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舞踏会の喧騒から逃れるように、私たちは月明かりが降り注ぐテラスへと出た。
夜風が、火照った頬と……そして何より、パンパンに膨らんだ私の胃袋に心地よい。
「……ふぅ。殿下、あの子鴨は本当に絶品でしたね。あのオレンジソースの酸味、あれこそが国家の品格というものですわ」
私は手すりに寄りかかり、満足感に浸りながら呟いた。
隣に立つアリステア様は、夜の闇に溶け込むような深い溜息をついた。
「……ナジャ。君は、命を狙われた直後にどうしてそんなに食欲の話ができるんだ。少しは恐怖とか、余韻とか、そういう情緒を持ち合わせていないのか?」
「ありますよ、情緒。今は、デザートの余韻が胃の幽門あたりでダンスを踊っています」
「……期待した私が馬鹿だった」
殿下は苦笑しながら、私の隣に並んだ。
しばらくの間、庭園の虫の音だけが響く静かな時間が流れる。
「……ナジャ。覚えているか。私が初めて君を指差した、あの夜のことを」
「忘れるわけがありません。あの揚げパンの美味しさと、その後の拉致の衝撃は、私の人生の二大イベントですから」
「あの日、私は確かに言った。君を『無害な置物』として、私の盾にするために選んだと」
殿下の声が、低く、真剣な響きを帯び始めた。
私は思わず、背筋を伸ばした。コルセットが再び胃を圧迫するが、今はそれを無視する。
「……ええ、伺いました。合理的で、実に殿下らしい理由だと納得していましたわ」
「……だが、計算が狂ったよ」
アリステア様が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
月光に照らされたその瞳は、いつになく熱く、そしてどこか切なげに揺れている。
「君がこれほどまでに、私の予想を超えて暴れ回るとは思わなかった。……毒を一蹴し、暴漢をなぎ倒し、そして、誰よりも美味しそうに私の用意した食事を平らげる。君を見ていると、私の『合理性』という名の壁が、音を立てて崩れていくんだ」
「……それは、私の食費が予算をオーバーしたことへの抗議ですか?」
「違う! ……そうではない。……いいか、ナジャ。私は、君の隣にいる時だけ、王子としての重責も、人間不信も、すべて忘れていられるんだ」
殿下が、私の一歩前に踏み出した。
距離が、ぐっと縮まる。
「君がパンを頬張る姿を見るのが、今の私にとって最大の癒やしだ。君のその真っ直ぐな食欲が、私の冷え切った心を温めてくれた。……私はもう、君を単なる『候補』や『盾』として見ることはできない」
彼の手が、私の頬にそっと触れた。
指先から伝わる熱に、心臓がバクバクと騒ぎ出す。
「ナジャ・ローレル。……私は、君を愛している。これは取引でも契約でもない。私の魂が、君という名の『光』を……いや、君という名の『最高のメインディッシュ』を求めているんだ」
「……で、殿下。今の例え、少しだけ私に寄り添いすぎていませんか?」
「黙って聞け。……私は、君に正式な婚約者になってほしい。王妃という座ではなく、私の生涯の食事を共に彩るパートナーとして。……返事を聞かせてくれ」
告白。
それは、どんな高級スイーツよりも甘く、そしてどんな重たい肉料理よりも胃にズシリとくる、究極の言葉だった。
私は、殿下の瞳を見つめ返した。
ユーフェミア様に言われた通り、私はもう自覚している。
この人がくれる食事だけではなく、この人が隣にいてくれるこの時間が、何よりも大切だと。
「……殿下。私は、下級貴族の娘です。マナーも筋肉で解決しようとしますし、隙があれば王宮の備蓄を狙うような女ですわよ?」
「知っている。それが君だ」
「……それでも、いいのですか? 私を隣に置けば、あなたの評判は『揚げパン王子』にまで落ちるかもしれませんわよ?」
「構わん。君と一緒に揚げパンの美味しさを世界に広めるのも、悪くない公務だ」
アリステア様が、優しく微笑んだ。
その笑顔に、私の最後の理性が「完食」を宣言した。
「……分かりました。お受けします、殿下。……ただし、一つだけ条件があります」
「条件? 宝石か? それとも領地か?」
「いいえ。……これから一生、私の朝食、昼食、夕食……そして三時のおやつは、必ずあなたが責任を持って、最高に美味しいものを用意してください」
「…………」
「もし、一食でもおろそかにしたら、私はすぐに実家に帰って、パパの持ってきた干し肉を食べますからね!」
私がふん、と鼻を鳴らすと、アリステア様は一瞬呆然とした後、今日一番の大きな声で笑った。
「ははは! やはり君は最高だ! ……分かった。約束しよう。君の胃袋が悲鳴を上げるまで、私が一生、最高の美味で君を拘束してやる」
殿下はそのまま、私を力強く抱き寄せた。
コルセットがギチリと鳴ったけれど、今度はそれが少しも苦しくなかった。
「愛している、ナジャ」
「……私もです。アリステア様。……あ、でも、さっきの子鴨、もう一口だけ食べたくなってきましたわ」
「……ムードというものを少しは学んでくれ。……まあいい。戻ろうか、私たちの宴へ」
私たちは手を繋ぎ、再び光り輝く会場へと戻っていった。
月明かりの下での誓い。
それは、世界で一番食いしん坊な、でも世界で一番幸せな婚約の瞬間だった。
夜風が、火照った頬と……そして何より、パンパンに膨らんだ私の胃袋に心地よい。
「……ふぅ。殿下、あの子鴨は本当に絶品でしたね。あのオレンジソースの酸味、あれこそが国家の品格というものですわ」
私は手すりに寄りかかり、満足感に浸りながら呟いた。
隣に立つアリステア様は、夜の闇に溶け込むような深い溜息をついた。
「……ナジャ。君は、命を狙われた直後にどうしてそんなに食欲の話ができるんだ。少しは恐怖とか、余韻とか、そういう情緒を持ち合わせていないのか?」
「ありますよ、情緒。今は、デザートの余韻が胃の幽門あたりでダンスを踊っています」
「……期待した私が馬鹿だった」
殿下は苦笑しながら、私の隣に並んだ。
しばらくの間、庭園の虫の音だけが響く静かな時間が流れる。
「……ナジャ。覚えているか。私が初めて君を指差した、あの夜のことを」
「忘れるわけがありません。あの揚げパンの美味しさと、その後の拉致の衝撃は、私の人生の二大イベントですから」
「あの日、私は確かに言った。君を『無害な置物』として、私の盾にするために選んだと」
殿下の声が、低く、真剣な響きを帯び始めた。
私は思わず、背筋を伸ばした。コルセットが再び胃を圧迫するが、今はそれを無視する。
「……ええ、伺いました。合理的で、実に殿下らしい理由だと納得していましたわ」
「……だが、計算が狂ったよ」
アリステア様が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
月光に照らされたその瞳は、いつになく熱く、そしてどこか切なげに揺れている。
「君がこれほどまでに、私の予想を超えて暴れ回るとは思わなかった。……毒を一蹴し、暴漢をなぎ倒し、そして、誰よりも美味しそうに私の用意した食事を平らげる。君を見ていると、私の『合理性』という名の壁が、音を立てて崩れていくんだ」
「……それは、私の食費が予算をオーバーしたことへの抗議ですか?」
「違う! ……そうではない。……いいか、ナジャ。私は、君の隣にいる時だけ、王子としての重責も、人間不信も、すべて忘れていられるんだ」
殿下が、私の一歩前に踏み出した。
距離が、ぐっと縮まる。
「君がパンを頬張る姿を見るのが、今の私にとって最大の癒やしだ。君のその真っ直ぐな食欲が、私の冷え切った心を温めてくれた。……私はもう、君を単なる『候補』や『盾』として見ることはできない」
彼の手が、私の頬にそっと触れた。
指先から伝わる熱に、心臓がバクバクと騒ぎ出す。
「ナジャ・ローレル。……私は、君を愛している。これは取引でも契約でもない。私の魂が、君という名の『光』を……いや、君という名の『最高のメインディッシュ』を求めているんだ」
「……で、殿下。今の例え、少しだけ私に寄り添いすぎていませんか?」
「黙って聞け。……私は、君に正式な婚約者になってほしい。王妃という座ではなく、私の生涯の食事を共に彩るパートナーとして。……返事を聞かせてくれ」
告白。
それは、どんな高級スイーツよりも甘く、そしてどんな重たい肉料理よりも胃にズシリとくる、究極の言葉だった。
私は、殿下の瞳を見つめ返した。
ユーフェミア様に言われた通り、私はもう自覚している。
この人がくれる食事だけではなく、この人が隣にいてくれるこの時間が、何よりも大切だと。
「……殿下。私は、下級貴族の娘です。マナーも筋肉で解決しようとしますし、隙があれば王宮の備蓄を狙うような女ですわよ?」
「知っている。それが君だ」
「……それでも、いいのですか? 私を隣に置けば、あなたの評判は『揚げパン王子』にまで落ちるかもしれませんわよ?」
「構わん。君と一緒に揚げパンの美味しさを世界に広めるのも、悪くない公務だ」
アリステア様が、優しく微笑んだ。
その笑顔に、私の最後の理性が「完食」を宣言した。
「……分かりました。お受けします、殿下。……ただし、一つだけ条件があります」
「条件? 宝石か? それとも領地か?」
「いいえ。……これから一生、私の朝食、昼食、夕食……そして三時のおやつは、必ずあなたが責任を持って、最高に美味しいものを用意してください」
「…………」
「もし、一食でもおろそかにしたら、私はすぐに実家に帰って、パパの持ってきた干し肉を食べますからね!」
私がふん、と鼻を鳴らすと、アリステア様は一瞬呆然とした後、今日一番の大きな声で笑った。
「ははは! やはり君は最高だ! ……分かった。約束しよう。君の胃袋が悲鳴を上げるまで、私が一生、最高の美味で君を拘束してやる」
殿下はそのまま、私を力強く抱き寄せた。
コルセットがギチリと鳴ったけれど、今度はそれが少しも苦しくなかった。
「愛している、ナジャ」
「……私もです。アリステア様。……あ、でも、さっきの子鴨、もう一口だけ食べたくなってきましたわ」
「……ムードというものを少しは学んでくれ。……まあいい。戻ろうか、私たちの宴へ」
私たちは手を繋ぎ、再び光り輝く会場へと戻っていった。
月明かりの下での誓い。
それは、世界で一番食いしん坊な、でも世界で一番幸せな婚約の瞬間だった。
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