悪役令嬢は、婚約破棄をあざ笑う!

夏乃みのり

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王宮の大広間には、数百のシャンデリアが煌めき、着飾った貴族たちの談笑がさざ波のように響いていた。

豪奢なドレス、磨き上げられた大理石の床、そして芳醇なワインの香り。

誰もが羨む華やかな舞踏会の最中、その声は高らかに響き渡った。

「サンドイッチ・デ・リシャス! 貴様との婚約を、この場を持って破棄する!!」

音楽が止まる。

踊り明かしていた貴族たちは一斉に足を止め、声の主へと視線を集中させた。

そこに立っていたのは、この国の第一王子カイル。

金髪碧眼の美男子であり、本来ならば絵になる光景だ。

彼は今、壇上で右手を突き出し、その指先を会場の中央にいる一人の令嬢へと向けていた。

リシャス公爵家の長女、サンドイッチである。

彼女は深紅のドレスを身に纏い、その豊満で魅力的な肢体を惜しげもなく晒している。

誰もが固唾を呑んだ。

公爵令嬢が、衆人環視の中で恥をかかされているのだ。

彼女は泣き崩れるだろうか。

それとも、怒りに震えて王子を罵倒するだろうか。

会場の緊張は最高潮に達し、針が落ちる音さえ聞こえそうな静寂が場を支配した。

だが。

「…………」

サンドイッチは動かなかった。

いや、正確には動いていた。

彼女の右手には、自身の顔ほどもある巨大な骨付きローストチキンが握られていたのである。

「(……んぐ、むぐ……)」

彼女は一心不乱に肉を咀嚼していた。

王子の叫びなど、まるで遠くの国の天気予報であるかのように無視して。

「お、おい……サンドイッチ?」

カイル王子の眉がピクリと跳ねる。

想像していた反応とあまりに違う。

彼はもっと劇的な展開を期待していたのだ。

自分が正義の鉄槌を下し、悪女がひれ伏すカタルシスを。

しかし現実は、油でテカテカになった口元をナプキンで拭う女が一人いるだけだった。

「(……焼き加減は悪くないわね。表面のパリッとした皮の香ばしさと、中のジューシーな肉汁のコントラスト。悪くない、悪くないけれど……)」

サンドイッチの脳内は、婚約破棄の衝撃ではなく、鶏肉の分析で埋め尽くされていた。

「(このローズマリーの香り、少し飛びすぎているわ。下処理の段階で揉み込む時間が五分足りない。それに、オーブンの温度設定が高すぎたせいで、骨周りの肉が少し硬化している。七十五点……いや、王宮の厨房という設備を考えれば六十八点ね)」

彼女は心の中で辛辣なレビューを下すと、残った軟骨部分をコリコリと噛み砕いた。

「聞いていないのか貴様ーッ!!」

業を煮やしたカイル王子が絶叫した。

その大声に、ようやくサンドイッチは食事の手を止める。

彼女はゆっくりと顔を上げ、優雅な動作でチキンの骨をウェイターの持つ銀盆へと置いた。

そして、不思議そうな顔で小首を傾げる。

「あら、殿下。何か仰いました? 申し訳ありません、このチキンのソースに使われているマデラ酒のヴィンテージを特定するのに忙しくて、雑音はシャットアウトしておりましたの」

「雑音だと!?」

「ええ。それで、何事でしょう。もしかして、そちらの豚肉のローストのほうが美味しいという情報でしょうか?」

サンドイッチは期待に満ちた瞳で、王子の後ろにあるビュッフェ台を見つめた。

カイル王子は顔を真っ赤にして震えだす。

彼の隣には、小柄で可愛らしい男爵令嬢ミントが寄り添っていた。

彼女は怯えたように王子の腕にしがみつき、上目遣いでサンドイッチを見ている。

「ひどいですわ、サンドイッチ様……。カイル様は真剣なお話をされているのに、食べることばかりなんて」

「あら、ミント男爵令嬢。貴女、今日のドレスは素敵ね。まるで生クリームを泡立てすぎて分離した失敗作のケーキみたい」

「なっ……!?」

「それで? 話というのは何ですの? 私、この後デザートコーナーにある『季節のフルーツタルト』を攻略する予定がございますので、手短にお願いしたくてよ」

サンドイッチは懐中時計を取り出し、チラリと時間を確認した。

タルトが補充されるまであと三分。

それまでにこの茶番を終わらせなければならない。

カイル王子は額に青筋を浮かべながら、再び宣言した。

「だ、か、ら! 貴様との婚約を破棄すると言ったのだ! この身の程知らずの大食い女め!」

会場がざわめく。

「大食い女」というあまりに不名誉な二つ名。

しかし、サンドイッチは傷つくどころか、呆れたようにため息をついた。

「殿下。言葉を選んでいただけますか。大食いではありません。『美食の探求者』です」

「同じことだ! 貴様はいつもそうだ。デートに行けば高級レストランの料理にケチをつけ、王宮の晩餐会ではシェフを呼び出して説教をする。私の顔を見るなり『今日の化粧水は甘みが足りない』などと意味の分からないことを言う!」

「あら、あれは比喩表現ですわ。殿下の甘っちょろい考えが顔に出ていると申し上げたのです」

「黙れ! もう我慢の限界だ。私は、私の心の拠り所となってくれるミントと真実の愛を育むことにした。彼女の手作りクッキーの素朴な味わいこそが、私に必要な癒やしなのだ!」

カイル王子はミントの腰を抱き寄せ、勝ち誇った顔を見せる。

ミントも頬を染め、幸せそうに微笑んだ。

「そうですわ、サンドイッチ様。愛というのは、味付けの技術ではありません。想いなのです。私のクッキーは、カイル様への愛という最高のスパイスが入っていますもの」

「……ほう」

サンドイッチの目が、スッと細められた。

それは獲物を見定めた猛禽類の目だった。

彼女はゆっくりと歩き出し、二人の元へと近づいていく。

周囲の貴族たちが、道を空ける。

「愛のスパイス、ですか」

サンドイッチはミントの前に立つと、鼻をひくつかせた。

「……焦げ臭いわね」

「え?」

「貴女、クッキーを焼く時にバターを常温に戻さずに混ぜたでしょう? それに、砂糖と塩を間違えたのを『隠し味』と言い張って誤魔化した形跡があるわ。殿下の口元に付いているクッキーの欠片から、致死量の塩分と、炭化した小麦粉の哀愁漂う香りがしますもの」

「な、ななな……!」

ミントは顔面蒼白になった。

図星だったのだ。

カイル王子は慌てて口元を拭う。

「き、貴様! ミントの努力を侮辱する気か!」

「努力? いいえ、これはテロ行為ですわ。殿下、貴方の舌は相変わらずお粗末ね。それを『素朴な味』と呼んで喜んでいるなんて。味蕾(みらい)が死滅していらっしゃるのかしら?」

サンドイッチの言葉は、鋭利なナイフのように王子のプライドを切り裂いた。

「き、貴様ぁ……っ! そこまで言うなら出て行け! 二度と私の前に顔を見せるな! 公爵家との縁もこれまでだ!」

カイル王子が叫ぶ。

それは決定的な決裂の言葉だった。

貴族としての地位、将来の王妃の座、そのすべてを剥奪する宣告。

普通の令嬢なら、ここで泣き崩れて慈悲を乞う場面だ。

しかし、サンドイッチ・デ・リシャスは違った。

彼女は、ニッコリと笑ったのである。

それは、極上のフォアグラを目の前にした時のような、慈愛と欲望に満ちた笑顔だった。

「本当によろしいのですか?」

「あ、ああ! 撤回はしないぞ!」

「公爵家の援助も、コネクションも、すべて切るということですね?」

「くどい! 貴様のような高慢な女にはうんざりだ!」

「承知いたしました」

サンドイッチはスカートの裾をつまみ、優雅にカーテシーをした。

そして、顔を上げる瞬間に言い放つ。

「せいぜい、その炭クッキーで喉を詰まらせないようお気をつけあそばせ。……ああ、それと」

彼女は視線をビュッフェ台に向けた。

「この会場の料理、全て冷めきっていますわ。特にあのスープ、油膜が張っていて見るに堪えない。こんな不味い料理が出るパーティーなんて、こちらから願い下げです」

サンドイッチは踵を返した。

その背中には、微塵の未練も感じられない。

あるのは、「早く帰って夜食の特製パニーニを作ろう」という確固たる決意だけだった。

「あ、待て! サンドイッチ!」

背後でカイル王子が何か喚いているが、彼女はもう振り返らない。

大広間の扉を押し開け、涼しい夜風を胸いっぱいに吸い込む。

「さて……」

月明かりの下、サンドイッチは呟いた。

「自由ね。これで私は、誰に遠慮することなく食べ歩きができるわ」

お腹がグゥと鳴った。

王宮の料理は(彼女の基準では)食べるに値しなかったため、実質的に彼女の胃袋は空っぽだ。

「まずは……そうね。伝説の『幻のキノコ』を探しに行きましょうか。北の森にあると聞いたことがあるわ」

彼女の瞳は、宝石よりも輝いていた。

婚約破棄? 王子の浮気?

そんな些細なことは、今夜の夜食のメニューに比べれば、埃以下の価値しかなかった。

こうして、悪役令嬢サンドイッチ・デ・リシャスの、飽くなき食への旅が幕を開けたのである。

後に、彼女が「暴食の聖女」や「フライパンを持った破壊神」と呼ばれるようになる未来を、この時のカイル王子はまだ知る由もなかった。
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