悪役令嬢は、婚約破棄の瞬間を食い気味で承諾する!

夏乃みのり

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「ひぃ、ひぃ……っ! も、もう無理ですわ! 足が! 私の可憐な足が棒になりますわ!」

ハイラント城の中庭に、リリナの悲痛な叫びが木霊する。

あれから三十分。

私、マルグリットによる「新人研修(ブートキャンプ)」は佳境を迎えていた。

メニューはシンプルだ。

スクワット一〇〇回。

ランジ(足を前後に開く運動)五〇回。

そして締めは、城壁周りのランニング一周。

王都の令嬢にとっては拷問に近いが、辺境で生きるためには最低限必要な基礎体力(ライフライン)である。

「甘えないでください、リリナ様! まだスクワット三五回目です! あと六五回残っています!」

「鬼! 悪魔! ゴリラ!」

「罵倒する元気があるなら膝を曲げてください! お尻を突き出して! ハムストリングスを意識して!」

「ハム……何ですのそれはぁぁぁッ!?」

リリナは涙目でプルプルと震えている。

その姿は、生まれたての子鹿のようだ。

ドレスの裾は乱れ、綺麗にセットされた巻き髪も汗で張り付いている。

本来なら同情すべき光景かもしれない。

だが、ここは辺境伯領。

弱さは罪。筋肉は正義。

「ジェラルド様ぁ……助けてくださいまし……」

リリナが潤んだ瞳で、ベンチで休憩中のジェラルド様に視線を送る。

上目遣い。

震える声。

か弱き乙女のアピール。

王都の学園では、この技で数多の男子生徒を陥落させ、アルフレッド王子すらも籠絡した必殺技(スキル)である。

「私、こんな野蛮なこと……耐えられません……。優しくお姫様抱っこして、お部屋まで運んでくださいませんか……?」

リリナが色っぽい吐息を漏らす。

しかし。

「……マルグリット」

ジェラルド様は、眉一つ動かさずに私を呼んだ。

「はい、閣下」

「あの女のフォームが崩れている。膝が内側に入っているぞ。あれでは関節を痛める」

「ご指摘ありがとうございます! 修正します!」

「……あと、呼吸が浅い。もっと腹から吸わせろ」

「イエッサー!」

ジェラルド様、完全なる「鬼コーチ」視点である。

リリナの色仕掛けは、彼の大胸筋という分厚い装甲の前には一切通用していなかった。

「な、なんですのこの男(ひと)……!? 私の『守ってあげたいオーラ』が全く効きませんわ!?」

リリナが愕然とする。

私は彼女の背後に回り、腰の位置を矯正しながら囁いた。

「無駄ですよ、リリナ様。ジェラルド様にとって『守りたい対象』とは、可憐な花ではなく、共に戦場を駆け抜ける『戦友(とも)』なのです」

「せ、戦友……? 恋人ではなくて!?」

「ええ。彼が求めているのは、背中を預けられる強さ。今の貴女のような、風が吹けば飛ぶような貧弱な体幹では、彼の視界にすら入れません」

「なっ……! く、屈辱ですわ……!」

リリナの瞳に、微かに火が灯るのを見た。

彼女はプライドが高い。

「か弱さ」を武器にしてきた彼女だが、それが通用しないと分かった瞬間、別のスイッチが入ったようだ。

「……やってやりますわよ!」

「お?」

「見てらっしゃい! 私が本気を出せば、スクワットくらい……うぐぐぐっ!」

リリナがガクガクと震える膝に力を込め、再び腰を落とし始めた。

三六回、三七回……。

「いいですね、その根性(ガッツ)。嫌いじゃありません」

「うるさいですわ! 黙ってカウントなさい!」

「はいはい。四〇、四一……」

          ◇

一時間後。

全ての日課(メニュー)を終えたリリナは、中庭の芝生の上で大の字になって伸びていた。

「……し、死ぬ……死んでしまいますわ……」

「お疲れ様でした。初回にしては上出来です」

私はタオルと水筒を差し出した。

リリナは起き上がる気力もないようで、這いつくばったまま水筒を受け取り、ラッパ飲みをした。

ゴクゴク、プハァッ!

「……水が、こんなに美味しいなんて……」

「でしょう? それが労働の後の恵みです」

「悔しいけど……否定できませんわ」

リリナが不貞腐れたように唇を尖らせる。

その顔色は、運動前よりも血色が良く、健康的な赤みが差していた。

「さて、リリナ様。体を動かした後は、お仕事の時間です」

「はぁ!? まだ何かありますの!?」

「当然です。食い扶持分は働いていただきます。ジェラルド様、リリナ様の配属先はどこになさいますか?」

ベンチから立ち上がったジェラルド様が、リリナを見下ろす。

「……ふむ。今の体力では、討伐隊は無理だな。厨房での皿洗いか、洗濯係か……」

「嫌ですわ! 私の手は荒れやすいんですのよ!」

リリナが即座に拒否権を発動する。

「では、私の助手として『畑仕事』を手伝っていただきます」

「は、畑!? 土いじりですの!?」

「ええ。土はいいですよ。スクワットで鍛えた足腰が活かせますし、何より無心になれます」

「……泥だらけになるのは御免ですけど、皿洗いよりはマシかもしれませんわね」

リリナは渋々といった様子で頷いた。

どうやら、彼女なりに覚悟を決めたようだ。

王都へ帰れば、婚約破棄された上に王子を捨てて逃げ出した令嬢として、針の筵(むしろ)だろう。

ここで生き抜くしかないと、腹を括ったのかもしれない。

「では、午後からは裏の開墾地へ向かいます。作業着に着替えてください」

「作業着……? まさか、貴女が着ているその……貧乏くさい服を?」

リリナが私のジャージを指差す。

「機能美と言ってください。マリーに頼んで、貴女のサイズも用意させました」

「……ピンク色はありますの?」

「ありますよ。ショッキングピンクのつなぎが」

「……着てやりますわよ! 着こなして見せますわ!」

          ◇

午後。

裏庭の荒地には、二人の令嬢の姿があった。

一人は、淡々と鍬を振るう私。

もう一人は、派手なピンク色のつなぎを着て、へっぴり腰で土を掘り返すリリナだ。

「硬い! 硬すぎますわ、この土!」

「文句を言わない。腰を入れて! 腕の力だけで掘ろうとするから疲れるのです」

「簡単に言わないでくださいまし! ……きゃっ!」

リリナが石に躓いて転んだ。

顔から泥に突っ込む。

「ぶっ……ペッ、ペッ! 最悪! 泥の味がしますわ!」

「ミネラル豊富ですね」

「慰めになっていませんわよ!」

リリナが怒って私に泥団子を投げつけてくる。

私はそれをひらりと避けた。

「あら、コントロールがいいですね。次はその調子で、あそこの岩を狙ってください」

「貴女を狙ったんですのよ!」

ギャーギャーと騒ぎながらも、リリナは作業を辞めなかった。

なんだかんだ言って、彼女もタフだ。

アルフレッド王子の元で、長年猫を被り続けてきた忍耐力があるのだから、本性を出した今の彼女は意外と打たれ強いのかもしれない。

その様子を、ジェラルド様が遠くから眺めていた。

「……賑やかになったな」

彼がポツリと呟く。

「ええ。騒音レベルが上がりましたが」

「悪くない」

ジェラルド様は、微かに口元を緩めた。

「かつて、この城は静かすぎた。俺と、俺を恐れる使用人たちだけの、冷たい城だった」

彼は寂しげな目で城壁を見上げる。

「だが、貴様が来てから……空気が変わった。熱を帯びたというか、騒がしくなったというか」

「ご迷惑ですか?」

「いや。……心地いい」

ジェラルド様が私の方を向き、その大きな手で私の頭をポン、と撫でた。

「ありがとう、マルグリット」

ドキン。

不意打ちだった。

汗と泥にまみれた私を、彼は少しも嫌がらず、むしろ愛おしそうに触れてくれる。

その掌の温かさに、胸の奥がキュッとなる。

(……ずるいわ、この人)

無自覚なタラシだ。

顔は凶器なのに、行動がイケメンすぎる。

「あーっ! 抜け駆けはずるいですわよーっ!!」

そこへ、泥だらけのリリナが突撃してきた。

「私も! 私も頑張りましたわ! 私にも『ナデナデ』を要求します!」

リリナが泥んこの頭を突き出す。

ジェラルド様は一瞬引いたが、

「……うむ。よくやった」

仕方なさそうに、リリナの頭もガシガシと撫でた。

「きゃっ♡ ……あ、でも力が強すぎますわ! 首がもげそうです!」

「すまん。加減が分からん」

「もっと優しく! 愛を込めて!」

「注文が多いな」

三人の間に、笑い声(とリリナの悲鳴)が広がる。

かつて「氷の城」と呼ばれた場所は今、確実に溶け始めていた。

          ◇

その夜。

リリナは筋肉痛で箸も持てず、マリーにスプーンでスープを飲ませてもらっていた。

「屈辱……屈辱ですわ……」

「明日もやりますよ?」

「鬼ぃぃぃぃッ!」

城の夜は、賑やかに更けていく。

だが、私たちはまだ知らなかった。

この平穏な日々(?)が、嵐の前の静けさであることを。

王都では、アルフレッド王子が持ち帰った一本の『鍬』が、思わぬ波紋を呼んでいたのだ。

そして、リリナの実家である男爵家からも、刺客が放たれようとしていた。

筋肉系スローライフ、前途多難である。
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