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「きゃはははは! 愛しなさい! 私を、甘いものを、そしてこの狂った世界を!」
北の離宮に到着したシルヴィスとポタージュが目にしたのは、この世の終わり(あるいは始まり)のような光景だった。
店の周囲には、毒々しいピンク色の霧が立ち込めている。
その霧を吸い込んだ森の動物たちや、警備に残っていた数名の騎士たちが、虚ろな目でふらふらと踊っていた。
「あぁ……ミナ様……尊い……」
「甘い匂い……頭が溶ける……」
そして、その中心にある店の屋根の上。
ボロボロのドレスを纏い、髪を振り乱したミナ・シロップが、高笑いと共に謎の液体を噴霧していた。
彼女の手にあるのは、王宮の宝物庫から盗み出された禁忌のアーティファクト『愛の雫(アムール・ドロップ)』の瓶だ。
「遅かったわね、ポタージュ! それにシルヴィス様!」
ミナが二人を見下ろして叫ぶ。
その瞳は完全にイッてしまっている。
「もう手遅れよ! この『愛の雫』を気化させて森中にばら撒いたわ! この霧を吸った者は全員、理性を失い、最初に見た『甘いもの(私)』の虜になるの!」
「……なるほど。広範囲洗脳魔法か」
シルヴィスが口元を袖で覆いながら、冷静に分析する。
しかし、その額には脂汗が滲んでいた。
宰相である彼でさえ、強力な精神干渉には抗うのが精一杯らしい。
「シルヴィス様ぁ♡ こっちを向いて! 私の下僕にしてあげるから!」
ミナが瓶を振りかざす。
ピンク色の霧が、生き物のように二人へ襲いかかる。
「ちっ……氷壁(アイス・ウォール)!」
シルヴィスが氷の壁を作り出すが、気体である霧は隙間から入り込んでくる。
「無駄よ! 愛は障害があるほど燃え上がるの! さあ、深呼吸して!」
甘ったるい匂いが鼻を突く。
それは砂糖を焦がし、さらに腐らせたような、脳髄を痺れさせる悪臭だった。
ポタージュも袖で鼻を押さえる。
「……臭い。これは惚れ薬なんかじゃありません」
「なに?」
「成分を分析しましたが……これはただの『超濃縮幻覚性果糖シロップ』に、マタタビと媚薬草を混ぜただけの代物です。愛ではなく、脳を麻痺させているだけの中毒物質ですよ!」
ポタージュは冷徹に断言した。
料理人としての嗅覚が、その液体の正体(化学物質の混合物)を見抜いたのだ。
「うるさい! 効果があれば同じことよ! さあ、貴女もこの霧を吸って、私のマカロンの信者になりなさい!」
ミナが瓶を傾ける。
ドロリとした原液が、屋根からポタージュの頭上へと滴り落ちようとした。
「――ポタージュ!」
シルヴィスが庇おうとする。
だが、ポタージュは動じなかった。
彼女は背負っていたリュック(王宮の厨房から借りてきた食材入り)から、あるものを取り出した。
「中毒には解毒。甘ったるい夢には、目の覚めるような現実(刺激)が必要です!」
彼女が取り出したのは、巨大なガラス瓶。
中に入っているのは、黒く濁った液体だ。
「それは……?」
「私の秘蔵の調味料、『陳年黒酢(ちんねんくろず)』です! 熟成期間二十年、酸味とコクの最終兵器!」
ポタージュは瓶の蓋を開け、さらに別の袋から大量の『白胡椒』と『ラー油』を取り出した。
「閣下! 風魔法でこの周辺の空気をかき混ぜてください!」
「何をする気だ?」
「中和剤を散布します! 名付けて『覚醒の酸辣湯(サンラータン)・ミスト』!」
ポタージュは即席で調合した液体を、シルヴィスが作り出した竜巻の中へと放り込んだ。
ヒュゴオオオッ!!
風に乗って、黒酢の強烈な酸味と、ラー油の辛味、そして胡椒のスパイシーな香りが爆発的に拡散した。
「ぐふっ!?」
屋根の上のミナが咽(むせ)る。
ピンク色の甘い霧が、黒い刺激臭によって物理的に中和されていく。
「な、なによこれぇぇ! 目が痛い! 鼻が痛い!」
「酸辣湯の酸味は、甘み(アルカリ性の幻覚)を中和します。そしてカプサイシンと胡椒の刺激が、麻痺した脳神経を強制的に叩き起こすのです!」
「そ、そんな理屈が通ってたまるかぁぁっ!」
ミナが叫ぶが、効果は覿面(てきめん)だった。
周囲で踊っていた騎士や動物たちが、次々と「ハッ!?」と正気を取り戻し始めたのだ。
「うっ……俺は一体……?」
「なんか口の中が甘い……うぇっ、気持ち悪っ」
「なんか酸っぱい匂いがするぞ! ……目が覚めた!」
洗脳が解けた騎士たちが、屋根の上のミナを見上げる。
「あ、あれはミナ嬢!? なんであんなところに!」
「確保だ! あいつが元凶だ!」
「いやぁぁっ! 来ないでぇぇ! 私はヒロインなのよぉぉ!」
ミナはパニックになり、屋根の上で足を滑らせた。
「きゃあぁぁっ!」
落下。
手から離れた『愛の雫』の瓶が宙を舞う。
もしあれが地面で砕け散れば、高濃度の原液が飛散し、再び大惨事になりかねない。
「まずい!」
シルヴィスが動こうとする。
だが、それより速く、白い影が動いた。
ヒュンッ!
ポタージュだ。
彼女はエプロンを翻し、落下してくる瓶の軌道上に滑り込んだ。
そして、腰に差していた愛用のお玉を構える。
「させません!」
カァァンッ!!
美しい金属音が響いた。
ポタージュのお玉が、瓶の側面を正確に捉え、真上へと打ち上げたのだ。
ホームラン級の打球である。
「閣下! 今です! 空中で凍らせて!」
「任せろ!」
シルヴィスが指を弾く。
遥か上空へ飛んでいった瓶は、一瞬にして巨大な氷塊の中に閉じ込められた。
キラキラと輝きながら、氷漬けの瓶が森の奥深く(誰もいない場所)へと落ちていく。
「な、ナイス連携……」
地面に激突したミナ(騎士たちがクッションを用意したので無傷)が、呆然と呟いた。
彼女の切り札は、料理人の反射神経と、宰相の魔法によって完全に無力化されたのだ。
「……終わりですね、ミナ様」
ポタージュがお玉を回しながら近づく。
ミナは震えながら後ずさった。
「ど、どうして……どうして勝てないのよ! 私は可愛くて、甘くて、みんなに愛される存在のはずなのに!」
彼女は泣き崩れた。
それは悪役の断末魔というより、迷子の子供のような泣き声だった。
「どうして誰も、私だけを見てくれないのよぉ……!」
ポタージュはふぅ、と息を吐き、しゃがみ込んだ。
「……貴女のスイーツ、見た目は完璧でしたよ」
「え?」
ミナが顔を上げる。
「でも、甘すぎたんです。人間はね、甘いだけじゃ生きていけないんですよ。時には酸味も、苦味も、辛味も必要なんです。……それを『雑味』だと言って排除しようとしたのが、貴女の敗因です」
ポタージュは懐から、小さな包みを取り出した。
それは、店で出している『甘さ控えめのジンジャークッキー』だ。
「ほら。今はこれくらいの甘さが、ちょうどいいんじゃないですか?」
差し出されたクッキー。
ミナは恐る恐るそれを受け取り、小さく齧った。
「……っ」
生姜のピリッとした辛味。
その奥にある、ほのかな蜂蜜の甘さ。
決して派手ではないが、体に染み渡るような優しい味。
「……辛い。でも……美味しい……」
ミナの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
狂気じみたピンク色の光が、彼女の瞳から消えていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
彼女はクッキーを握りしめ、子供のように泣きじゃくった。
駆けつけたカレル王子(農作業着姿)が、そんな彼女をそっと抱きしめた。
「ミナ……帰ろう。僕たちの居場所は、もう王宮にはない。畑と土が待っている」
「うわぁぁぁん! カレル様ぁぁ!」
二人は騎士たちに連行されていった。
今度こそ、本当の意味での退場だ。
後ろ姿は泥だらけだったが、憑き物が落ちたように小さく見えた。
◇
「……ふぅ。やれやれ、今度こそ閉店ですね」
ポタージュは立ち上がり、腰を叩いた。
周囲には黒酢の酸っぱい匂いが充満しているが、毒々しい甘い匂いは完全に消え失せていた。
「見事だったぞ、ポタージュ」
シルヴィスが近づいてくる。
彼はポタージュの頭についた埃を払い、愛おしそうに微笑んだ。
「君の酸辣湯(サンラータン)攻撃、素晴らしかった。おかげで目が覚めた」
「それは良かったです。……でも、店の周りがお酢臭くなってしまいましたね。しばらくはお客様が寄り付かないかも」
「構わんさ。むしろ、好都合だ」
「へ?」
シルヴィスは突然、ポタージュの手を引いて自分の方へ引き寄せた。
距離がゼロになる。
「ポタージュ。邪魔者は消えた。王族のしがらみも、ライバルの店も、甘い霧も、全てなくなった」
「は、はい」
「……そろそろ、俺たちの話をしてもいい頃じゃないか?」
シルヴィスの青い瞳が、熱を帯びてポタージュを見つめる。
それはスープを見る目ではない。
紛れもなく、一人の女性を求める男の目だ。
「け、契約更新の話ですか? それなら、また新鮮な魚介を……」
「違う」
シルヴィスは彼女の言葉を遮り、そっとその唇に触れた。
「俺の人生の『メインディッシュ』になってくれ、と言っているんだ」
「……!」
直球すぎるプロポーズ。
酸辣湯の刺激よりも強烈な一撃に、ポタージュの思考回路はショート寸前になった。
「こ、答えは……スープが冷めないうちに聞きたいな」
珍しく照れたように言う宰相閣下。
ポタージュは真っ赤になりながら、小さく頷いた。
「……味見、してみますか?」
「喜んで」
二人の影が重なる。
酸っぱい匂いの残る店の前で交わされたキスは、どんな高級スイーツよりも甘く、そして温かかった。
こうして、北の離宮を巡る一連の騒動――通称『スープ戦争』は、ポタージュの完全勝利と、新たな愛の始まりをもって幕を閉じた。
北の離宮に到着したシルヴィスとポタージュが目にしたのは、この世の終わり(あるいは始まり)のような光景だった。
店の周囲には、毒々しいピンク色の霧が立ち込めている。
その霧を吸い込んだ森の動物たちや、警備に残っていた数名の騎士たちが、虚ろな目でふらふらと踊っていた。
「あぁ……ミナ様……尊い……」
「甘い匂い……頭が溶ける……」
そして、その中心にある店の屋根の上。
ボロボロのドレスを纏い、髪を振り乱したミナ・シロップが、高笑いと共に謎の液体を噴霧していた。
彼女の手にあるのは、王宮の宝物庫から盗み出された禁忌のアーティファクト『愛の雫(アムール・ドロップ)』の瓶だ。
「遅かったわね、ポタージュ! それにシルヴィス様!」
ミナが二人を見下ろして叫ぶ。
その瞳は完全にイッてしまっている。
「もう手遅れよ! この『愛の雫』を気化させて森中にばら撒いたわ! この霧を吸った者は全員、理性を失い、最初に見た『甘いもの(私)』の虜になるの!」
「……なるほど。広範囲洗脳魔法か」
シルヴィスが口元を袖で覆いながら、冷静に分析する。
しかし、その額には脂汗が滲んでいた。
宰相である彼でさえ、強力な精神干渉には抗うのが精一杯らしい。
「シルヴィス様ぁ♡ こっちを向いて! 私の下僕にしてあげるから!」
ミナが瓶を振りかざす。
ピンク色の霧が、生き物のように二人へ襲いかかる。
「ちっ……氷壁(アイス・ウォール)!」
シルヴィスが氷の壁を作り出すが、気体である霧は隙間から入り込んでくる。
「無駄よ! 愛は障害があるほど燃え上がるの! さあ、深呼吸して!」
甘ったるい匂いが鼻を突く。
それは砂糖を焦がし、さらに腐らせたような、脳髄を痺れさせる悪臭だった。
ポタージュも袖で鼻を押さえる。
「……臭い。これは惚れ薬なんかじゃありません」
「なに?」
「成分を分析しましたが……これはただの『超濃縮幻覚性果糖シロップ』に、マタタビと媚薬草を混ぜただけの代物です。愛ではなく、脳を麻痺させているだけの中毒物質ですよ!」
ポタージュは冷徹に断言した。
料理人としての嗅覚が、その液体の正体(化学物質の混合物)を見抜いたのだ。
「うるさい! 効果があれば同じことよ! さあ、貴女もこの霧を吸って、私のマカロンの信者になりなさい!」
ミナが瓶を傾ける。
ドロリとした原液が、屋根からポタージュの頭上へと滴り落ちようとした。
「――ポタージュ!」
シルヴィスが庇おうとする。
だが、ポタージュは動じなかった。
彼女は背負っていたリュック(王宮の厨房から借りてきた食材入り)から、あるものを取り出した。
「中毒には解毒。甘ったるい夢には、目の覚めるような現実(刺激)が必要です!」
彼女が取り出したのは、巨大なガラス瓶。
中に入っているのは、黒く濁った液体だ。
「それは……?」
「私の秘蔵の調味料、『陳年黒酢(ちんねんくろず)』です! 熟成期間二十年、酸味とコクの最終兵器!」
ポタージュは瓶の蓋を開け、さらに別の袋から大量の『白胡椒』と『ラー油』を取り出した。
「閣下! 風魔法でこの周辺の空気をかき混ぜてください!」
「何をする気だ?」
「中和剤を散布します! 名付けて『覚醒の酸辣湯(サンラータン)・ミスト』!」
ポタージュは即席で調合した液体を、シルヴィスが作り出した竜巻の中へと放り込んだ。
ヒュゴオオオッ!!
風に乗って、黒酢の強烈な酸味と、ラー油の辛味、そして胡椒のスパイシーな香りが爆発的に拡散した。
「ぐふっ!?」
屋根の上のミナが咽(むせ)る。
ピンク色の甘い霧が、黒い刺激臭によって物理的に中和されていく。
「な、なによこれぇぇ! 目が痛い! 鼻が痛い!」
「酸辣湯の酸味は、甘み(アルカリ性の幻覚)を中和します。そしてカプサイシンと胡椒の刺激が、麻痺した脳神経を強制的に叩き起こすのです!」
「そ、そんな理屈が通ってたまるかぁぁっ!」
ミナが叫ぶが、効果は覿面(てきめん)だった。
周囲で踊っていた騎士や動物たちが、次々と「ハッ!?」と正気を取り戻し始めたのだ。
「うっ……俺は一体……?」
「なんか口の中が甘い……うぇっ、気持ち悪っ」
「なんか酸っぱい匂いがするぞ! ……目が覚めた!」
洗脳が解けた騎士たちが、屋根の上のミナを見上げる。
「あ、あれはミナ嬢!? なんであんなところに!」
「確保だ! あいつが元凶だ!」
「いやぁぁっ! 来ないでぇぇ! 私はヒロインなのよぉぉ!」
ミナはパニックになり、屋根の上で足を滑らせた。
「きゃあぁぁっ!」
落下。
手から離れた『愛の雫』の瓶が宙を舞う。
もしあれが地面で砕け散れば、高濃度の原液が飛散し、再び大惨事になりかねない。
「まずい!」
シルヴィスが動こうとする。
だが、それより速く、白い影が動いた。
ヒュンッ!
ポタージュだ。
彼女はエプロンを翻し、落下してくる瓶の軌道上に滑り込んだ。
そして、腰に差していた愛用のお玉を構える。
「させません!」
カァァンッ!!
美しい金属音が響いた。
ポタージュのお玉が、瓶の側面を正確に捉え、真上へと打ち上げたのだ。
ホームラン級の打球である。
「閣下! 今です! 空中で凍らせて!」
「任せろ!」
シルヴィスが指を弾く。
遥か上空へ飛んでいった瓶は、一瞬にして巨大な氷塊の中に閉じ込められた。
キラキラと輝きながら、氷漬けの瓶が森の奥深く(誰もいない場所)へと落ちていく。
「な、ナイス連携……」
地面に激突したミナ(騎士たちがクッションを用意したので無傷)が、呆然と呟いた。
彼女の切り札は、料理人の反射神経と、宰相の魔法によって完全に無力化されたのだ。
「……終わりですね、ミナ様」
ポタージュがお玉を回しながら近づく。
ミナは震えながら後ずさった。
「ど、どうして……どうして勝てないのよ! 私は可愛くて、甘くて、みんなに愛される存在のはずなのに!」
彼女は泣き崩れた。
それは悪役の断末魔というより、迷子の子供のような泣き声だった。
「どうして誰も、私だけを見てくれないのよぉ……!」
ポタージュはふぅ、と息を吐き、しゃがみ込んだ。
「……貴女のスイーツ、見た目は完璧でしたよ」
「え?」
ミナが顔を上げる。
「でも、甘すぎたんです。人間はね、甘いだけじゃ生きていけないんですよ。時には酸味も、苦味も、辛味も必要なんです。……それを『雑味』だと言って排除しようとしたのが、貴女の敗因です」
ポタージュは懐から、小さな包みを取り出した。
それは、店で出している『甘さ控えめのジンジャークッキー』だ。
「ほら。今はこれくらいの甘さが、ちょうどいいんじゃないですか?」
差し出されたクッキー。
ミナは恐る恐るそれを受け取り、小さく齧った。
「……っ」
生姜のピリッとした辛味。
その奥にある、ほのかな蜂蜜の甘さ。
決して派手ではないが、体に染み渡るような優しい味。
「……辛い。でも……美味しい……」
ミナの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
狂気じみたピンク色の光が、彼女の瞳から消えていく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
彼女はクッキーを握りしめ、子供のように泣きじゃくった。
駆けつけたカレル王子(農作業着姿)が、そんな彼女をそっと抱きしめた。
「ミナ……帰ろう。僕たちの居場所は、もう王宮にはない。畑と土が待っている」
「うわぁぁぁん! カレル様ぁぁ!」
二人は騎士たちに連行されていった。
今度こそ、本当の意味での退場だ。
後ろ姿は泥だらけだったが、憑き物が落ちたように小さく見えた。
◇
「……ふぅ。やれやれ、今度こそ閉店ですね」
ポタージュは立ち上がり、腰を叩いた。
周囲には黒酢の酸っぱい匂いが充満しているが、毒々しい甘い匂いは完全に消え失せていた。
「見事だったぞ、ポタージュ」
シルヴィスが近づいてくる。
彼はポタージュの頭についた埃を払い、愛おしそうに微笑んだ。
「君の酸辣湯(サンラータン)攻撃、素晴らしかった。おかげで目が覚めた」
「それは良かったです。……でも、店の周りがお酢臭くなってしまいましたね。しばらくはお客様が寄り付かないかも」
「構わんさ。むしろ、好都合だ」
「へ?」
シルヴィスは突然、ポタージュの手を引いて自分の方へ引き寄せた。
距離がゼロになる。
「ポタージュ。邪魔者は消えた。王族のしがらみも、ライバルの店も、甘い霧も、全てなくなった」
「は、はい」
「……そろそろ、俺たちの話をしてもいい頃じゃないか?」
シルヴィスの青い瞳が、熱を帯びてポタージュを見つめる。
それはスープを見る目ではない。
紛れもなく、一人の女性を求める男の目だ。
「け、契約更新の話ですか? それなら、また新鮮な魚介を……」
「違う」
シルヴィスは彼女の言葉を遮り、そっとその唇に触れた。
「俺の人生の『メインディッシュ』になってくれ、と言っているんだ」
「……!」
直球すぎるプロポーズ。
酸辣湯の刺激よりも強烈な一撃に、ポタージュの思考回路はショート寸前になった。
「こ、答えは……スープが冷めないうちに聞きたいな」
珍しく照れたように言う宰相閣下。
ポタージュは真っ赤になりながら、小さく頷いた。
「……味見、してみますか?」
「喜んで」
二人の影が重なる。
酸っぱい匂いの残る店の前で交わされたキスは、どんな高級スイーツよりも甘く、そして温かかった。
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※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)