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リリアンヌの新しい生活は、驚くほど目まぐるしく、そして充実したものだった。
カフェ・プランタンのオーナー兼パティシエであるエドワードは、初日の宣言通り、リリアンヌを容赦なくこき使った。しかし、それは彼女にとってこの上ない救いだった。
早朝から小麦粉にまみれ、バターの重みを腕に感じ、オーブンから漂う香ばしい匂いに包まれる。
「リリアンヌ、次はこっちのクリームを混ぜて!」「はい、エドワードさん!」
そんなやり取りの中で、彼女の心から少しずつ、あの冷え切った侯爵邸の記憶が追い出されていく。エドワードの店の二階にある小さな屋根裏部屋が、今の彼女の城だった。
---
一方その頃、グランベール侯爵邸は、建国以来最大のパニックに陥っていた。
「……いない。どこにも、どこにもいらっしゃらないんだ!」
家令の叫び声が響き渡る。
朝、リリアンヌが食堂を去った後、昼を過ぎても、夕刻になっても彼女は戻らなかった。それどころか、クローゼットからは最低限の荷物が消え、机の上にはあろうことか「離婚届」が置かれていたのだ。
使用人たちは青ざめ、ガタガタと震えながら廊下を右往左往していた。
彼らにとって、主人であるロベルトは「畏怖」そのものだ。冷徹で、感情を見せず、常に完璧を求める宰相。そして何より、彼が妻であるリリアンヌをどれほど異常なまでに——歪な形ではあっても——大事にしていたかを、側近たちは知っている。
「誰が……誰が王宮へ報告に行くんだ?」
「私はいやだ! 閣下に殺されてしまう!」
「だが、報告が遅れればそれこそ全員クビだぞ!」
結局、クジ引きで負けた若い従者が、死刑台に向かうような足取りで王宮へと走った。
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王宮の宰相執務室。
そこには、隣国との会談を終え、さらなる政務に没頭するロベルトの姿があった。
従者が震える声で、「奥様がいなくなりました。離縁状を置いて……」と告げた瞬間。
パキン、と。
ロベルトが持っていた高級な万年筆が、指の力だけで真っ二つに折れた。
「……何と言った?」
低く、地を這うような声。周囲の空気が一瞬で凍りつき、従者は恐怖のあまりその場にへたり込んだ。
ロベルトは立ち上がり、まるで獣のような足取りで屋敷へ戻った。使用人たちは、主人が怒り狂い、自分たちを一人残らず問い詰め、屋敷を破壊するのではないかと覚悟して頭を下げた。
しかし、書斎に飛び込み、机の上に置かれた「離婚届」と、その横に添えられた短い手紙を読んだ瞬間。
ロベルトの動きが、ピタリと止まった。
『――あなたの愛する方と、どうぞお幸せに。』
その文字をなぞった指先が、目に見えて震えだす。
彼は激昂しなかった。怒鳴り散らしもしなかった。
ただ、その場に崩れ落ちるように椅子に深く沈み込み、顔を両手で覆ったのだ。
「……リリアンヌ……なぜだ……」
その隙間から漏れたのは、怒りではなく、震えるような「悲鳴」だった。
「私はただ、君を理解したかっただけなんだ……。君に嫌われないように、君が望むものを完璧に与えたかった。そのために、マリベルから君の好みを……君のすべてを聞き出していたというのに……!」
彼は知らなかった。自分がマリベルという「歪んだフィルター」を通せば通すほど、目の前の本物のリリアンヌから遠ざかっていたことに。
彼は、リリアンヌという名の「完璧な標本」を作ろうとして、中にある生きた心を殺していたことに、ようやく気づいたのだ。
「ああ、ああああ!! リリアンヌ!!」
夜の書斎に、男の情けない泣き声が響き渡る。
鉄の宰相と呼ばれた男は、今やただの、愛し方を間違えて愛する人を失った孤独な男に成り下がっていた。
一方、その頃。
リリアンヌはエドワードが焼いた試作のクッキーを頬張り、「少し焼きすぎじゃないかしら?」と笑い合っていた。
彼女の視界に、もう黒髪の夫の影は一分も残っていない。
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