32 / 39
32.鉄格子の男爵
アルベルト様に会うため、私は静かに面会室の扉を押し開けた。冷たい金属音が微かに響く。
鉄格子の向こうに座る男――それがかつてのアルベルト様だと、すぐには信じがたかった。かつては背筋を伸ばし、誇らしげに肩を張っていたその姿は、見る影もなく崩れていた。やつれ果て、虚ろな目でこちらを見つめる彼からは、気位の高さも、貴族としての矜持も感じられない。
「クロエ……はは、お揃いで何の用だ。まさか、私を笑いに来たのか?」
その声には、やせ我慢の笑みと、それを支えきれぬ疲労がにじんでいた。頬はこけ、目の下には深い影。牢で過ごした日々が、静かに、しかし着実に彼の誇りを蝕んでいたのだろう。
「偽証をお認めにならないと伺いました」
「当たり前だ!」
声だけは大きく張っていたが、それは空虚な反響に変わった。
「私は……本当に何も知らなかったんだ。何を認めろというんだ……!」
やはり、何も知らされていなかった。操られていたというわけね。
「魔道具を借りたのは、使用人だったそうですわ。アルベルト様は、証拠不十分で、間もなく釈放されるとか。おめでとうございます」
「使用人が……私を? 騙した……? なぜ……なんのために……?」
アルベルト様の口元が歪み、声が震えた。
「は、はは……釈放されたところで、どこへ行けというんだ。私には、もう……何も残っていない……」
すべてを失ったという顔。彼には、誇りが剥がれ落ちた後に残るものがなかったのだ。
――マリーはどうしたのかしら。
あの人も、あなたを見捨てたの?
「アルベルト様。今日お会いしたのは、きちんとあなたと――綺麗に縁を切るためです」
「……私とて、お前などともう関わりたくない」
私はそっと横に目を向けた。ルシアンがそこに立ち、黙って私にうなずいた。その静かな瞳に支えられ、私は次の言葉を告げる。
「では、爵位をあなたに譲ります」
「……今、なんと言った?」
瞬間、彼の目がぎらりと光った。餌の匂いを嗅ぎつけた獣のように、貪欲な光がその顔に戻る。
「爵位を、譲ると言ったのですわ」
「爵位……はっ! やはりお前には荷が重かったか。ふはは、愚か者め。最初から私に任せておけばよかったんだ。母上も、まったく無駄なことを……」
母ーー聞いた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。けれど、私は表情を変えない。
「これで、マリーに会いに行ける。ベルトラム男爵としてな!」
彼の目が、執着の色を帯びて輝いた。爵位――それだけが、たったひとつの、彼を形作る最後の鎧。
「では、グレゴリー」
「はい」
側に控えていたグレゴリーが静かに進み出て、書類の束を差し出した。アルベルト様はそれを受け取り、震える手でひとつずつ、確認していく。
「印章も……あるのだろうな?」
「ええ、こちらに」
私は小箱を開き、中に納めた家の印章を差し出す。それを見た彼の顔が、満足げに歪んだ。
「養子縁組解消の書類もございます。今、あなたは正式にベラトラム男爵となりました。どうぞ、当主としての最初の仕事としてサインをしてください」
「……ああ、もちろんだ。喜んでサインしよう。くくく……これでお前はただの平民だな。身の丈に合っているだろう。せいぜい、愚かしく、惨めに生きるがいい!」
彼は高笑いを浮かべながら、勝者のような顔で書類にサインをした。
けれど――私にはその姿が、哀れで、みすぼらしくしか映らなかった。
「……それでは、ベラトラム男爵様。失礼いたしますわ」
そう言って私は、深く一礼する。
ええ。間違いなく、あなたがベラトラム家最後の男爵。
その名とともに、ゆっくりと沈んでいく人。
そしてその名を手放し、愚かしく、惨めに未来へと歩き出す者。
扉が、重い音を立てて閉じる。
鉄格子の向こうから聞こえる笑い声は、やがて壁に吸い込まれるように消えていった。
私は、振り返らなかった。
*****
side アルベルト様
扉が閉まった。
鉄格子の向こう、あの女の姿が見えなくなった途端、何もかもが静まり返っていく。
「……ふっ、は、はは……ははははは!」
胸の奥がすうっと軽くなる。
あいつの顔を見た時は、どうしようもなく苛立った。あの、薄っぺらな言葉と哀れみの目。だが……終わったのだ。私は勝ったのだ。そうだろう?
「そうだ……これでいい、これでようやく私は……元に戻れる……! いや、元よりもっと上へ行ける……」
手の中の書類が、かさりと音を立てる。
折り目だらけの紙なのに、やけに重い。胸に押し当てると、ひどく安堵する。
爵位譲渡の書類……これがあればいい。
これさえあれば、私は――ベラトラム家の名を背負って、もう一度立ち上がれる!
「……マリー」
名前を口にしただけで、涙が出そうになる。
いや、泣くものか。私は、何も失ってなどいない。
全てを取り戻すのだから。
思い浮かぶのは、あの優しい微笑み。白い陶磁器のティーカップを持つ細い指先。
陽差しの下、レースのカーテン越しに揺れていた髪。
マリー……お前は私のものだ。誰よりも私を理解していた。
だから、また戻るんだ。
「今度こそ……迎えに行くよ。ベルトラム男爵として、お前を」
私はまだ、何も終わってなんかいない。いや、始まってすらいなかったんだ。
爵位、名誉、誇り……そうだ、私は貴族だ。お前にふさわしい男だ。
マリー、待っていてくれ。
お前が望んだ世界を、今度こそ私が用意してみせる。お前の笑顔の隣に、私は再び立つのだ。
……クロエ。賢く、誰からも頼りにされる女。だが、夫である私を貶め、辱めた張本人――けれどそれも、今日で終わりだ。
爵位は戻り、名も戻った。
あいつは平民に逆戻り。ふさわしい終わり方じゃないか。だから許してやろう。
「……マリー、もうすぐだ……もうすぐ、すべてが戻る……」
あなたにおすすめの小説
三年分の涙を飲み込んで離婚を決めた私に、今さら愛してると言わないでください
まさき
恋愛
「別れてください」
笑顔で、声を震わせずに、澄花はそう言った。
三年間、夫の隣に立ち続けた。残業続きの夫を待ち、不満を飲み込み、完璧な妻を演じた。幼なじみの麗奈が現れるまでは、それが愛だと信じていた。
嫉妬も、怒りも、とうに泣き尽くしていた。残ったのは、静かな決意だけだった。
離婚届を差し出した翌朝、夫・誠は初めて泣いた。
――遅すぎる。三年分、遅すぎる。
幼なじみに夫を奪われかけた妻が、すべてを手放す覚悟をしたとき、夫はようやく目を覚ます。泣き終わった女の強さと、取り戻せないものの重さを描く、夫婦の崩壊と再生の物語。
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。
【完結】王太子に婚約破棄され、父親に修道院行きを命じられた公爵令嬢、もふもふ聖獣に溺愛される〜王太子が謝罪したいと思ったときには手遅れでした
まほりろ
恋愛
【完結済み】
公爵令嬢のアリーゼ・バイスは一学年の終わりの進級パーティーで、六年間婚約していた王太子から婚約破棄される。
壇上に立つ王太子の腕の中には桃色の髪と瞳の|庇護《ひご》欲をそそる愛らしい少女、男爵令嬢のレニ・ミュルべがいた。
アリーゼは男爵令嬢をいじめた|冤罪《えんざい》を着せられ、男爵令嬢の取り巻きの令息たちにののしられ、卵やジュースを投げつけられ、屈辱を味わいながらパーティー会場をあとにした。
家に帰ったアリーゼは父親から、貴族社会に向いてないと言われ修道院行きを命じられる。
修道院には人懐っこい仔猫がいて……アリーゼは仔猫の愛らしさにメロメロになる。
しかし仔猫の正体は聖獣で……。
表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。
「Copyright(C)2021-九頭竜坂まほろん」
・ざまぁ有り(死ネタ有り)・ざまぁ回には「ざまぁ」と明記します。
・婚約破棄、アホ王子、モフモフ、猫耳、聖獣、溺愛。
2021/11/27HOTランキング3位、28日HOTランキング2位に入りました! 読んで下さった皆様、ありがとうございます!
誤字報告ありがとうございます! 大変助かっております!!
アルファポリスに先行投稿しています。他サイトにもアップしています。
王命により、婚約破棄されました。
緋田鞠
恋愛
魔王誕生に対抗するため、異界から聖女が召喚された。アストリッドは結婚を翌月に控えていたが、婚約者のオリヴェルが、聖女の指名により独身男性のみが所属する魔王討伐隊の一員に選ばれてしまった。その結果、王命によって二人の婚約が破棄される。運命として受け入れ、世界の安寧を祈るため、修道院に身を寄せて二年。久しぶりに再会したオリヴェルは、以前と変わらず、アストリッドに微笑みかけた。「私は、長年の約束を違えるつもりはないよ」。
「お前を愛する事はない」を信じたので
あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」
お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。
【完結】悪役令嬢はご病弱!溺愛されても断罪後は引き篭もりますわよ?
鏑木 うりこ
恋愛
アリシアは6歳でどハマりした乙女ゲームの悪役令嬢になったことに気がついた。
楽しみながらゆるっと断罪、ゆるっと領地で引き篭もりを目標に邁進するも一家揃って病弱設定だった。
皆、寝込んでるから入学式も来れなかったんだー納得!
ゲームの裏設定に一々納得しながら進んで行くも攻略対象者が仲間になりたそうにこちらを見ている……。
聖女はあちらでしてよ!皆様!
[完]本好き元地味令嬢〜婚約破棄に浮かれていたら王太子妃になりました〜
桐生桜月姫
恋愛
シャーロット侯爵令嬢は地味で大人しいが、勉強・魔法がパーフェクトでいつも1番、それが婚約破棄されるまでの彼女の周りからの評価だった。
だが、婚約破棄されて現れた本来の彼女は輝かんばかりの銀髪にアメジストの瞳を持つ超絶美人な行動過激派だった⁉︎
本が大好きな彼女は婚約破棄後に国立図書館の司書になるがそこで待っていたのは幼馴染である王太子からの溺愛⁉︎
〜これはシャーロットの婚約破棄から始まる波瀾万丈の人生を綴った物語である〜
夕方6時に毎日予約更新です。
1話あたり超短いです。
毎日ちょこちょこ読みたい人向けです。
【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った
五色ひわ
恋愛
辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。アメリアは真実を確かめるため、3年ぶりに王都へと旅立った。
※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話