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ズザザザザ……。
廃屋敷の廊下に、重い袋を引きずるような音が響く。
ポタージュは両手で男の軍服の襟を掴み、背筋を使って器用に後ろ歩きで運搬していた。
「意外と重いわね。見た目は細いのに、骨密度が高いのかしら。それとも筋肉の質量?」
彼女は息を切らすこともなく、かつて応接間だった部屋へと男を運び込んだ。
幸い、掃除のついでに埃を払い、古いソファにはシーツを被せておいた場所だ。
「よいしょ、っと」
男をソファに転がす。
彼は泥だらけで、雨水が滴っている。
せっかく磨いた床が汚れるが、ポタージュは気にしなかった。
床の汚れは拭けば落ちるが、伸びたスープの風味は二度と戻らないからだ。
「さて。まずは着替えさせないと風邪を引くわね」
ポタージュは躊躇なく男の服に手をかけた。
羞恥心?
そんなものは鍋の底に置いてきた。
今の彼女にとって、目の前の男は「スープを美味しく飲むための器(胃袋)」に過ぎない。
器が冷えていては、注いだスープの温度が下がってしまう。それは由々しき問題だ。
軍服のボタンを外し、濡れたシャツを剥ぎ取る。
露わになった上半身を見て、ポタージュは「ふむ」と料理人らしい観察眼を光らせた。
「酷い栄養失調ね」
筋肉の形は綺麗だが、脂肪が極端に少ない。
肋骨が浮き出て、肌は青白く乾燥している。
まさに、枯れ木のような状態だ。
「いい素材(骨格)をしているのに、メンテナンス(食事)が最悪だわ。これじゃあ、どんなにいい出汁が出ても味が乗らない」
彼女は自分のトランクから大きめのバスタオル(鍋の保温用に使っていたもの)を取り出し、男の体を乱暴に、しかし手早く拭いた。
そして、自分が寝間着にする予定だったダボダボの麻のシャツを着せる。
「準備完了。さあ、実食の時間よ」
ポタージュは厨房へ戻り、木のお盆にスープ皿とスプーンを乗せて戻ってきた。
湯気と共に、強烈に食欲をそそる香りが部屋に充満する。
その香りに反応したのか、男の眉がピクリと動いた。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。
「……ん……ここは……?」
「お目覚めですね。地獄の入り口へようこそ」
「地獄……?」
男が焦点を合わせ、ポタージュを見る。
その氷のような青い瞳が、怪訝そうに細められた。
「君は……誰だ? 俺は森で……遭難して……」
「私はただの通りすがりのスープ屋です。貴方は私の店の前で、非常に邪魔な……いえ、運命的な倒れ方をしていました」
「スープ屋……?」
男は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえ、身を起こそうとする。
しかし、力が
入らないらしく、ソファに沈み込んだ。
「動かない方がいいですよ。貴方の体、エネルギー残量がゼロに近いですから。ガス欠の馬車と同じです」
「……水……」
「水なんて味気ないものは置いていません。あるのはこれだけ」
ポタージュは、湯気を立てるスープ皿を男の目の前に突き出した。
「さあ、飲んで」
男は皿の中を覗き込んだ。
乳白色の液体の中に、茶色いキノコとタマネギが溶け込んでいる。
見た目は地味だ。
華やかさのかけらもない、土色に近いクリーム色。
それを見た瞬間、男の顔が険しくなった。
「……なんだこれは。泥か?」
ピキッ。
ポタージュのこめかみに青筋が浮かんだ。
(また泥……! どいつもこいつも、私のスープを泥呼ばわりするなんて、この国の美的感覚はどうなっているの!?)
カレル王子の顔が脳裏をよぎり、ポタージュは反射的にお玉を振り上げそうになった。
だが、寸前で思い留まる。
この男はまだ味を知らないだけだ。
無知は罪ではない。教えればいいのだ。
「泥ではありません。『森の賢者と貝柱の濃厚クリームチャウダー』です。見た目で判断する前に、その鼻は飾りですか?」
「……匂いは、悪くない」
男は正直だった。
警戒心バリバリの顔をしているが、鼻翼はヒクヒクと動いて香りを貪っている。
体は嘘をつかないのだ。
「なら、口を開けて。それとも私が口移しで……じゃなくて、じょうごで流し込みましょうか?」
「……自分で飲む」
男は震える手でスプーンを握った。
金属のスプーンがカチカチと皿に当たる。
彼は疑わしそうにスープを掬い、恐る恐る口元へ運んだ。
ポタージュは腕組みをして、その瞬間を見守る。
(さあ、どう出る? これで「不味い」と言ったら、即座に窓から森へ投げ捨ててやるわ)
男が、スープを啜った。
その瞬間。
時が止まった。
男の動きが完全に静止した。
目を見開き、スプーンを口に含んだまま、彫像のように固まってしまったのだ。
「……もしもし? 生きてます?」
ポタージュが顔を覗き込むと、男の喉がゴクリと動いた。
そして。
「――――なんだ、これは」
絞り出すような声だった。
「熱い……いや、温かい。腹の底が、燃えるようだ……」
「お気に召しました?」
「美味い……」
男は震える声で呟いた。
そして次の瞬間、猛然とスプーンを動かし始めた。
先ほどの衰弱ぶりが嘘のような速さだ。
カチャカチャカチャ!
一心不乱にスープを口に運ぶ。
咀嚼するたびに、キノコの旨味と貝柱の風味が炸裂し、男の脳髄を揺さぶる。
冷え切っていた血流が一気に巡り始め、青白かった頬に赤みが差していく。
「美味い、美味いぞ……っ! なんだこの深い味は! 体が、生き返るようだ!」
「でしょうね。貴方の体にはミネラルと良質なタンパク質が不足していましたから。このスープは、言わば『飲む点滴』であり『食べるエリクサー』です」
「おかわりだ!」
男はあっという間に皿を空にし、子供のように皿を突き出した。
「早っ。まあ、鍋にはまだたっぷりありますから」
ポタージュはニヤリと笑い、鍋からなみなみと注ぎ足した。
男はそれを奪い取るように受け取り、再び飲み始める。
その姿は、高貴な顔立ちとは裏腹に、飢えた野獣のようだった。
二杯、三杯、四杯。
結局、十人前あったはずのスープの大半が、この男の胃袋へと消えていった。
そして。
「……ふぅ」
男は大きく息を吐き、ソファの背もたれに体を預けた。
その表情は、憑き物が落ちたように穏やかで、恍惚としていた。
肌にはツヤが戻り、瞳には理知的な光が宿っている。
「満足していただけましたか?」
ポタージュが空になった鍋を片付けながら尋ねると、男は居住まいを正し、彼女を真っ直ぐに見つめた。
「……礼を言う。命を救われた気分だ」
「気分ではなく、実際に死にかけていましたよ。もう少し発見が遅れていたら、今頃は森の養分になっていたでしょうね」
「違いない」
男は苦笑し、そしてスッと真顔に戻った。
その瞬間、彼から放たれる空気が変わった。
ただの遭難者から、人を統べる者特有の冷徹で鋭利な覇気へと。
「改めて名乗ろう。私はシルヴィス・グラッセ。この国の宰相を務めている者だ」
「……は?」
ポタージュの手が止まった。
シルヴィス・グラッセ。
その名は、社交界に疎い彼女でも知っていた。
若くして公爵位を継ぎ、その冷徹な政治手腕から「氷の宰相」と恐れられる男。
仕事の鬼であり、「感情という機能を母の胎内に忘れてきた」とまで噂される鉄仮面。
カレル王子のお目付け役でもあったはずだ。
「宰相閣下? どうしてそんな偉い方が、こんな辺鄙な森で野垂れ死にかけていたのです?」
「……視察だ。極秘のな。護衛を巻いて一人で調査に入ったのだが、持病の貧血と空腹で意識が飛び、道に迷った」
「護衛を巻くからですよ。自業自得ですね」
「反論の余地もない」
シルヴィスは肩をすくめた。
そして、じっとポタージュを見つめる。
その視線は、もはや料理人を見る目ではなかった。
もっと執着の籠もった、獲物を値踏みするような目だ。
「ところで、貴女の名は?」
「ポタージュ・ブイヨンです。先日、実家を勘当されたばかりの無職ですが」
「ブイヨン……ああ、カレル殿下が婚約破棄したという、あの?」
「ええ。泥水令嬢と呼んでいただいても構いませんよ」
ポタージュが自虐的に笑うと、シルヴィスは首を横に振った。
「泥水? とんでもない。あれは至高の『金色の雫』だった。私の人生で、あれほど美味いものを口にしたのは初めてだ」
「!」
ポタージュの目が大きく見開かれた。
今まで誰にも理解されなかった、自分のスープへのこだわり。
それを、この男は「至高」と言ったのだ。
胸の奥が、カッ、と熱くなる。
それは恋心ではない。
職人としての承認欲求が満たされた瞬間の、強烈な悦びだった。
「……閣下。貴方、なかなかいい舌をお持ちですね」
「そうか? 私は偏食家で、普段は食事など砂を噛むような作業だと思っていたのだが……君の料理だけは違った」
シルヴィスは立ち上がり、ポタージュの前に歩み寄った。
そして、彼女の手(まだお玉を持っている)を取り、跪いた。
「ポタージュ嬢。商談だ」
「は、はい?」
「私を餌付けしろ」
「……え?」
「金なら払う。いくらでもだ。屋敷の修繕費も出そう。食材も最高級のものを手配する。だから、毎日そのスープを私に飲ませろ」
シルヴィスの瞳は本気だった。
氷の宰相と呼ばれた男の瞳が、今はスープへの執着という灼熱の炎で燃え上がっている。
「契約成立、と言ってくれるまで、私はこのソファから動かないつもりだ」
ポタージュは呆気にとられた。
婚約破棄されて一日足らず。
まさか廃墟で、国のナンバー2にスープの定期購入契約(サブスクリプション)を迫られるとは。
しかし。
(最高級の食材……いくらでも……?)
その言葉は、悪魔の囁きのように甘美だった。
市場では手に入らない希少な肉、新鮮な魚介、異国のスパイス。
それらが使い放題になる未来が、走馬灯のように脳内を駆け巡る。
ポタージュの口元が、自然と三日月形に歪んだ。
「……宰相閣下。その契約、詳細を詰めさせていただいても?」
「ああ、望むところだ」
薄暗い廃屋敷のキッチンで、国をも揺るがす「スープ協定」が結ばれようとしていた。
カレル王子が捨てた「泥水」が、国の重鎮を完全に掌握した瞬間である。
廃屋敷の廊下に、重い袋を引きずるような音が響く。
ポタージュは両手で男の軍服の襟を掴み、背筋を使って器用に後ろ歩きで運搬していた。
「意外と重いわね。見た目は細いのに、骨密度が高いのかしら。それとも筋肉の質量?」
彼女は息を切らすこともなく、かつて応接間だった部屋へと男を運び込んだ。
幸い、掃除のついでに埃を払い、古いソファにはシーツを被せておいた場所だ。
「よいしょ、っと」
男をソファに転がす。
彼は泥だらけで、雨水が滴っている。
せっかく磨いた床が汚れるが、ポタージュは気にしなかった。
床の汚れは拭けば落ちるが、伸びたスープの風味は二度と戻らないからだ。
「さて。まずは着替えさせないと風邪を引くわね」
ポタージュは躊躇なく男の服に手をかけた。
羞恥心?
そんなものは鍋の底に置いてきた。
今の彼女にとって、目の前の男は「スープを美味しく飲むための器(胃袋)」に過ぎない。
器が冷えていては、注いだスープの温度が下がってしまう。それは由々しき問題だ。
軍服のボタンを外し、濡れたシャツを剥ぎ取る。
露わになった上半身を見て、ポタージュは「ふむ」と料理人らしい観察眼を光らせた。
「酷い栄養失調ね」
筋肉の形は綺麗だが、脂肪が極端に少ない。
肋骨が浮き出て、肌は青白く乾燥している。
まさに、枯れ木のような状態だ。
「いい素材(骨格)をしているのに、メンテナンス(食事)が最悪だわ。これじゃあ、どんなにいい出汁が出ても味が乗らない」
彼女は自分のトランクから大きめのバスタオル(鍋の保温用に使っていたもの)を取り出し、男の体を乱暴に、しかし手早く拭いた。
そして、自分が寝間着にする予定だったダボダボの麻のシャツを着せる。
「準備完了。さあ、実食の時間よ」
ポタージュは厨房へ戻り、木のお盆にスープ皿とスプーンを乗せて戻ってきた。
湯気と共に、強烈に食欲をそそる香りが部屋に充満する。
その香りに反応したのか、男の眉がピクリと動いた。
長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。
「……ん……ここは……?」
「お目覚めですね。地獄の入り口へようこそ」
「地獄……?」
男が焦点を合わせ、ポタージュを見る。
その氷のような青い瞳が、怪訝そうに細められた。
「君は……誰だ? 俺は森で……遭難して……」
「私はただの通りすがりのスープ屋です。貴方は私の店の前で、非常に邪魔な……いえ、運命的な倒れ方をしていました」
「スープ屋……?」
男は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえ、身を起こそうとする。
しかし、力が
入らないらしく、ソファに沈み込んだ。
「動かない方がいいですよ。貴方の体、エネルギー残量がゼロに近いですから。ガス欠の馬車と同じです」
「……水……」
「水なんて味気ないものは置いていません。あるのはこれだけ」
ポタージュは、湯気を立てるスープ皿を男の目の前に突き出した。
「さあ、飲んで」
男は皿の中を覗き込んだ。
乳白色の液体の中に、茶色いキノコとタマネギが溶け込んでいる。
見た目は地味だ。
華やかさのかけらもない、土色に近いクリーム色。
それを見た瞬間、男の顔が険しくなった。
「……なんだこれは。泥か?」
ピキッ。
ポタージュのこめかみに青筋が浮かんだ。
(また泥……! どいつもこいつも、私のスープを泥呼ばわりするなんて、この国の美的感覚はどうなっているの!?)
カレル王子の顔が脳裏をよぎり、ポタージュは反射的にお玉を振り上げそうになった。
だが、寸前で思い留まる。
この男はまだ味を知らないだけだ。
無知は罪ではない。教えればいいのだ。
「泥ではありません。『森の賢者と貝柱の濃厚クリームチャウダー』です。見た目で判断する前に、その鼻は飾りですか?」
「……匂いは、悪くない」
男は正直だった。
警戒心バリバリの顔をしているが、鼻翼はヒクヒクと動いて香りを貪っている。
体は嘘をつかないのだ。
「なら、口を開けて。それとも私が口移しで……じゃなくて、じょうごで流し込みましょうか?」
「……自分で飲む」
男は震える手でスプーンを握った。
金属のスプーンがカチカチと皿に当たる。
彼は疑わしそうにスープを掬い、恐る恐る口元へ運んだ。
ポタージュは腕組みをして、その瞬間を見守る。
(さあ、どう出る? これで「不味い」と言ったら、即座に窓から森へ投げ捨ててやるわ)
男が、スープを啜った。
その瞬間。
時が止まった。
男の動きが完全に静止した。
目を見開き、スプーンを口に含んだまま、彫像のように固まってしまったのだ。
「……もしもし? 生きてます?」
ポタージュが顔を覗き込むと、男の喉がゴクリと動いた。
そして。
「――――なんだ、これは」
絞り出すような声だった。
「熱い……いや、温かい。腹の底が、燃えるようだ……」
「お気に召しました?」
「美味い……」
男は震える声で呟いた。
そして次の瞬間、猛然とスプーンを動かし始めた。
先ほどの衰弱ぶりが嘘のような速さだ。
カチャカチャカチャ!
一心不乱にスープを口に運ぶ。
咀嚼するたびに、キノコの旨味と貝柱の風味が炸裂し、男の脳髄を揺さぶる。
冷え切っていた血流が一気に巡り始め、青白かった頬に赤みが差していく。
「美味い、美味いぞ……っ! なんだこの深い味は! 体が、生き返るようだ!」
「でしょうね。貴方の体にはミネラルと良質なタンパク質が不足していましたから。このスープは、言わば『飲む点滴』であり『食べるエリクサー』です」
「おかわりだ!」
男はあっという間に皿を空にし、子供のように皿を突き出した。
「早っ。まあ、鍋にはまだたっぷりありますから」
ポタージュはニヤリと笑い、鍋からなみなみと注ぎ足した。
男はそれを奪い取るように受け取り、再び飲み始める。
その姿は、高貴な顔立ちとは裏腹に、飢えた野獣のようだった。
二杯、三杯、四杯。
結局、十人前あったはずのスープの大半が、この男の胃袋へと消えていった。
そして。
「……ふぅ」
男は大きく息を吐き、ソファの背もたれに体を預けた。
その表情は、憑き物が落ちたように穏やかで、恍惚としていた。
肌にはツヤが戻り、瞳には理知的な光が宿っている。
「満足していただけましたか?」
ポタージュが空になった鍋を片付けながら尋ねると、男は居住まいを正し、彼女を真っ直ぐに見つめた。
「……礼を言う。命を救われた気分だ」
「気分ではなく、実際に死にかけていましたよ。もう少し発見が遅れていたら、今頃は森の養分になっていたでしょうね」
「違いない」
男は苦笑し、そしてスッと真顔に戻った。
その瞬間、彼から放たれる空気が変わった。
ただの遭難者から、人を統べる者特有の冷徹で鋭利な覇気へと。
「改めて名乗ろう。私はシルヴィス・グラッセ。この国の宰相を務めている者だ」
「……は?」
ポタージュの手が止まった。
シルヴィス・グラッセ。
その名は、社交界に疎い彼女でも知っていた。
若くして公爵位を継ぎ、その冷徹な政治手腕から「氷の宰相」と恐れられる男。
仕事の鬼であり、「感情という機能を母の胎内に忘れてきた」とまで噂される鉄仮面。
カレル王子のお目付け役でもあったはずだ。
「宰相閣下? どうしてそんな偉い方が、こんな辺鄙な森で野垂れ死にかけていたのです?」
「……視察だ。極秘のな。護衛を巻いて一人で調査に入ったのだが、持病の貧血と空腹で意識が飛び、道に迷った」
「護衛を巻くからですよ。自業自得ですね」
「反論の余地もない」
シルヴィスは肩をすくめた。
そして、じっとポタージュを見つめる。
その視線は、もはや料理人を見る目ではなかった。
もっと執着の籠もった、獲物を値踏みするような目だ。
「ところで、貴女の名は?」
「ポタージュ・ブイヨンです。先日、実家を勘当されたばかりの無職ですが」
「ブイヨン……ああ、カレル殿下が婚約破棄したという、あの?」
「ええ。泥水令嬢と呼んでいただいても構いませんよ」
ポタージュが自虐的に笑うと、シルヴィスは首を横に振った。
「泥水? とんでもない。あれは至高の『金色の雫』だった。私の人生で、あれほど美味いものを口にしたのは初めてだ」
「!」
ポタージュの目が大きく見開かれた。
今まで誰にも理解されなかった、自分のスープへのこだわり。
それを、この男は「至高」と言ったのだ。
胸の奥が、カッ、と熱くなる。
それは恋心ではない。
職人としての承認欲求が満たされた瞬間の、強烈な悦びだった。
「……閣下。貴方、なかなかいい舌をお持ちですね」
「そうか? 私は偏食家で、普段は食事など砂を噛むような作業だと思っていたのだが……君の料理だけは違った」
シルヴィスは立ち上がり、ポタージュの前に歩み寄った。
そして、彼女の手(まだお玉を持っている)を取り、跪いた。
「ポタージュ嬢。商談だ」
「は、はい?」
「私を餌付けしろ」
「……え?」
「金なら払う。いくらでもだ。屋敷の修繕費も出そう。食材も最高級のものを手配する。だから、毎日そのスープを私に飲ませろ」
シルヴィスの瞳は本気だった。
氷の宰相と呼ばれた男の瞳が、今はスープへの執着という灼熱の炎で燃え上がっている。
「契約成立、と言ってくれるまで、私はこのソファから動かないつもりだ」
ポタージュは呆気にとられた。
婚約破棄されて一日足らず。
まさか廃墟で、国のナンバー2にスープの定期購入契約(サブスクリプション)を迫られるとは。
しかし。
(最高級の食材……いくらでも……?)
その言葉は、悪魔の囁きのように甘美だった。
市場では手に入らない希少な肉、新鮮な魚介、異国のスパイス。
それらが使い放題になる未来が、走馬灯のように脳内を駆け巡る。
ポタージュの口元が、自然と三日月形に歪んだ。
「……宰相閣下。その契約、詳細を詰めさせていただいても?」
「ああ、望むところだ」
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