公爵様、これは冷たい契約結婚のはず、ですよねっ!?

夏乃みのり

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リアムは、エリスが去った後も、しばらく書斎の扉を見つめていた。

手の中のティーカップからは、穏やかで甘い香りが立ち上っている。カモミールの香りか。幼い頃、母が淹れてくれたのを、ふと思い出した。

(余計なことを……)

心の中で、再び毒づく。契約を無視した彼女の行動は、不愉快なはずだった。自分の領域に踏み込まれるのは、何よりも嫌うことだ。

だが、不思議と、怒りは湧いてこなかった。むしろ、胸の奥で固く凍りついていた何かが、ほんの少しだけ、このハーブの湯気で溶かされるような、奇妙な感覚があった。

机に戻り、一口、その液体を口に含む。優しい花の香りと、ほんのりとした甘み。それは、驚くほど、リアムのささくれだった神経に沁み渡っていった。

結局、彼はそのハーブティーを、最後の一滴まで飲み干してしまった。

そして、その夜。
リアムは、何年ぶりか、悪夢を見ずに朝まで眠ることができた。

いつも彼を苛む、十年前の冬の日の光景。両親と兄を飲み込んだ雪崩の轟音と、自分の無力さを責める声。それらが、昨夜は不思議と聞こえなかった。

目覚めた時の、身体の軽さ。久しぶりの感覚に、リアムは自身でも戸惑っていた。

(……あのハーブティーのせいか?)

そんな非科学的なことがあるものか、と頭では否定する。だが、昨夜、あの女――エリスが来た後から、何かが変わったのは事実だった。

その日の午後、執務室で書類仕事をしていると、側近のライオネルが報告にやってきた。

「リアム、東の中庭のことだが……。奥様が、見事なハーブ園にされているぞ。使用人たちの間でも評判だ」

「……そうか」

興味のないそぶりで、リアムは短く応える。だが、脳裏には、窓から見えた、土に塗れて熱心に作業をするエリスの姿が浮かんでいた。

彼女が、この屋敷に来てから、何かが少しずつ変わり始めている。それは、気のせいではないのかもしれない。

夕刻、執務室を出て廊下を歩いていると、向こうから歩いてくるエリスと鉢合わせた。彼女は、手に小さな花の籠を持っている。中庭から戻ってきたところなのだろう。

「……閣下」

エリスは驚いたように立ち止まり、淑女の礼をとる。

リアムは、ただ無言で彼女の横を通り過ぎようとした。だが。

「……昨夜の茶」

思わず、声が漏れた。エリスが、ぱっと顔を上げる。その瞳が、期待するように、わずかに輝いたように見えた。

「……悪くなかった」

それだけ言うのが、精一杯だった。

くるりと背を向け、足早にその場を去る。後ろで、エリスが息を呑む気配がした。

自室に戻り、扉を閉めたリアムは、大きく息をついた。柄にもないことを言ってしまった。だが、後悔はなかった。

あの女は、一体何者なのだ。

リアム・フォン・ヴァレンシュタインの凍てついた世界に、予期せず差し込んだ、小さな日差し。

その温かさに戸惑いながらも、彼はその光から、もう目を逸らすことができなくなりつつあった。
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