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33.操り手の微笑み sideマリー
sideマリー
私はティーカップをそっと持ち上げた。淡い香りが鼻をくすぐるけれど、心はどこか遠くにあった。カップの中で揺れる紅茶の表面に映る自分の瞳は、澄んでいて、冷たい。
「……つまり、アルに爵位が戻ったということね」
窓辺に立つ父の背中は動かない。腕を組んだまま、外の庭を眺めている。まるで何かを睨んでいるように、じっと。
「クロエが自ら手放した、と。正式な報せが届いた」
クロエが、爵位を? 自ら? そんなはずがない。あの女が、ただ手放すとは思えない。間違いなく、裏がある。
だとしても――それは、私たちにとって都合のいい“事実”だった。
「愚かな女だな、自ら平民に戻るなど。しかし我々にとっては好都合だ。アルベルト・ベラトラムが爵位を持っている限り、交渉の幅も広がる」
父の声は冷静で、どこか愉快そうだった。私は微笑みを浮かべて頷く。
「ええ。彼を“飾り”としてうまく使えば、商会の影響力は保てる。……むしろ、さらに伸ばせるかもしれませんわ」
表の顔として、爵位持ちの夫。裏では、私が仕切る商会。完璧な構図だ。
「結婚については……私は反対しない。お前が割り切れるのなら、な」
私の笑みが、わずかに深まった。ティーカップを置いて、ゆっくりと背もたれに体を預ける。
「お父様、愚問ですわ」
私が注ぐのは愛ではない。必要な言葉と、必要な表情。それだけ。
確かにアルは一途に私を思ってくれていた。情もまったくないとは言わない。
一度は切り捨てた男だけれど、爵位を手に入れたことで再び縋ってくるのなら、受け入れてあげるわ。
「大丈夫ですわ。アルは“愛”に酔っている。爵位を取り戻し、私という“運命の女”に支えられていると信じ込んだら、操りやすいわ」
利用するだけの男に、余計な感情など要らない。
「よし。商会の信用に爵位を加えれば、貴族連中も無視できまい。やつの名前でいくつか融資を動かしてみよう」
そのとき、小さなノックの音が響いた。
「ベラトラム男爵がお見えです」
使用人の声に、私はすぐ姿勢を正す。父が一言、静かに命じた。
「通せ」
扉が開かれたとき、私は一瞬だけ目を細めた。
アルが、上等な礼服を纏い、以前より痩せた頬には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。自分がすべてを取り戻したと信じているような顔。
「マリーッ!」
遠くから駆ける足音が響いて、応接室の扉から駆けてくる。
「マリー! 会いに来たぞ!」
英雄気取りの声。その顔に浮かぶ高揚感が、滑稽にさえ見えた。
「アル……!」
私はすっと立ち上がり、優しい笑みを浮かべてみせた。父は何も言わず、静かに椅子に座り直し、私たちを観察している。
「私は……やっと解放された。すべてが元に戻った。爵位も、名誉も……そして君との未来も!」
「ちょうどあなたの話をしていたの」
「うむ。ベラトラム男爵殿、まずは爵位の奪還、おめでとう。君のような才ある者が、我が家の娘婿となるならば、これほど心強いことはない」
父の言葉に、アルはまるで祝福の鐘でも聞いたかのように、晴れやかな笑顔を見せた。
「マリー、レオン殿……本当にありがとうございます。私は、ベラトラム家にすべてを捧げるつもりです」
「ええ。私も力になるわ。ねえ、お父様?」
父は静かに笑って、グラスを持ち上げた。
「もちろんだ、男爵。君の理想を応援しよう。……君が“正しく”動く限りはな」
「……ありがたい」
アルの表情に、微かな違和感が灯ったのを、私は見逃さなかった。
けれど――彼はそれをすぐに押し殺した。
帰る場所も、逃げる余地も、彼にはもうない。だからこそ、今この瞬間、彼は私と父にに縋るしかない。
そして私はその手を取る。優しいふりをして。その奥で、静かに、冷たく笑いながら。
数日後――
新たな“ベラトラム男爵”を祝う会合が盛大に催された。
煌びやかなシャンデリアの下、グラスが鳴り、音楽が流れ、笑顔が咲く。招待客は、貴族、商人、果ては王都で噂好きな社交界の名士たちまで顔をそろえていた。
その中心にいるのは、私とアル。
私の腕に手を添えて立つアルは、少し緊張した面持ちで、それでも誇らしげだった。
「ご婚約もおめでとうございます、ベラトラム男爵。いやはや、美しいマリー嬢とは実に理想的なご縁で」
「はは、ありがとうございます」
笑顔を向けるアルに、私はそっと視線を落とす。
――称えられているのは、“ベラトラム”という名前。そして、祝福されているのは、“私の婚約者”という立場。誰も彼自身を見てなどいない。そのことに、彼はまだ気づいていないのか、それとも……気づかないふりをしているのか。
私と、父の商会がなければ、今この場で彼に言葉をかける者などいないだろう。彼の背後にある“価値”を見て、人は頭を下げる。
――けれど、それでいいの。
ふと、視界の端で、父が数人の貴族と肩を寄せ合って話しているのが見えた。彼らはシャンパン片手に、書類を交わしている。封蝋がある。印が押される。
――やはり、動き始めたのね。
私はすっとアルの腕を引いた。彼がその場へ行く前に。
「アル? こちらに、あなたとお話ししたいご婦人がいらしているの。お父様の旧知の方で……どうしても、と」
「……ああ。すまない、すぐに……」
その言葉に、私は微笑む。けれど、ほんの一瞬、彼の目が曇った。彼はすぐに表情を取り繕い、社交の渦へと戻っていった。
――お利口ね。気づかないふりが一番。
そして夜が更けていく中、私は一人、広間の高台から会場を見下ろした。客人たちは酒に酔い、音楽に身を委ね、明るく笑っていた。
私が求めていた“舞台”は、今ここにある。
けれど、その一方で――アルは、いつの間にか姿を消していた。誰も気づかないうちに、彼は庭園のベンチに腰を下ろしていた。私は、あえて行かなかった。遠くの彼の姿が、小さく揺れた。背を丸めて、首を垂れていた。本当に、必要とされているのか? そう言いたげな後ろ姿だった。
会場では、彼が気づかぬところで、“ベラトラム男爵”の名義で、新たな融資契約が次々と結ばれていた。
署名は済んでいる。
――その名を、誰が書いたか。それを、彼は知らない。
私はティーカップをそっと持ち上げた。淡い香りが鼻をくすぐるけれど、心はどこか遠くにあった。カップの中で揺れる紅茶の表面に映る自分の瞳は、澄んでいて、冷たい。
「……つまり、アルに爵位が戻ったということね」
窓辺に立つ父の背中は動かない。腕を組んだまま、外の庭を眺めている。まるで何かを睨んでいるように、じっと。
「クロエが自ら手放した、と。正式な報せが届いた」
クロエが、爵位を? 自ら? そんなはずがない。あの女が、ただ手放すとは思えない。間違いなく、裏がある。
だとしても――それは、私たちにとって都合のいい“事実”だった。
「愚かな女だな、自ら平民に戻るなど。しかし我々にとっては好都合だ。アルベルト・ベラトラムが爵位を持っている限り、交渉の幅も広がる」
父の声は冷静で、どこか愉快そうだった。私は微笑みを浮かべて頷く。
「ええ。彼を“飾り”としてうまく使えば、商会の影響力は保てる。……むしろ、さらに伸ばせるかもしれませんわ」
表の顔として、爵位持ちの夫。裏では、私が仕切る商会。完璧な構図だ。
「結婚については……私は反対しない。お前が割り切れるのなら、な」
私の笑みが、わずかに深まった。ティーカップを置いて、ゆっくりと背もたれに体を預ける。
「お父様、愚問ですわ」
私が注ぐのは愛ではない。必要な言葉と、必要な表情。それだけ。
確かにアルは一途に私を思ってくれていた。情もまったくないとは言わない。
一度は切り捨てた男だけれど、爵位を手に入れたことで再び縋ってくるのなら、受け入れてあげるわ。
「大丈夫ですわ。アルは“愛”に酔っている。爵位を取り戻し、私という“運命の女”に支えられていると信じ込んだら、操りやすいわ」
利用するだけの男に、余計な感情など要らない。
「よし。商会の信用に爵位を加えれば、貴族連中も無視できまい。やつの名前でいくつか融資を動かしてみよう」
そのとき、小さなノックの音が響いた。
「ベラトラム男爵がお見えです」
使用人の声に、私はすぐ姿勢を正す。父が一言、静かに命じた。
「通せ」
扉が開かれたとき、私は一瞬だけ目を細めた。
アルが、上等な礼服を纏い、以前より痩せた頬には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。自分がすべてを取り戻したと信じているような顔。
「マリーッ!」
遠くから駆ける足音が響いて、応接室の扉から駆けてくる。
「マリー! 会いに来たぞ!」
英雄気取りの声。その顔に浮かぶ高揚感が、滑稽にさえ見えた。
「アル……!」
私はすっと立ち上がり、優しい笑みを浮かべてみせた。父は何も言わず、静かに椅子に座り直し、私たちを観察している。
「私は……やっと解放された。すべてが元に戻った。爵位も、名誉も……そして君との未来も!」
「ちょうどあなたの話をしていたの」
「うむ。ベラトラム男爵殿、まずは爵位の奪還、おめでとう。君のような才ある者が、我が家の娘婿となるならば、これほど心強いことはない」
父の言葉に、アルはまるで祝福の鐘でも聞いたかのように、晴れやかな笑顔を見せた。
「マリー、レオン殿……本当にありがとうございます。私は、ベラトラム家にすべてを捧げるつもりです」
「ええ。私も力になるわ。ねえ、お父様?」
父は静かに笑って、グラスを持ち上げた。
「もちろんだ、男爵。君の理想を応援しよう。……君が“正しく”動く限りはな」
「……ありがたい」
アルの表情に、微かな違和感が灯ったのを、私は見逃さなかった。
けれど――彼はそれをすぐに押し殺した。
帰る場所も、逃げる余地も、彼にはもうない。だからこそ、今この瞬間、彼は私と父にに縋るしかない。
そして私はその手を取る。優しいふりをして。その奥で、静かに、冷たく笑いながら。
数日後――
新たな“ベラトラム男爵”を祝う会合が盛大に催された。
煌びやかなシャンデリアの下、グラスが鳴り、音楽が流れ、笑顔が咲く。招待客は、貴族、商人、果ては王都で噂好きな社交界の名士たちまで顔をそろえていた。
その中心にいるのは、私とアル。
私の腕に手を添えて立つアルは、少し緊張した面持ちで、それでも誇らしげだった。
「ご婚約もおめでとうございます、ベラトラム男爵。いやはや、美しいマリー嬢とは実に理想的なご縁で」
「はは、ありがとうございます」
笑顔を向けるアルに、私はそっと視線を落とす。
――称えられているのは、“ベラトラム”という名前。そして、祝福されているのは、“私の婚約者”という立場。誰も彼自身を見てなどいない。そのことに、彼はまだ気づいていないのか、それとも……気づかないふりをしているのか。
私と、父の商会がなければ、今この場で彼に言葉をかける者などいないだろう。彼の背後にある“価値”を見て、人は頭を下げる。
――けれど、それでいいの。
ふと、視界の端で、父が数人の貴族と肩を寄せ合って話しているのが見えた。彼らはシャンパン片手に、書類を交わしている。封蝋がある。印が押される。
――やはり、動き始めたのね。
私はすっとアルの腕を引いた。彼がその場へ行く前に。
「アル? こちらに、あなたとお話ししたいご婦人がいらしているの。お父様の旧知の方で……どうしても、と」
「……ああ。すまない、すぐに……」
その言葉に、私は微笑む。けれど、ほんの一瞬、彼の目が曇った。彼はすぐに表情を取り繕い、社交の渦へと戻っていった。
――お利口ね。気づかないふりが一番。
そして夜が更けていく中、私は一人、広間の高台から会場を見下ろした。客人たちは酒に酔い、音楽に身を委ね、明るく笑っていた。
私が求めていた“舞台”は、今ここにある。
けれど、その一方で――アルは、いつの間にか姿を消していた。誰も気づかないうちに、彼は庭園のベンチに腰を下ろしていた。私は、あえて行かなかった。遠くの彼の姿が、小さく揺れた。背を丸めて、首を垂れていた。本当に、必要とされているのか? そう言いたげな後ろ姿だった。
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