旦那様は私の親友が好きなようです

葛葉

文字の大きさ
7 / 11



リリアンヌの新しい生活は、驚くほど目まぐるしく、そして充実したものだった。
カフェ・プランタンのオーナー兼パティシエであるエドワードは、初日の宣言通り、リリアンヌを容赦なくこき使った。しかし、それは彼女にとってこの上ない救いだった。

早朝から小麦粉にまみれ、バターの重みを腕に感じ、オーブンから漂う香ばしい匂いに包まれる。
「リリアンヌ、次はこっちのクリームを混ぜて!」「はい、エドワードさん!」
そんなやり取りの中で、彼女の心から少しずつ、あの冷え切った侯爵邸の記憶が追い出されていく。エドワードの店の二階にある小さな屋根裏部屋が、今の彼女の城だった。

---

一方その頃、グランベール侯爵邸は、建国以来最大のパニックに陥っていた。

「……いない。どこにも、どこにもいらっしゃらないんだ!」

家令の叫び声が響き渡る。
朝、リリアンヌが食堂を去った後、昼を過ぎても、夕刻になっても彼女は戻らなかった。それどころか、クローゼットからは最低限の荷物が消え、机の上にはあろうことか「離婚届」が置かれていたのだ。

使用人たちは青ざめ、ガタガタと震えながら廊下を右往左往していた。
彼らにとって、主人であるロベルトは「畏怖」そのものだ。冷徹で、感情を見せず、常に完璧を求める宰相。そして何より、彼が妻であるリリアンヌをどれほど異常なまでに——歪な形ではあっても——大事にしていたかを、側近たちは知っている。

「誰が……誰が王宮へ報告に行くんだ?」
「私はいやだ! 閣下に殺されてしまう!」
「だが、報告が遅れればそれこそ全員クビだぞ!」

結局、クジ引きで負けた若い従者が、死刑台に向かうような足取りで王宮へと走った。

---

王宮の宰相執務室。
そこには、隣国との会談を終え、さらなる政務に没頭するロベルトの姿があった。
従者が震える声で、「奥様がいなくなりました。離縁状を置いて……」と告げた瞬間。

パキン、と。
ロベルトが持っていた高級な万年筆が、指の力だけで真っ二つに折れた。

「……何と言った?」

低く、地を這うような声。周囲の空気が一瞬で凍りつき、従者は恐怖のあまりその場にへたり込んだ。
ロベルトは立ち上がり、まるで獣のような足取りで屋敷へ戻った。使用人たちは、主人が怒り狂い、自分たちを一人残らず問い詰め、屋敷を破壊するのではないかと覚悟して頭を下げた。

しかし、書斎に飛び込み、机の上に置かれた「離婚届」と、その横に添えられた短い手紙を読んだ瞬間。

ロベルトの動きが、ピタリと止まった。

『――あなたの愛する方と、どうぞお幸せに。』

その文字をなぞった指先が、目に見えて震えだす。
彼は激昂しなかった。怒鳴り散らしもしなかった。
ただ、その場に崩れ落ちるように椅子に深く沈み込み、顔を両手で覆ったのだ。

「……リリアンヌ……なぜだ……」

その隙間から漏れたのは、怒りではなく、震えるような「悲鳴」だった。

「私はただ、君を理解したかっただけなんだ……。君に嫌われないように、君が望むものを完璧に与えたかった。そのために、マリベルから君の好みを……君のすべてを聞き出していたというのに……!」

彼は知らなかった。自分がマリベルという「歪んだフィルター」を通せば通すほど、目の前の本物のリリアンヌから遠ざかっていたことに。
彼は、リリアンヌという名の「完璧な標本」を作ろうとして、中にある生きた心を殺していたことに、ようやく気づいたのだ。

「ああ、ああああ!! リリアンヌ!!」

夜の書斎に、男の情けない泣き声が響き渡る。
鉄の宰相と呼ばれた男は、今やただの、愛し方を間違えて愛する人を失った孤独な男に成り下がっていた。

一方、その頃。
リリアンヌはエドワードが焼いた試作のクッキーを頬張り、「少し焼きすぎじゃないかしら?」と笑い合っていた。
彼女の視界に、もう黒髪の夫の影は一分も残っていない。
感想 3

あなたにおすすめの小説

実兄の婚約者に恋した貴方を、私はもう愛さない。その椅子、行方不明のお兄様のものですよね?

恋せよ恋
恋愛
「ヘンリエッタ侯爵令嬢が可哀想だと思わないのか!」 海難事故で行方不明の兄の婚約者にうつつを抜かし、 私を放置した上に、怒鳴りつける婚約者シモン。 14歳から積み上げた3年間の信頼は、 ヘンリエッタ様の「嘘泣き」でゴミ箱に捨てられた。 いいですよ、どうぞお二人でお幸せに。 でも忘れないで。あなたが今守っているその席は、 「生きて帰ってきた」お兄様のものなんですよ。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

家出を決行した結果

恋愛
フィービーの婚約者ミゲルには大切な幼馴染がいる。病弱な幼馴染をいつも優先するミゲルや母が亡くなって以降溝が出来てしまった父と兄との関係にフィービーは疲れていた。 デートの約束をしてもいつも直前になって幼馴染を理由にキャンセルされ、幼馴染にしか感情を見せないミゲルを、フィービーを見ようとしない父や兄を捨てる決心をしたフィービーは侍女や執事の手を借りて家出を決行した。 自分を誰も知らない遠い場所へ行ったフィービーは、新しい人生の幕開けに期待に胸を躍らせた。 ※なろうさんにも公開しています。

貴方なんて大嫌い

ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い

『愛されぬ身代わり妻ですが、真実はもう、あの小箱の中に置いてきました』

まさき
恋愛
「サインはいただきました。あとは私が、この屋敷を出るだけです」 五年間の結婚生活。 イリス・フェルナが演じ続けたのは、婚約直前に出奔した異母姉・クローヴィアの「身代わり」という役だった。 辺境大公ヴァルクが愛していたのは、幼い頃に魔物の群れから自分を救ってくれた少女——それがクローヴィアだと信じていた彼は、顔の似た妹イリスを娶りながらも、一度たりとて彼女を「イリス」と呼ぶことはなかった。 冷淡な視線、クローヴィアと比べられる日々。 屋敷にはいまも姉の肖像画が飾られ、食卓には姉の好物が並んだ。 「君はどこまでいっても、クローヴィアにはなれない」 その言葉を最後に、イリスは静かに離縁状を書き、小さな箱をひとつ棚に残して、夜明け前に屋敷を去った。 翌朝、箱を開けたヴァルクが見つけたのは—— 幼い頃、命の恩人の少女に預けたはずの護符と、 少女の手で綴られた、あまりにも小さな真実の手記だった。 ――「雪の森で貴方を抱きしめていたのは、お姉様ではなく、私でした」 真実を知り、はじめて「イリス」という名を叫びながら彼女を追うヴァルク。 だが、すべてを置いて「自分」を取り戻したイリスは、もう二度と、誰かの身代わりとして微笑む妻には戻らない。 これは、名前を奪われた女が自由を掴み、愚かな夫が真実の愛を失うまでの——静かで鮮やかな再生の物語。

お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ

Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。 理由は決まって『従妹ライラ様との用事』 誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。 「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」 二人の想いは、重なり合えるのだろうか …… ※他のサイトにも公開しています。

「静かで、退屈な婚約者だった」と切り捨てられたので、最後くらい全部言って去ることにしました

桃我タロー
恋愛
「静かで、退屈な婚約者だった」 婚約破棄のその日、王太子は広間でそう言い捨てた。 三年間、失言を隠し、場を整え、黙って支えてきたのに。 どうやら私に必要だったのは婚約者ではなく、“便利な人”という役割だけだったらしい。 しかも隣には、つい三日前まで殿下の従兄に求婚していた令嬢まで立っていて――。 ならばもう、黙っている理由はない。 これは、最後まで笑って終わるつもりだった令嬢が、自分の声を取り戻す話。

公爵家の次女ですが、静かに学園生活を送るつもりでした

佐伯かなた
恋愛
王国でも屈指の名門、公爵アルヴィス家。 その家には、誰もが称賛する完璧な令嬢がいた。 長女ソフィア。 美貌、知性、礼儀、すべてを備えた理想の公爵令嬢。 そして──もう一人。 妹、レーネ・アルヴィス。 社交界ではほとんど名前も出ない、影の薄い次女。 姉ほど目立つわけでもなく、社交の中心にいるわけでもない。 だが彼女は知っている。 貴族社会では、 誰が本当に優れているのかは、静かな場面でこそ分かるということを。 王立学園に入学したレーネは、 礼儀作法、社交、そして人間関係の中で、静かに周囲を観察していく。 やがて── 軽んじていた者たちは気づく。 「公爵家の妹」が、本当はどんな令嬢だったのかを。 これは、 静かな公爵令嬢が学園と貴族社会で評価を覆していく物語。

【完結】あなたの隣に私は必要ですか?

らんか
恋愛
政略結婚にて、3年前より婚約し、学園卒業と共に嫁ぐ予定であったアリーシア。 しかし、諸事情により結婚式は延期され、次の結婚式の日取りさえなかなか決められない状況であった。 そんなアリーシアの婚約者ルートヴィッヒは、護衛対象である第三王女ミーアの傍を片時も離れようとしない。 月1回の婚約者同士のお茶会もすぐに切り上げてしまい、夜会へのエスコートすらしてもらった事がない。 そんな状況で、アリーシアは思う。 私はあなたの隣に必要でしょうか? あなたが求めているのは別の人ではないのでしょうかと。 * 短編です。 ご感想欄は都合により、閉じさせて頂きます。