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狸、山を降りて狗に往き逢う事
第八話 特殊清掃M家
しおりを挟むアコさんの言いつけで、私はその家を訪れていた。木造の平屋建ての家。庭は綺麗に手入れされて、玄関も綺麗。まだ見られるというか、木造平屋建てのすさまじさがない。
「ごめんくださーい」
私は言いながら、ピンポンを押した。音は鳴らない。だから、直接ガラス戸を叩いた。耳障りな音が響く。ジワジワ、ジージーとセミの鳴き声がうるさい。何でこんな住宅地の一角に、こんなにセミがいるんだよ。うるさいなあ。
「ごめんくださあああい」
ばんばんばん。私は抱えたゼリーの袋を持って、扉を叩く。しばらくして、ようやく建物の主は出てきた。
「あっ、ごめんなさい。寝ていて気付かなかったわ。あなた、誰?」
40~50代のおばさんだった。人のよさそうな顔で、ジャージみたいな恰好をしている。暑くないのかなあ、と思いながら、私は名乗る。
「私、隠善陽菜乃って言います。このおうちの大家さん?所有者の人から、ミチダさんが暑いから心配だって言われて見にきました。熱中症になってるんじゃないか、って」
おばさん、ことミチダさんは困ったような顔で首を傾げたけど、私がじいっと不安げに顔を見上げると相好を崩して私を中に招き入れてくれた。
「まあまあ、そりゃありがとう。私はまだまだ大丈夫だよ、熱中症って確かに危ないけど、ここは涼しくて過ごしやすいから」
「はあ、そうですねえ」
私は靴を脱いで、持ってきたスリッパに履き替えてミチダさんについていく。ミチダさんは私をリビングらしい場所に通した。いかにも古い家、って感じ。すりガラスの向こうは陽炎が揺らめくくらいの暑さ。でもこの部屋はひんやり涼しい。クーラー動いてるのかな。ミチダさんはテレビをつけて、適当なバラエティー番組に合わせた。こんなものでいいかしら、とミチダさんはちゃぶ台の前の座布団に座る。私も腰を浮かせながら座った。
「ごめんねえ、出せるものがこっちにはなくって……貧乏だから、本当にごめんなさい」
「出せるものがない、ってお茶とかもないってことですか?本当にお水とか飲み物大丈夫なんですか?この部屋は涼しいですけど、心配ですよ。熱中症」
「大丈夫よ。私は大丈夫なの。ここが涼しいし、水道水で十分だから」
「そうですか」
私は答えて、抱えていたゼリーを何個も何個も机の上に載せていく。ミチダさんは困ったような顔で私の顔を見た。
「こんなものいいのに……物件管理者の方から?」
「はい。これも喉を潤すんじゃないか、って。ついでに、おなかにも溜まりますし。今食べますか?スプーンありますよ」
私はにっこり笑って、ミチダさんにぶどうのゼリーとプラスチックのスプーンを渡す。ミチダさんはそれを受け取って、おぼつかない手元でゼリーを開けてぺろりと食べてしまった。なんだ、やっぱりのど乾いてるしお腹も減ってるんじゃん。
「ああ、おいしい。正直ねえ、私今仕事がなくって。一日の食事もやっとなのよ。歳をとると食が細くて食べない日なんかもあってね。お金の方もね、仕事、この年だと切られちゃうとね……」
「近所のスーパー、レジ係募集してましたよ」
「私は身なりがよくないし、書類選考で落とされちゃったわよ」
「ハローワークには高齢者の方の相談窓口もあるらしいですよ」
「ハローワークは遠いのよ。春や秋ならまだ歩いて行けるんだけど、夏はねえ……」
「生活保護とかはお考えにならなかったんですか?」
「窓口で『ご家族を頼ってください』って言われちゃった。」
「ご家族は?」
「完全に無視されてるわ。音信不通よ」
「……四面楚歌ですね……」
「ごめんなさい、私学がないから、難しい言葉がわからないの。もう、ほんの少しの年金頼りよ」
「追い詰められちゃいましたね、ってことです」
ミチダさんは話しながら、ゼリーを次々と食べている。空っぽのゼリーの器がちゃぶ台の上にずらっと並んだ。私はリュックの中からお茶を2本出して、1本をミチダさんに渡した。
「これもあげます。本当に、熱中症にお気をつけて」
「あらあ、ありがとう。正直、お茶も飲んでみたかったのよ。しばらくぶりだわ、水以外を飲むのは」
「本当は経口補水液とかアクエリアスとかポカリあげたかったんですけど、なんかお茶の気分で」
「ありがとうねえ。私もお茶好きだからこれがいいわ。でも本当にごめんなさいね、こんなに大切にしてもらったのに、私は何もお返しできないの。お金がなくって……」
「いいんですよ。私、見回りボランティアみたいなものだし、勝手にやってるだけですから」
そう言って、私は帰り支度を始めた。ゼリーのごみを片付けて、立ち上がって玄関に向かう。その後をミチダさんがついてくる。
「あら、もう帰るの。寂しいわ。学生さんだから忙しいのかしら」
「また来ますよ。明日も来ます。ミチダさんがいる限り来ますよ」
「嬉しい、嬉しいわ。私を探してくれる人なんていなかったのに」
「どういたしまして。それじゃ、失礼しました」
私はスリッパから靴に履き替えて、その家を出て行った。
次の日も、私はミチダさんの家に行った。相変わらず庭はキレイ。よく見ると、昨日にはなかったのか、気づかなかったのか、ゴーヤーのカーテンができている。いっぱしの庭だ。ゴーヤーを食べて生活できるな、と思う。私はもう戸を叩くのも面倒になって、ミチダさんの玄関の戸を直接開けた。
「ミチダさーん、大丈夫ですか?生きてますか?」
「あらあ、生きてるわよ。ありがとうね、ひなちゃん。学校のボランティアかしら、いつも丁寧にありがとう」
「いいんですよ。学校てか私の趣味のボランティアですし。ほら、今日も持ってきました。今日は昨日よりしっかりと、おにぎりです」
スリッパに履き替え、私はミチダさんにおにぎりを渡した。適当にコンビニでチョイスしたおにぎり。そして、また適当に選んだ水2本。1本をミチダさんに渡す。
「ありがとうねえ、本当にありがとう」
ミチダさんはあっという間におにぎりと水を平らげた。昨日と同じジャージを着ていたけど、嫌な臭いはしなかった。相変わらず部屋の中は涼しくて、テレビはバラエティー番組を垂れ流しにしている。私とミチダさんは、ぼーっとして窓の外を眺めていた。今日も干上がりそうな暑さと眩しさ。
「ゴーヤーのカーテン始めたんですか?」
「そうなのよ。涼しくなるからって。市役所とかで言われてるから」
「いいですね。趣味と実益を兼ねて。綺麗です」
「朝顔と迷ったんだけどねえ、朝顔じゃ陰にならないから」
「そうですね、朝顔はそんなに大きくならないですもんね」
「ゴーヤーも何かに使えたらいいんだけど」
「お料理とかされないんですか?」
「ううん、私お料理できないのよ。ゴーヤーなんて料理したことないわ」
「もったいないなあ。私少し貰っていいですか」
「いいわよぉ。あのままつるしてても腐るだけだから、好きなだけ持って帰って」
「いいんですか?」
「いいのよ。お水とおにぎりのお礼」
私は外に出て、ゴーヤーを数個収穫した。ビニール袋に入れる。ゴーヤーのいくつかは熟れ切って地面に落ち、黄色くなって赤い種を飛ばしていた。
「ちょっとだけもらいましたね。家で料理しようと思います」
「よかったわ、貰ってくれる人がいて。ひなちゃんなら美味しい料理を作るんでしょうね」
「わかんないですよ。私、ゴーヤー作ったことないですから、クックパッド見ながら適当に作ってみます。失敗したらした時です」
「く……?何かしら」
「クックパッドっていって、色んな料理の作り方を日本中の人が載せてるんですよ。創作料理から、定番から……」
「あらあ、それは便利ねえ。私達の頃とは違うわ。私の頃は本だったのよ」
「今でも本はありますよ」
うふふ、と2人で笑った。
「ところで、ミチダさんはお仕事とかどうですか、何か進展ありました?」
「だめよ、全然見つからないわ。私の歳じゃ、なかなか学がないと引っかからないみたい。ハローワークに行って同い年くらいの人の様子を見てみたけど、保母さんとか、看護婦さんとか、パソコンの資格がある人じゃないとなかなかダメみたい。私の歳じゃね」
「不公平ですね、男の人ならタクシーとか建築とかいろいろあるのに。あ、でもタクシーも建築も資格がある程度いるんだった。女の人でも、若い人なら最近だとタクシーやってる人もいるんですよ。増えてるくらい」
「ええ!?若い女の子がタクシー!?危ないんじゃないかしら!変な酔っ払いとか、泥棒が乗ってきたら逃げ場がないわ!」
「私もそう思ったんですけど、最近はタクシーもすごいらしいですよ?監視カメラもあるし、助けてほしかったら押すボタンがあったり、守るための板があったりして。男の人も、そうやって身を守ってるんですって。危ない世の中ですから」
「そうねえ、本当に、男も女も危ない世の中よねえ」
「そうですよお、だからミチダさんも気を付けてくださいね。いつもみたいに玄関、開けっ放しにしてるの危ないですよ」
「大丈夫よ、私は大丈夫。こんな奥まった小さな家に押し入って来るようなバカな泥棒はいないわよ。ちょっと寂しいくらい」
「やめてくださいよ。私がこうして遊びに来ますから、寂しいとか言わないで」
「また来てくれるかしら?私、ひなちゃんが来てくれるのが生き甲斐」
「また来ますよ」
そう言って、私はスリッパを履き替えてその日も出て行った。腕から下げているビニール袋はゴーヤーでいっぱいになっている。
「明日も来ますからねえ」
「ええ、ええ、待ってるわね、ひなちゃん。いつでもおいで」
そう言って、私はその家を出た。ゴーヤーカーテンは風になびいている。活気にあふれた綺麗な庭。明るい平屋。明るいミチダさん。ジャージのミチダさん。
私はそのまま、迷路のような住宅街を歩いて抜けた。開けた県道沿いに出る。腕にかけているビニール袋を見る
。
その中には、ゴーヤーの枯葉以外何も入っていない。潮時かな、と思った。
まだ4月末の春先の風が、私の髪を掬っていった。
私はその日、人を連れて行った。ミチダさんのおうちに、他人を連れて行った。
「ミチダさん。私ですよぅ。来ましたよぅ」
ばんばん、とガラス戸を叩く。開けようとしても、ガラス戸は立て付けが悪くなったように開かない。
「ひな、力づくでやると壊れるよ。ほら、ちゃんと所有者の人に借りたから」
その人は、私の前で古い鍵をかざしてみせた。そしてその鍵でガラス戸を開ける。嫌な軋むような音がして、ガラス戸がスライドする。その人は物件を壊さないように、丁寧に扉を開けた。そしてその人も私も、それぞれスリッパを出して履いた。床は埃だらけで、というか埃どころか何のゴミかもわからないような塵芥が床を汚していた。
「ミチダさん、来ましたよう。今日は、ジュースとパンを持ってきましたよう」
「ひなちゃん、その子はだあれ?」
「私のお友達です。大丈夫ですよ、悪いことはしませんから」
「そうかしら、私には悪い人に見えるわ。何だか怖いもの」
「大丈夫ですよ。優しい人です。ミチダさんのお話聞きに来ただけですからねえ」
「本当にそうかしら。私の家にひなちゃん以外の人が来るなんて、何だかこわくって……」
「まあまあ、パンとジュースで落ち着きましょ。アンパンでいいですか?ジュースはりんごしかなかったです。ごめんなさい」
「いいのよ。食べて飲めるだけで私は十分だから」
ミチダさんはおそるおそる、私の隣に座った。埃っぽい、というか埃だらけの蒸すような暑さの室内、壊れたテレビ。ジャージ姿のミチダさん。今は部屋全体から、饐えたような埃臭いにおいがする。私は吐き気を堪えながら、クリームパンとジュースを飲み食いした。ミチダさんもあんぱんとジュースを飲み食いした。
「あの、そちらのお友達の方は何も食べないのかしら……私とひなちゃんのものはあったけど、そちらの方は……」
「それには及びませんよ」
私の正面に座ったアコさんが、静かに言った。
「あなたは残ってしまいましたね。なかなか離れてくれないと、この空き家の所有者の方からご連絡を受けました。お祓いをしても、誰かが住んでいる音がするから引っ越しや清掃が進まない……それもこれも、ミチダさん、あなたが……行旅死亡人、行き倒れ、ホームレスのあなたがこの空き家で亡くなったからなんですよ。亡くなって尚、居ついて」
「何を言ってるの、私はこの家に住んでるのよ、こうして独り暮らし——」
「この家は2年前から空き家だったんですよ。所有者の方がずっと怠慢で放置していましてね。この度リフォームして再び借家にしようとしたそうですが、そりゃあ驚いたでしょうね。放っていた2年間に老女が入りこんで死んでいたなんて」
「違うの、私は、私は、ちょっと寒かったから入っただけで、すぐ出て行くつもりで」
「つもり、が長引いて、居ついてしまった。自分以外の家に。空き家なんてわからなかったでしょう。あなたも命からがらだったから。死んだことにも気が付かなかったでしょう。けれど、残忍に時は過ぎるしあなたの命は尽き、所有者の方にはこうして『特殊清掃』を頼まれる」
ミチダさんが悲しそうに私を見ている。私はゆっくりと頷いた。
「ミチダさん、こわくないよ」
「ごめんなさいね、ミチダさん。あなたの魂、いただきます」
うううああああああああああおおおおおおおおおおおお!
アコさんはミチダさんの上にのしかかって、犬の頭になってミチダさんの体を食べた。べちゃべちゃと、あちこちに、もう埃だらけの廃墟になった空き家にミチダさんの血が飛び散る。悪霊でも、悪い人でもなかったんだけど、いうなれば可哀想な独居老人だったんだけど。管理人さんが、またここを借家にするなんて言ったから。冬から春にかけて倒れていたミチダさんが、どろどろに崩れて溶けていたから、「告知義務」が生じた。だから、「私とアコさんは今日、住んだ」。
きっと、ミチダさん本人の思い込みを解くには、こうするしかなかったんだよね。痛いかもしれないけど一瞬だから。だからごめんね、ミチダさん。
「ごちそうさまでした」
「ごめんね、ミチダさん」
アコさんと私のひとことは、一緒に重なった。埃だらけ、蜘蛛の巣だらけの空き家に、私達は座っていた。ミチダさんのいたところには、特殊清掃業者がどんなに奮闘しても消えなかっただろう『人型の染み』が残っていた。庭はただ明るいだけ、綺麗な花もゴーヤーのカーテンも無い。ただ、乾いた何かの植物が揺れていた。
「ひな、あんたは優しいね。あんな行き倒れの幽霊にも、気長に接することができるなんて。仏様みたいだ」
アコさんが私を見下ろす目は優しくて、少し潤んでて、穏やかだった。急に私は寂しくなって、悲しくなって、アコさんの腕にしがみついた。
「なぁに、なんだよ、急に。ホントは私のこと怖がってるくせに」
「怖くないもん、アコさんは良い犬だもん」
寂しさを紛らわすように2人でげらげら笑いながら歩いていると、アパートの前ではた、とアコさんが急に足を止めた。いきなり止まるもんだから、私がつんのめりそうになる。アコさんを見上げると、呆然としたような、驚いたような顔でじっと前を凝視していた。私もアパートの方を見る。
アパートの階段に、真っ白な猫が座っていた。
犬のお座りみたいに座って、じっとこちらを見下ろしている。綺麗な猫だけど、ちょっとぞくっとする。猫は柔らかい動きですすっと階段を駆け下りてきて、
「うみゃあああ」
と甘えるように鳴いて「にゃ、にゃ」と短く鳴きながら器用にアコさんの素足にすりぃっ、すりぃっ、とすり寄って逃げて行った。終始、しっぽをぴんと立てて震わせていた。
「アコさん、あの猫に好かれてるんだね。犬なのに猫に好かれてるなんて変なの」
「ああ、変だよ」
アコさんはまだ驚いたような顔をして、自分の足元を見ていた。猫が擦っていった素足を見ながら。
「猫何て大体、私のことを嫌う。いつも喧嘩にしかならない。あいつらには私のこと
は犬に見えるから……けど、あの猫は違った」
心底薄気味悪そうに、アコさんは足を上げて素足を撫でた。あの感触を、上書きするように。
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