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背中を丸め、魂が抜けたような足取りで夜の闇に消えていくロベルト。かつての威厳はどこにもなく、その姿はただ、自らが築いた執着の牢獄に閉じ込められた哀れな男のものだった。
静まり返った厨房で、リリアンヌは深く、重い溜息をついた。張り詰めていた緊張が解け、膝ががくがくと震えだす。それを支えたのは、エドワードの逞しい腕だった。
「リリアンヌ。……もう、大丈夫だ」
エドワードは彼女を優しく抱き寄せ、その亜麻色の髪に顔を埋めた。リリアンヌは彼の胸の鼓動を感じながら、先ほど交わした甘美な熱の余韻と、直面した過去の残骸の狭間で揺れていた。
「リリアンヌ。ここを出よう」
不意に、エドワードが彼女の肩を掴み、真剣な眼差しで見つめてきた。その瞳には、一時の慰めではない、強い決意の光が宿っていた。
「隣国へ行くんだ。僕と一緒に。……実はね、あっちが僕の本当の故郷なんだ」
「えっ……? エドワードさん、隣国の方だったのですか?」
リリアンヌは驚きに目を丸くした。出会ってから今まで、彼の言葉には微塵の訛りもなく、この国の文化にも完璧に馴染んでいたからだ。エドワードは少し照れくさそうに、けれど自信に満ちた笑みを浮かべた。
「ああ、修行のためにこの国に来て、必死に馴染もうとしたからね。でも、本当は向こうに家族もいるし、戻れば僕を助けてくれる仲間もたくさんいるんだ。言葉なら僕が完璧に教えるよ。君の聡明さなら、馬車で移動している間に覚えてしまうさ」
「でも、このお店はどうするのですか? エドワードさんがこの国で、大切に守ってきた城でしょう?」
「ちょうど、新しい店を出したがっていた親友がいるんだ。彼なら、この店を大切に引き継いでくれる。……リリアンヌ、君にはこの国は狭すぎるし、何より過去が多すぎる」
エドワードの言葉は、リリアンヌの心の奥底を見透かしているようだった。
もしこのままこの国に留まれば、いずれ「失踪した侯爵夫人」の正体は露見するだろう。ロベルトが執念深く探しに来るかもしれないし、マリベルが復讐を企てる可能性もある。貴族社会の悪い噂は、毒のようにじわじわと彼女の新しい人生を侵食していくに違いない。
(エドワードさんの故郷……。誰も私を『侯爵夫人』として見ない場所……)
リリアンヌは、自分の手を見つめた。エドワードから教わったアイシングの技術と、彼からもらった熱い口づけの記憶。それだけがあれば、もう何もいらない。
「僕の国なら、誰も君を『リリアンヌ・ド・グランベール』とは呼ばない。ただの、お菓子作りが上手で、文字が綺麗な、僕の愛するリリアンヌとして生きていける。……僕が、君を一生守るよ」
エドワードは彼女の指先を取り、一節ずつに熱い口づけを落とした。先ほどの艶めかしい誘惑とは違う、確かな未来を誓う儀式のような接吻。
リリアンヌは、窓の外に広がる王都の夜景を見つめた。あの煌びやかな灯りのどこかに、自分を「人形」として扱ったロベルトの屋敷があり、自分を「鏡」として利用したマリベルの家がある。
(もう、十分だわ。私は今夜、ここで『侯爵夫人』としての私を捨てるの)
「……行きます。エドワードさん。あなたと一緒に、あなたの生まれた場所へ」
リリアンヌが頷くと、エドワードは弾かれたように彼女を抱き上げ、歓喜の声を上げた。
夜明けと共に、二人は最低限の荷物と、自由の象徴である貯金、そして未来への希望だけを抱えて、まだ眠る王都を後にした。
翌朝、もぬけの殻となった「カフェ・プランタン」の扉の前で、一通の店譲渡の書類と、ロベルトへの最後の手紙が風に揺れていた。
その筆跡は、かつてないほど自由で、美しかった。
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