どうして身代わりとして、私が新たな婚約者候補に?

夏乃みのり

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 翌朝、私は「妃教育」という恐ろしげな響きに震えながら、離宮の談話室で待機していた。

 王太子妃の教育。
 きっと、扇子の振り方一つで半日説教されたり、頭の上に厚い本を載せて歩かされたりするに違いない。
 そんなことをしたら、お腹が空いて倒れてしまう。

「……あ、今のうちにクッキーを一枚食べておこう」

 テーブルに用意されたティーセットの影から、こっそりクッキーを口に放り込んだ。
 サクサクとしたバターの風味が、私の不安を少しだけ和らげてくれる。

 その時、談話室の分厚い扉が「ドゴォッ」という、教育の場にふさわしくない音を立てて開いた。

「待たせたわね、ナジャ様! 今日からあなたの特別講師を務めることになった、ユーフェミアよ!」

 現れたのは、昨日「筋肉は裏切りませんわ」と言い残して去ったはずの、元・婚約者ユーフェミア様だった。
 彼女はなぜか、腕まくりをした動きやすいシャツに、ぴったりとしたパンツスタイル。
 そして背後には、屈強な男たちが大きな木の箱を運び込んでいる。

「……ユーフェミア様? どうしてここに? 領地へ帰ったのでは?」

「帰ったわよ! 門の前まで行って、そこからスクワットで引き返してきたわ! アリステア様から『君の筋肉を妃教育に活かしてみないか』って手紙が届いたんですもの!」

 あの王子、何を考えているんだろう。
 私は、運ばれてきた木の箱の中身を見て、嫌な予感が加速した。
 中に入っていたのは、輝くばかりの銀の……鉄アレイと、何やら太い縄だった。

「さあ、ナジャ様! まずは挨拶の練習からいきましょうか!」

「あ、挨拶……。ごきげんよう、とかですか?」

「いいえ! まずはスクワット十回よ! 声が小さければやり直し!」

 私は、手に持っていたクッキーを思わず落としそうになった。
 
 どう考えても、マナー講師のセリフではない。

「あの、ユーフェミア様。私はダンスのステップや、お茶の淹れ方を学びたいのですが……」

「甘いわ、ナジャ様! ダンスを優雅に踊るには体幹が必要! 重いドレスを着て三時間の夜会を乗り切るには背筋が必要! そして、毒を盛られた時に解毒が間に合うだけの基礎代謝が必要なのよ!」

 最後の一つが、あまりにも物騒すぎて言葉が出ない。
 しかし、彼女の瞳には一点の曇りもなかった。
 これは、本気だ。

「さあ、立って! 太ももを床と平行に! お腹を意識して!」

「ひ、ひぃぃ……。足が、足がプルプルします……!」

「ダメよ、もっと深く! これができなきゃ、お昼ご飯抜きにするから!」

「お昼ご飯抜き!? やります! やらせてください!」

 食事を人質に取られた私は、火事場の馬鹿力を発揮した。
 一、二、三……。
 慣れない運動に、私の男爵令嬢としての矜持(そんなものはないが)が、音を立てて崩れていく。

「いいわよ、ナジャ様! 良い大臀筋の動きだわ! あなたはやっぱり、食べる才能だけじゃなく、鍛える才能もあるわ!」

 嬉しくない。微塵も嬉しくない。
 
 そこへ、騒ぎを聞きつけたのか、アリステア様がひょっこりと顔を出した。
 彼は、必死の形相でスクワットをする私と、それを応援するユーフェミア様を眺めて、満足そうに頷いた。

「ほう。順調そうだな」

「殿下! 助けてください! ユーフェミア様が、妃教育を格闘技の特訓と勘違いしています!」

「いや、間違っていないぞ。王宮という場所は、戦場だからな。物理的な強さは心の余裕に繋がる」

 アリステア様は私の横にしゃがみ込むと、耳元で悪魔のように囁いた。

「ナジャ。スクワットをあと三十回こなせたら、今日の昼食は『幻の霜降り牛のローストビーフ』にするよう料理長に伝えてあるが……どうする?」

「……っ!? ろ、ローストビーフ……。しかも、幻の……?」

 私の脳内に、肉厚でジューシーな、赤身と脂身のハーモニーが完璧な肉の塊が浮かび上がった。
 
 足の痛み?
 筋肉の悲鳴?
 そんなものは、ローストビーフという福音の前には無力だ。

「……やります。三十回と言わず、五十回でもやってみせます!」

「その意気よ、ナジャ様! さあ、筋肉に感謝しながら沈みなさい!」

 私は、その後一時間の猛特訓を耐え抜いた。
 
 結果、生まれたのは。
 生まれたての小鹿のように足がガクガクで、まともに歩くこともできない、しかし食欲だけは全盛期の三倍に膨れ上がった「王太子妃候補」だった。

 お皿を持つ手すら震えていたが、ローストビーフの味は、涙が出るほど美味しかった。

「……殿下。私、筋肉がついたら、もっとたくさん食べられるようになりますか?」

「ああ。基礎代謝が上がれば、いくら食べても太りにくくなるぞ」

「神……。筋肉は、神の贈り物だったのですね……!」

 こうして、私の妃教育は、当初の予定とは大幅に異なる「肉体改造」の方向へと舵を切った。
 
 しかし、その筋肉が、まさかあんな形で役立つことになるとは。
 この時の私は、まだ知る由もなかったのである。
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