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楽歩

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25.民が消えた side 国王

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 side 国王


 書簡に目を通し、私はそれを机に叩きつけた。弾けるような乾いた音が、静まり返った執務室に鋭く伸びる。

 こめかみが脈打つ。頭痛が波のように押し寄せ、視界がかすむ。

 ──あの愚か者め。

 心の中で叫んだ罵りが、胸の内で火花を散らす。

 腕輪をはめさせ、ただ一人の娘に視線を縛るという、たったそれだけのことができなかったのだ。


 王太子が捕虜など……。


 人質が増え、こちらの交渉の札はすべて水に沈んだ。どうして、こうも綻ぶ。



「陛下。文面には、何と?」

 宰相が問いかける。いつもの沈着な声音だが、瞳の奥には深い怯えがちらついている。


「王太子が捕らえられた。ルシアーナを害しようとした罪を理由に、私に交渉の場へ出てこいと。拒めば――独立を強行する、とある」

「……っ」

 宰相が息をのむ。静けさが室内を満たし、机に肘をつき、痛むこめかみを押さえる。



「どうすればよい、宰相」

 答えを探す時間が部屋をさらに暗くする。

 沈黙が長く、重く、部屋を覆った。やがて宰相は慎重に口を開く。



「王太子は、必ず取り戻さねばなりません。王家にとって、王子はお一人しかおられませんから」

 正論だ。もちろん取り戻したいと思っている。

 しかし、血の繋がり、それは王にとって最も残酷な鎖だ。国の存亡と秤にかけたとき、私は本当に冷徹でいられるだろうか。


「王妃は泣き伏している。部屋から出ようとせぬ」

 私は目を閉じる。王妃の涙を思えば、心が揺らぐ。だが、涙だけで国を守ることはできない。


「私は……王であらねばならぬのだ」

 小さく呟いたその言葉は、誰に向けたものか自分でもわからなかった。王としての私と、人としての私が交差する。


「……サラも、殿下を案じております」

 宰相の声に、私はわずかに顔を上げた。サラ。女神の使徒。それが、いまや唯一の光に見える。

 私は静かに決意を口にする。



「交渉の場には、サラを同行させよう」

「サラを……ですか?」

 驚きの色を浮かべる宰相を、私はまっすぐ見据えて頷いた。



「ああ。女神の使徒という名は、信仰の象徴だ。彼女なら、わずかでも我らの不利を覆せるかもしれぬ」

 宰相は深く頭を垂れた。


「わかりました。言い聞かせます」

 私は再び書簡に視線を落とした。


 そのとき、激しい叩きつけるような音が扉を揺らした。

 侍従が戸を押し開け、乱暴に入ってきた。額は汗で濡れ、息を整える暇もない様子で、私の前に跪く。顔は蒼ざめ、呼吸は浅く速い。手は震え、声は細い。



「大変です──」

 その一語で、部屋の空気が凍りつく。


「何事だ。騒がしいぞ」

 私は身を乗り出す。


「た、民が……消えました。」

 は?

「民が消えた、だと? どういうことか、詳しく言え」

 侍従の言葉は断片的で、だが、その一言だけで、私の世界がまた一つ崩れるのを感じた。

 侍従は肩を震わせ、絞り出すように続ける。


「そのままの意味です、陛下。王都の大半が、人が、いません。通りは閑散とし、広場は……まるで、空洞のようです」

 言葉が、部屋の空気を一段冷たくした。

 大半が消えた──そんな馬鹿な話があるか。

 城壁の出入口は監視され、封鎖も徹底している。民が勝手に流出する余地などない。


「なぜだ。国から出ないよう封じてあるはずだろう!」

 怒声が執務室の壁を揺らす。侍従は身を縮め、震える唇で続報を告げた。



 深夜、妙なざわめきに目を覚ました者が通りに出ると、列を成した影が進んでいたという。後を追った者は、広場の中央に“光る者”を見た。そこへ吸い込まれるように、人々がひとり、またひとりと消えていった──と。


「魔方陣──」

 宰相が低い声で呟く。

「間違いなく、ヴァルデニア国の仕業でしょう。民の大半などという規模……熟練した魔道士が多数いなければ成し得ぬ」


 冷静な分析が淡々と続く。


「つまり、民を誘拐したのか!」

 怒りと恐怖が混ざり、声が少し割れた。


「しかし……人質を増やしたつもりでしょうが、我が国にとっては逆に、交渉を有利に運ぶ材料ともなり得ます」

 宰相の声は冷徹で、しかしどこかで怒りを抑え込んでいる。私は深く息を吸い、決定を下した。



「交渉の場は我が国だ。あちらの国には行かん。向こうの手中で、我らの体面を踏みにじられてはならぬ。民を連れ去った国に出向くなど、危険が大きすぎる」


 宰相は、私の話を黙って聞き、やがて静かに頷いた。


「……お任せください、陛下。返事は私が整えます」

 
 私は書簡を握りしめた。紙がくしゃりと音を上げる。

 王として──次に放つ一手を、私は決して誤らぬ。





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