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26.久しぶりの声
「姉さん」
商会でルシアンと打ち合わせをしていると懐かしい声がした。振り向くと、そこには弟のフィリップが立っていた。襟元を緩め、いつものように少し眉をしかめている。
「まあ、フィリップ。久しぶりね。突然どうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ。姉さんはいつも事後報告なんだから……手紙、見たよ。離婚したんだって?」
真っ直ぐな瞳でこちらを見据えてくる。変わらないな、と少し笑ってしまう。弟は、学院を卒業後、アストラ法廷に就職し、いまや若手、書記官として期待されている存在だ。平民出の彼が書記官になるには相当な努力が必要だっただろうが、見事に成し遂げた。誇らしい弟だ。
「それに――爵位を継いだって、どういうこと? 書類で初めて知ったよ。まったく……って、あれ? もしかしてルシアン兄さん? なんでここに?」
驚きの目がルシアンに向く。
「おお、フィリップか。大きくなったな。実は今、ここで働いてるんだ」
ルシアンが穏やかに笑って答える。
「えっ、王立魔導技術院はどうしたの? 辞めたの? ……ちょっと、二人して僕の知らないところで」
フィリップはぷいと顔を背けた。その目はどこか拗ねていて、子供のころのままだ。
「はは、それはそうと急にどうした? まさか、クロエが爵位を継いだって聞いて駆けつけたのか? 自分も貴族の籍に入りたいとか?」
ルシアンがからかうように口を開く。
「ちょっ……冗談じゃないよ!」
フィリップが即座に否定する声は、少し上ずっていた。
「僕はずっと、学院の貴族連中がさ、パーティだ舞踏会だって浮かれて騒いでるのを、どこか他人事のように見てたんだ。正直、うんざりだったよ。社交とか言っても、虚勢と見栄と、取り繕った笑顔ばっかりで……そんなもの、あー無理無理」
彼の声には苦さが滲んでいた。
「こっちは毎日、必死に勉強して……父さんの治療のこともあったし、余裕なんかひとつもなかった。だから、平民の連中といるとほっとしたんだ。誰も僕に気を遣わないし、素のままでいられる。……それが、救いだった」
フィリップは息を継ぐことも忘れたように一気に言い切ると、ふっと肩の力を抜いて、視線を落とした。
「フィリップならそういうと思ったよ」
ルシアンが静かに笑った。声の端に、どこか懐かしさが滲んでいた。
「でも、姉さんが、まさか離婚してまで、まだ貴族でいるなんて思わなかったよ」
その言葉には戸惑いが混じっていた。
「僕が学院を出られたのも、父さんの薬代も、借金の返済も――全部、姉さんが背負ってくれた。あんな状況の中で、僕に何も言わずに……。父さんが亡くなって、もう二年だよ。姉さん、もう無理しないでよ」
「ありがとう、フィリップ」
私は彼の真っ直ぐな瞳を受け止めながら、穏やかに、けれどはっきりと告げた。
「でもね、私、どうしてもやりたいことがあるの。貴族の立場はそのための“道具”よ。爵位も身分も、ただの手段。必要がなくなれば、私は迷わず手放すわ。だから……心配しないで」
フィリップは言葉に詰まり、少しだけ眉をひそめたまま、黙り込んだ。やがて、小さくため息をつく。
「……姉さんって、本当にずるい。そんなふうに言われたら、何も言えなくなる」
ルシアンがくすくすと笑った。室内に、久しぶりに家族の匂いが戻ってきた気がした。ほんの少し、胸の奥が温かくなる。
「……あっ、そうだ」
フィリップがふと思い出したように声を上げる。
「僕、ここに来た目的、忘れるところだったよ」
「目的?」
首をかしげると、彼は真剣な面持ちで言った。
「偶然、不審な話を聞いたんだ。姉さんが不正に爵位を手に入れたって。証人もいて、訴えるつもりだって受付で女の人が言っていたんだ」
「……動き出したわね」
「え? 知ってたの?」
私は小さく頷いた。
「きっと、真っ赤なドレスを着た女の人だったでしょう?」
「……うん。姉さんのことを調査してるって言ってた。アルベルト様のサインがしてある訴状を提出していったよ。僕はもちろん信じてないけど」
「マリーね。予想通りだわ」
ルシアンが横から尋ねた。
「証拠って、何だ?」
「音声らしい。内容は聞いていないけど……その、姉さんとエレオノーラ様の会話が入っているって……。そのうち、姉さん、アストラ法廷に呼ばれるかもしれない」
「音声……。録音のできる魔道具……」
ルシアンは何やら考えているようだった。
「どうやって偽証したのかしら。でも、私が正式な手続きを踏んで爵位を得たことは、記録に残っているもの、大丈夫よ」
私はフィリップに向かって笑みを浮かべた。
「“私が病床のお義母様を脅して爵位を奪った”って筋書きでしょうね。――そのあたりが“最もらしい”話に仕立てやすいもの」
さて、どうしようかしら。
「……まずいよ、姉さん。放っておいていい話じゃない」
「まずいと言えば……あなた、これ、守秘義務違反じゃない? せっかく就職したのに」
「そんなこと言ってる場合? 僕、姉さんのことで黙ってなんかいられないよ」
「でも、もうやめてね。あなたを巻き込みたくないの」
「一人しかいない弟だろ?……せめて恩返しくらい、させてよ」
ルシアンが手を叩いて、楽しげに言った。
「麗しき兄弟愛はそのくらいにして――私から、一つだけ、いい話があるんだけど。きっと最悪の事態は防げるよ」
商会でルシアンと打ち合わせをしていると懐かしい声がした。振り向くと、そこには弟のフィリップが立っていた。襟元を緩め、いつものように少し眉をしかめている。
「まあ、フィリップ。久しぶりね。突然どうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ。姉さんはいつも事後報告なんだから……手紙、見たよ。離婚したんだって?」
真っ直ぐな瞳でこちらを見据えてくる。変わらないな、と少し笑ってしまう。弟は、学院を卒業後、アストラ法廷に就職し、いまや若手、書記官として期待されている存在だ。平民出の彼が書記官になるには相当な努力が必要だっただろうが、見事に成し遂げた。誇らしい弟だ。
「それに――爵位を継いだって、どういうこと? 書類で初めて知ったよ。まったく……って、あれ? もしかしてルシアン兄さん? なんでここに?」
驚きの目がルシアンに向く。
「おお、フィリップか。大きくなったな。実は今、ここで働いてるんだ」
ルシアンが穏やかに笑って答える。
「えっ、王立魔導技術院はどうしたの? 辞めたの? ……ちょっと、二人して僕の知らないところで」
フィリップはぷいと顔を背けた。その目はどこか拗ねていて、子供のころのままだ。
「はは、それはそうと急にどうした? まさか、クロエが爵位を継いだって聞いて駆けつけたのか? 自分も貴族の籍に入りたいとか?」
ルシアンがからかうように口を開く。
「ちょっ……冗談じゃないよ!」
フィリップが即座に否定する声は、少し上ずっていた。
「僕はずっと、学院の貴族連中がさ、パーティだ舞踏会だって浮かれて騒いでるのを、どこか他人事のように見てたんだ。正直、うんざりだったよ。社交とか言っても、虚勢と見栄と、取り繕った笑顔ばっかりで……そんなもの、あー無理無理」
彼の声には苦さが滲んでいた。
「こっちは毎日、必死に勉強して……父さんの治療のこともあったし、余裕なんかひとつもなかった。だから、平民の連中といるとほっとしたんだ。誰も僕に気を遣わないし、素のままでいられる。……それが、救いだった」
フィリップは息を継ぐことも忘れたように一気に言い切ると、ふっと肩の力を抜いて、視線を落とした。
「フィリップならそういうと思ったよ」
ルシアンが静かに笑った。声の端に、どこか懐かしさが滲んでいた。
「でも、姉さんが、まさか離婚してまで、まだ貴族でいるなんて思わなかったよ」
その言葉には戸惑いが混じっていた。
「僕が学院を出られたのも、父さんの薬代も、借金の返済も――全部、姉さんが背負ってくれた。あんな状況の中で、僕に何も言わずに……。父さんが亡くなって、もう二年だよ。姉さん、もう無理しないでよ」
「ありがとう、フィリップ」
私は彼の真っ直ぐな瞳を受け止めながら、穏やかに、けれどはっきりと告げた。
「でもね、私、どうしてもやりたいことがあるの。貴族の立場はそのための“道具”よ。爵位も身分も、ただの手段。必要がなくなれば、私は迷わず手放すわ。だから……心配しないで」
フィリップは言葉に詰まり、少しだけ眉をひそめたまま、黙り込んだ。やがて、小さくため息をつく。
「……姉さんって、本当にずるい。そんなふうに言われたら、何も言えなくなる」
ルシアンがくすくすと笑った。室内に、久しぶりに家族の匂いが戻ってきた気がした。ほんの少し、胸の奥が温かくなる。
「……あっ、そうだ」
フィリップがふと思い出したように声を上げる。
「僕、ここに来た目的、忘れるところだったよ」
「目的?」
首をかしげると、彼は真剣な面持ちで言った。
「偶然、不審な話を聞いたんだ。姉さんが不正に爵位を手に入れたって。証人もいて、訴えるつもりだって受付で女の人が言っていたんだ」
「……動き出したわね」
「え? 知ってたの?」
私は小さく頷いた。
「きっと、真っ赤なドレスを着た女の人だったでしょう?」
「……うん。姉さんのことを調査してるって言ってた。アルベルト様のサインがしてある訴状を提出していったよ。僕はもちろん信じてないけど」
「マリーね。予想通りだわ」
ルシアンが横から尋ねた。
「証拠って、何だ?」
「音声らしい。内容は聞いていないけど……その、姉さんとエレオノーラ様の会話が入っているって……。そのうち、姉さん、アストラ法廷に呼ばれるかもしれない」
「音声……。録音のできる魔道具……」
ルシアンは何やら考えているようだった。
「どうやって偽証したのかしら。でも、私が正式な手続きを踏んで爵位を得たことは、記録に残っているもの、大丈夫よ」
私はフィリップに向かって笑みを浮かべた。
「“私が病床のお義母様を脅して爵位を奪った”って筋書きでしょうね。――そのあたりが“最もらしい”話に仕立てやすいもの」
さて、どうしようかしら。
「……まずいよ、姉さん。放っておいていい話じゃない」
「まずいと言えば……あなた、これ、守秘義務違反じゃない? せっかく就職したのに」
「そんなこと言ってる場合? 僕、姉さんのことで黙ってなんかいられないよ」
「でも、もうやめてね。あなたを巻き込みたくないの」
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