悪役令嬢は、婚約破棄の瞬間を食い気味で承諾する!

夏乃みのり

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「……着いたぞ」

ジェラルド様の重低音が響いた。

森を抜け、開けた視界の先に現れたのは、城というよりは「要塞」と呼ぶに相応しい建造物だった。

黒い石材で組まれた堅牢な城壁。

空を突き刺すように聳え立つ尖塔。

城門には、私の太ももよりも太い鉄格子が嵌め込まれている。

「ハイラント辺境伯城、通称『黒鉄(くろがね)城』だ」

「立派な城壁ですね。あれならトロールの群れが来ても三日は耐えられそうです」

「うむ。先月、オーガの集団が攻めてきたが、門の前で泣いて謝って帰っていった」

「物理攻撃ではなく精神攻撃(プレッシャー)で撃退したのですね。素晴らしいコストパフォーマンスです」

私たちは並んで城門をくぐった。

ちなみに、あの巨大なキラー・ボアは、ジェラルド様の部下の騎士たちが総出で荷車に乗せて運んでいる。

騎士たちは、チラチラと私を見ては青ざめている。

「おい、見ろよ……あのご婦人、あの閣下と並んで歩いてるぞ……」

「しかも談笑してる……正気か?」

「あの猪、あの方が投げ飛ばしたらしいぞ」

「マジかよ、人間か?」

ひそひそ話が聞こえるが、気にしない。

私は今、これからの「労働条件」について頭をフル回転させていたからだ。

(食い扶持は保証する、と言っていたわね。つまり住み込みの労働契約。職種は十中八九、魔物討伐部隊か、あるいは荒地の開拓要員……)

どちらにせよ、王都で書類仕事と刺繍に忙殺されるよりは百倍マシだ。

「入れ」

通されたのは、城の最上階にある執務室だった。

黒革のソファ、黒檀のデスク、壁には歴代当主のものと思われる巨大な剣や斧が飾られている。

インテリアの統一感が「暴力」でまとまっていて、逆に清々しい。

ジェラルド様は上座のソファにドカリと腰を下ろした。

その威圧感たるや、魔王が玉座に座ったかのようだ。

「座れ」

「失礼します」

私は対面のソファに座った。

沈黙が落ちる。

ジェラルド様は腕を組み、眉間に深い皺を寄せ、じっと私を見つめている。

(……始まったわね、面接(オーディション)が)

私は背筋を伸ばした。

ここでナメられてはいけない。

自分の有用性をアピールし、好条件を引き出すのだ。

しかし、ジェラルド様はなかなか口を開かない。

ただひたすらに、熱っぽい(と私は勘違いしているが、実際は緊張でガチガチになっている)視線を送ってくるだけだ。

(な、何? この重苦しい空気は。もしかして、私が猪の所有権を主張したのが気に入らなかった? 『やはり貴様のような余所者に肉はやらん』という無言の圧力?)

冷や汗が背中を伝う。

数分にも感じる沈黙の後、ジェラルド様がようやく口を開いた。

「……単刀直入に言う」

「は、はい!」

ゴクリ、と唾を飲む。

ジェラルド様は、意を決したように身を乗り出した。

その顔は、緊張のあまり普段の三倍増しで凶悪になっており、背景に雷鳴のエフェクトが見えるほどだった。

「俺の女になれ」

「…………はい?」

時が止まった。

私の脳内コンピュータが処理落ちを起こす。

俺の、女に、なれ?

(翻訳中……翻訳中……)

(完了しました)

(解釈A:愛人契約)
(解釈B:現地妻)
(解釈C:『俺の(部下として馬車馬のように働く都合のいい)女(奴隷)になれ』の略)

状況からして、Cだ。

間違いなくCだ。

辺境伯は武闘派。

力こそ正義。

猪を素手で狩る私の腕力を見て、「こいつは使える駒だ」と判断したに違いない。

しかも「俺の女」という所有格を使うあたり、給料を払う気がないのかもしれない。

いわゆるブラック企業ならぬ、ブラック領地だ。

「あの、ジェラルド様。そのお言葉は、つまり……『一生、この地で骨を埋めろ』という意味でしょうか?」

私は恐る恐る確認する。

ジェラルド様は、深く頷いた。

「そうだ。死ぬまで離さないつもりだ」

ヒィッ!

確定した! 終身刑だ!

「死ぬまで離さない」=「死ぬまでタダ働き」の隠語だわ!

なんてこと、王都の堅苦しさから逃げ出したと思ったら、今度は辺境の強制労働施設に収監されるなんて!

しかし、ここで断ればどうなる?

相手は氷の辺境伯。

「NO」と言った瞬間、この部屋の壁に飾られている巨大な斧が私の首に落ちてくるかもしれない。

(……落ち着け、マルグリット。ピンチはチャンス。交渉よ。条件闘争に持ち込むのよ!)

私は震える手を膝の上で握りしめ、精一杯の虚勢を張って見上げた。

「……条件があります」

「条件?」

ジェラルド様が眉をひそめる。

「貴様の望みなら、なんでも叶えよう」

「本当ですか!? 言質を取りましたよ!?」

「ああ。ドレスでも宝石でも、城の一つや二つ、欲しければくれてやる」

(太っ腹! ……いや、騙されてはいけない。これはブラック企業がよく使う『アットホームな職場です』系の甘い罠よ!)

私は惑わされず、現実的な要求を突きつけた。

「ドレスも宝石も城も要りません! 私が欲しいのは、以下の三点です!」

私は指を三本立てた。

「一つ! 完全週休二日制! 筋肉の超回復には休息が不可欠です!」

「……? ああ、休みたいのか。構わんが……」

「二つ! 三食昼寝付き、かつプロテイン(高タンパク食)の無限提供!」

「……食事か。我が家のシェフは腕がいい。好きなだけ食わせてやる」

「三つ! 私専用の『農地』を一ヘクタール……いえ、ゆくゆくは五ヘクタールほど頂戴したい!」

「……農地?」

ここで初めて、ジェラルド様の表情が崩れた。

キョトン、としている。

その顔は、意外にも少し幼く、可愛らしく見えた。

「農地など欲しがってどうする?」

「耕すのです! 種を蒔き、水をやり、命を育む! それが私の生き甲斐なのです! ただの殺戮兵器として消費されるのは御免です!」

私は立ち上がり、熱弁を振るった。

ジェラルド様はポカンと私を見上げている。

しばらくして、彼は低く、クックックッと喉を鳴らした。

「……笑った?」

「いや、すまない。……面白い女だと思ってな」

ジェラルド様の表情が緩んだ。

凶悪さは消え、代わりに野性味のある、男らしい笑みが浮かんでいた。

「俺の求愛に対し、宝石ではなく『農地』と『週休二日』を要求した女は、貴様が初めてだ」

「求愛? ……いえ、求人(リクルート)の間違いでは?」

「どちらでもいい。貴様がここにいてくれるなら」

ジェラルド様は立ち上がると、私の目の前に立った。

デカい。

見上げると首が痛くなる。

彼は私の手を取り、そのゴツゴツした指先で、私の手のひらにある「マメ」を優しく撫でた。

それは剣ダコではなく、鍬を振り回してできたマメだ。

「綺麗な手だ」

「えっ……? いえ、ガサガサですし、皮も厚いですし……」

「それがいい。貴様が真剣に生きてきた証だ」

ドキリ、とした。

今まで、王都の貴族たちは私の手を見て眉をひそめた。

「手袋をして隠しなさい」「淑女の手ではない」と。

けれど、この男は。

この恐ろしい顔をした辺境伯は、私のコンプレックスだった「努力の証」を、愛おしそうに撫でている。

(……な、なによ。調子が狂うわね)

顔が熱くなるのを感じた。

これはあれだ、運動後の体温上昇と同じ現象だ。決してときめいているわけではない。

「……契約成立、と見なしてよろしいですか?」

「ああ。貴様の要求は全て飲む。今日からここは貴様の家だ。好きにしろ」

「ありがとうございます! では早速、裏庭の土壌調査に行ってまいります!」

私は照れ隠しのために、素早く手を引き抜き、敬礼をした。

「……今は休め。部屋を用意させた」

「いえ、善は急げと言いますし!」

「……風呂に入れ。泥だらけだぞ」

言われて気づく。

昨晩の逃走劇と、今朝の猪狩りで、私のライダースーツはボロボロ、顔も煤けているはずだ。

「あ……失礼いたしました。では、お言葉に甘えて」

「マリーとか言ったか? 貴様の侍女らしき者が、先ほど到着したぞ」

「えっ!? もう!?」

「優秀な侍女だ。『お嬢様なら絶対にここへ来ると思い、先回りしました』と言っていた」

恐るべし、マリー。

彼女もまた、特殊部隊並みの機動力を持っているのかもしれない。

「では、下がってよい。……夕食は俺ととれ。猪のステーキだ」

「はい! 楽しみにしております!」

私は一礼し、執務室を飛び出した。

パタン、と重厚な扉が閉まる。

廊下に出た瞬間、私はへなへなと壁に寄りかかった。

「……怖かったぁぁぁ……」

心臓がバクバクしている。

殺されるかと思った。

「一生離さない」とか言われた時は、地下牢に繋がれる自分の姿が走馬灯のように見えた。

でも。

(『綺麗な手だ』……か)

自分の手のひらを見つめる。

あの温かさと、不器用な言葉が、まだ皮膚に残っているような気がした。

「……悪くない条件(ボス)かもしれないわね」

私は小さく呟くと、マリーの待つ部屋へと足を向けた。

          ◇

一方、執務室。

一人残されたジェラルドは、デスクに突っ伏していた。

耳まで真っ赤である。

「……言った。言ってしまった……」

彼は震える手で顔を覆った。

「『俺の女になれ』……なんて粗暴な言い方だ。もっとこう、『貴女を愛しています、結婚してください』と言うつもりだったのに……緊張して声がドスを効かせてしまった……」

彼は「氷の辺境伯」として恐れられているが、中身は恋愛経験ゼロのピュアな青年である。

必死に考えたプロポーズの言葉は、極度の緊張により、脅迫のようなセリフに変換されて出力されてしまったのだ。

「しかも『農地が欲しい』とは……。俺の領地を愛してくれるということか? なんて健気な……」

彼は盛大に勘違いを加速させていた。

「週休二日……そうか、俺との甘い時間を過ごすために、あえて休日を設けてくれたのか……」

ポジティブすぎる解釈である。

「マルグリット……。必ず幸せにする。たとえ世界を敵に回しても」

ジェラルドは拳を握りしめ、独りごちた。

その背後で、彼が放つ「幸せオーラ」があまりに強すぎて、窓ガラスにヒビが入ったことを彼は知らない。

こうして。

「労働条件を勝ち取ったつもりのヒロイン」と「プロポーズに成功したつもりのヒーロー」による、すれ違い同居生活が幕を開けたのである。
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