悪役令嬢は婚約破棄を祝いたい!

夏乃みのり

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「ひぃ……ひぃ……腰が、腰が砕けそうだ……」

北の離宮の裏手に広がる広大な農地。
かつては荒れ放題だったその土地は、今や綺麗に耕され、畝(うね)が整然と並んでいた。

その畑の真ん中で、泥だらけになって鍬(くわ)を振るう男が一人。
元・王太子のカレルである。

彼は粗末な麻の服を着て、麦わら帽子を被り、首にはタオルを巻いている。
王宮での煌びやかな衣装とは雲泥の差だが、不思議と以前よりも表情には生気があった(死にかけてはいるが)。

「カレル様ぁ……もう無理ですぅ……爪が、私の可愛いネイルが土で真っ黒に……」

隣の畝では、同じくもんぺ姿のミナ・シロップがへたり込んでいた。
彼女の手には雑草の束。
「甘いお菓子が食べたい」と泣き言を漏らしているが、その肌は砂糖断ちのおかげか、吹き出物が消えて健康的なピンク色に戻りつつある。

「頑張るんだミナ。今日のノルマである『大根の間引き』を終えないと、昼飯抜きにされるぞ」

カレルが震える声で励ます。
かつて国を動かそうとした(失敗した)二人は今、大根の成長に命を懸けていた。

「おい、そこ。手が止まっているぞ」

頭上から冷徹な声が降ってくる。
監視役の騎士が、木陰でリンゴをかじりながら睨みを利かせている。
グレン騎士団長の部下だ。

「ひぃっ! や、やります! 働きます!」

カレルは慌てて鍬を振り上げた。
王族としてのプライドは、すでに肥料と共に土に埋めた。
今の彼を突き動かしているのは、ただ一つ。

(腹が減った……猛烈に、腹が減った!)

労働の後の空腹。
それは、何もしなくても食事が出てきた王宮時代には決して味わえなかった、根源的な欲求だった。
そして、風に乗って漂ってくる「あの匂い」が、彼を狂わせていた。

   ◇

「いらっしゃいませ。あら、今日は泥んこのお客様はお断りですよ?」

昼時。
北の離宮の裏口(従業員用通用口)に現れたカレルとミナを、ポタージュは仁王立ちで出迎えた。

「た、頼むポタージュ! いや、農園主様! 昼飯を……何か食べるものをくれ!」

「お腹と背中がくっつきそうですぅ……」

二人はゾンビのように手を伸ばす。
ポタージュは鼻をつまむ仕草をした。

「臭いますね。汗と土の匂い。……頑張った証拠ですが、そのまま店内に入られると他のお客様のご迷惑になります」

「そ、外でいい! 地べたで食うから! あの店内で出している『ビーフシチュー』を一杯くれ!」

カレルが鼻をひくつかせた。
今日のメインは、赤ワインと香味野菜で牛スネ肉をトロトロに煮込んだビーフシチューだ。
芳醇な香りが換気扇から漏れ出し、農作業中の二人の胃袋を拷問にかけていたのだ。

しかし、ポタージュは冷ややかに首を横に振った。

「お断りします」

「なっ、なぜだ! 金なら払う! いや、労働で相殺してくれ!」

「あのシチューは、一日かけて仕込んだ特別な一皿です。その価値が分かり、かつマナーを守って優雅に食事を楽しめる『会員様』にしか提供しません」

ポタージュは一歩前に出た。

「貴方たちは今、何ですか? お客様ですか? いいえ、当農園の『見習い従業員』です」

「ぐっ……」

「従業員には従業員のまかないがあります。それに、今の貴方たちの胃袋に、いきなり濃厚なシチューを入れたら消化不良を起こしますよ」

ポタージュは背後にあったお盆を取り上げた。
そこに乗っていたのは、ビーフシチューではない。

巨大な『塩むすび』二つと、具沢山の『豚汁(とんじる)』、そして『キュウリの浅漬け』だった。

「はい、今日の給料(ランチ)です」

「こ、これだけ……?」

カレルが絶望的な声を出す。
王族の食卓に並ぶような華やかさは皆無だ。
茶色と白と緑。質素そのものだ。

「文句があるなら食べなくて結構です。廃棄しますか?」

「く、食う! 食います!」

カレルとミナは、慌ててお盆を受け取り、裏庭のベンチに座り込んだ。
背に腹は代えられない。
カレルは震える手で、握り拳ほどもある塩むすびを掴んだ。
まだ温かい。

ガブリ。

「……!」

カレルの目が丸くなった。
ただの米と塩だ。
具も入っていない。
なのに、なぜこんなに美味いんだ?

労働で汗をかき、塩分を失った体に、塩気が染み渡る。
米の一粒一粒が立っていて、噛めば噛むほど甘みが出てくる。

次は豚汁だ。
大根、人参、ゴボウ、里芋、そして豚肉。
不揃いに切られた野菜たちが、味噌のスープの中で踊っている。

ズズッ……。

「……あぁ」

ため息が漏れた。
五臓六腑に染み渡るとは、まさにこのこと。
根菜の滋味と豚肉の脂が溶け合い、疲労した筋肉を内側から修復していくようだ。

「うまい……うまいよぉ……」

隣では、ミナが泣きながらキュウリをかじっていた。
「マカロンより……ポリポリしてて……美味しいかも……」と、価値観の崩壊を起こしている。

カレルも無言で豚汁を啜った。
かつて「泥水」と呼んだ野菜の煮込み料理。
しかし今、泥にまみれて働いた自分が飲むこの汁は、どんな高級ワインよりも尊く感じられた。

「……悪くない食べっぷりだな」

頭上から声がした。
見上げると、テラス席からシルヴィスが見下ろしていた。
彼の手には赤ワインのグラス、そして目の前には、カレルが渇望した『ビーフシチュー』が置かれている。

「グ、グラッセ公爵……」

カレルが恨めしそうに見上げる。
シルヴィスは優雅に肉を口に運び、わざとらしいほどゆっくりと咀嚼した。

「ん……絶品だ。肉が舌の上で解ける。ポタージュの料理は今日も最高だな」

「くっ……見せつけか!」

「ああ、そうだ。見せつけだ」

シルヴィスはニヤリと笑った。
その顔は、性格の悪い子供のようだ。

「カレル。お前が捨てた女は、今や私の専属シェフであり、最愛の婚約者だ。そして、お前が『泥水』と呼んだスープは、今や予約三ヶ月待ちのプラチナ・チケットだ」

シルヴィスはグラスを掲げた。

「お前にはその豚汁がお似合いだ。……まあ、労働者には労働者に適した食事がある。ポタージュの選定に間違いはないがな」

「……分かってる! 分かってるよ!」

カレルは悔し紛れに塩むすびを頬張った。

「今はまだ、僕は泥だらけの農民だ。シチューを食う資格なんてない! ……だが!」

カレルは立ち上がり、口の周りに米粒をつけたまま叫んだ。

「いつか必ず! 私が育てた最高の大根で、ポタージュを唸らせてやる! そして堂々と正面玄関から入店し、一番高いスープを飲んでやるからな!」

それは、かつての傲慢な王子の宣言ではなかった。
一人の生産者としての、純粋な野望だった。

厨房の窓からその様子を見ていたポタージュは、くすりと笑った。

「あらあら。威勢だけはいいですね」

「……ふん。口だけなら誰でも言える」

シルヴィスがテラスから戻ってくる。
しかし、その表情はどこか満足げだった。

「だが、以前よりマシな顔つきになった。少なくとも、他人の成果(レシピ)を盗もうとしていた頃よりはな」

「そうですね。土は人間を育てると言いますし」

ポタージュは空になった鍋を洗い始めた。

「それで? 閣下。農民へのマウントは気が済みましたか?」

「ああ、スッキリした。……だが、一つ訂正がある」

「訂正?」

「さっきあいつに『最愛の婚約者』と言ったが……まだ正式な返事(プロポーズの受諾)を公表していなかったな」

シルヴィスがポタージュの背後に立つ。
その距離が、またゼロになる。

「ポタージュ。いつにする?」

「いつって……何がですか?」

「結婚式だ」

ポタージュの手が止まった。
皿がカチャンと音を立てる。

「……気が早いですね。まだ店も忙しいですし、カレル殿下たちの更生も途中ですし」

「待てない。俺は一日も早く、君を『グラッセ公爵夫人』として確定させたい。そうすれば、どこの馬の骨とも知れない貴族が君に言い寄ってくることもなくなる」

シルヴィスの独占欲は、日に日に増していた。
最近では、客がポタージュに「美味しかったです、結婚してください」と冗談を言うだけで、スプーンを曲げるほどの殺気を放っている。

「……分かりましたよ」

ポタージュは振り返り、困ったように、でも嬉しそうに微笑んだ。

「じゃあ、この店の『一周年記念パーティー』と合わせましょうか。それなら、お客様にもスープを振る舞えますし」

「……自分の結婚式までスープ中心か」

シルヴィスは呆れたが、すぐに愛おしそうに彼女の頬を撫でた。

「いいだろう。君らしい。……その代わり、ウェディングケーキの入刀はなしだ」

「えっ? どうしてです?」

「ケーキ入刀の代わりに、『ウェディング・コンソメの開封式』を行う。二人で鍋の蓋を開けるんだ」

「……ふふっ。何ですかそれ。変なの」

「変でいい。俺たちは『スープ婚』なのだから」

二人は笑い合った。
窓の外では、カレルとミナが「おかわりくださぁぁい!」と叫んでいる声が聞こえる。
平和だ。
泥臭く、騒がしく、そして何よりも美味しい日常が、ここにはあった。
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