に追われる日々を選ぶのか?」
私は、ギルベルト様の分厚い大胸筋を見つめながら、静かに、しかし力強く首を振った。
「閣下、答えは決まっています。私は、私の筋肉が最も喜ぶ場所で生きていたい。……ここには、閣下がいます。私を理解し、共に高みを目指してくれる『真のパートナー』が」
パートナー、という言葉を口にした瞬間、ギルベルト様の喉仏が大きく動いた。
「……そうか。ならば、決まりだ。王都からの使者には、こう伝えよう。『リーナは今、新種の魔物との死闘で忙しい。ついでに言うなら、彼女はもう、細腕の令嬢ではない』とな」
「あら、閣下。それは嘘ではありませんわね。……アンナ、返信の用意を。宛先はジュリアン殿下。内容はこう書いてちょうだい」
私は、窓の外に広がる広大な辺境の山々を見据えながら告げた。
「『拝啓、ジュリアン殿下。私は今、重力との対話に忙しく、殿下のような軽いお方の相手をしている暇はございません。お体にお気をつけて、精々その細い首で王冠を支えていてくださいませ』――以上よ」
アンナが、初めて少しだけ楽しそうにペンを走らせた。
「……承知いたしました。煽り性能が限界を突破していますが、そのまま代筆させていただきますね」
「お願い。……さあ、閣下! 不快な手紙のせいでアドレナリンが出てしまいましたわ。このまま外へ出て、巨石運びのトレーニングにつき合っていただけますか?」
「ああ、望むところだ! 王都の使者が来たら、その石を奴らの馬車の前に並べて通せんぼしてやろうじゃないか!」
私たちは豪快に笑い合い、部屋を後にした。
王都での平穏な(そして筋肉の衰える)生活に戻るなど、今の私には死を意味する。
一方、その頃。
王都のジュリアン王子は、カトレアが「このドレス、肩の部分がキツいわ! もっと痩せて見えるように作り直させて!」と暴れる声を聞きながら、胃を押さえていた。
「……リーナ。どうして、どうしてお前は戻ってこないんだ……。お前さえいれば、こんな事務作業も、この狂った女の相手も、全て丸く収まったはずなのに……」
ジュリアンのもとに、リーナからの「重力との対話」という名の絶縁状が届くのは、その三日後のことである。
そして彼は知ることになる。
一度捨てた「最強の盾(実務能力)」が、今や「最強の矛(物理的筋肉)」へと進化してしまったことを。
辺境の太陽は、今日もトレーニングに励む二人を熱く照らしていた。
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