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離婚の決意
しおりを挟む*有紀*
谷さんの病状は、看護師長から聞いたところでは、特に麻痺も記憶障害もなく、思いのほか軽傷ですんだとのことだった。
搬送時の所見では、かなりの重症と心配されていただけに、ほっと胸をなでおろす。
麗奈さんと顔をあわせるのが怖くて、お見舞いにも中々いけなかったけれど、どんなに責められようと、いつまでも逃げているわけにはいかない。
谷さんは事故のことを覚えているだろうか。
飛び出してきた猫に驚いて、ハンドルを離してしまった私のことを、怒っているだろうか。
脳外科病棟の奥にある特別室の前。
動悸が激しくなり、釘を飲み込んだように胃がキリキリと痛んだ。
深呼吸をひとつして、スライドドアをノックする。
「はい」と言う、若い女性の声が聞こえた。
麗奈さんに違いない。
急に怖気づき、このまま引き返したくなる。
逃げちゃダメ!
勇気を振り絞って、ドアをスルスルと開けた。
仕切られたカーテンで中は見えず、コツコツと歩いてくる足音が聞こえた。
カーテンが開いて、驚いた麗奈さんが私を冷たく見つめた。
「あ、あの、……」
なんて言っていいのかわからず、しどろもどろになる。
「あ、あれ? 有紀ちゃんじゃない」
髪を短くカットされた谷さんが、私を見て微笑んだ。
「た、谷さん……」
変わらないその懐かしい笑顔に安心して、涙が溢れた。
谷さん、本当に大丈夫だったのね。
身動きもできず、その場に突っ立っていた。
「どうぞ」
麗奈さんが肘掛のついた椅子を、ベッドサイドに持ってきてくれた。
「あ、ありがとうございます」
特別室だけあって、バス、トイレはもちろん、小さなキッチンまでついている。
簡素な病院の個室というより、ホテルのような高級な内装になっている。
ソファー前のテーブルや、窓辺の棚にアレンジされた立派な生花がいくつも並べられていた。
オドオドとうつむきながら、谷さんのベッドに近づいた。
「有紀ちゃん、お見舞いに来てくれたのかい。大丈夫なの? ずいぶん痩せたんだね」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
谷さんに逆に心配までされて、涙が止まらなくなる。
「謝ることないよ。僕が無理に誘ったんだから。まさか、猫が飛び出してくるなんてね」
そんなことまでちゃんと覚えているなら、本当に軽傷だったのかも知れない。
「あ、あの、麗奈さん、謝って済むことじゃないですけど、本当にごめんなさい」
ソファに坐って神妙な顔をしていた麗奈さんにも、深々と頭を下げた。
麗奈さんは硬い表情で返事もなく、うつむいたままだ。
多分、土下座されたって許せないのだと思う。
結婚式を台無しにされ、夫となる人に大変な怪我を負わせたのだから。
「有紀ちゃん、安心して。僕は大丈夫だし、ちゃんと結婚もしたから。可愛いだろう、僕の奥さん」
「ご、ご結婚、おめでどうございます!」
うつむいていた麗奈さんは立ち上がると、
「ちょっとランドリーに洗濯物を取りに行ってきます」
そう言って、病室を出て行った。
気を利かせたのだろうか?
私とは同じ部屋にいたくなかったのかも知れない。
「谷さん、傷の具合はどう? まだ、すごく痛い?」
頭部の縫合した傷痕が痛々しくみえた。
「いや、もう抜糸も済んだし、そんなに痛くはないよ。あれ? 麗奈ちゃんはどこへ行ったんだろう?」
「ランドリーへ行くって、言ってましたよ」
「あ、そうか。そうだな。そういえば今頃の季節じゃなかったかい? 有紀ちゃんとフェルメールを観にいったのって。懐かしいなぁ」
「そんなことまでちゃんと覚えてるなら安心ね。谷さん、どうなっちゃうんだろうって、本当に心配だった」
記憶障害も麻痺もないし、不幸中の幸いと言えるのかもしれない。
「もう、普通に歩いてるし、痛むところもないから、多分来週には退院できると思う」
「もう退院できるの? 本当に良かった」
「早く仕事がしたいな。病人はもう飽きたよ。あれ? 麗奈ちゃんはどこに行ったのかな?」
病室をキョロキョロと見まわして、谷さんは不安そうな顔をした。
「だから、さっきランドリーに洗濯物を取りに行くって……」
「そうか……。あ、そういえば有紀ちゃんはどこも怪我しなかったのかい? 」
「うん、谷さんがハンドルを切ってくれたから、私は軽い打撲ですんだの。ありがとう。本当にごめんなさい」
谷さんの咄嗟の行動がなかったら、怪我をしていたのは私だったのだ。
「そうか、僕がハンドルを切ったのか。それは覚えてなかったな。あれ? 麗奈ちゃんはどこに行ったんだろう?」
「……谷さん?」
ほどなくして麗奈さんはたたんだ洗濯物を持って戻ってきた。
「麗奈ちゃん、どこへ行ってたんだい? 有紀ちゃんになにか食べさせてあげてよ。あの、ほら、あれがあっただろう。丸くて甘酸っぱいの」
谷さんは身ぶり手振りで麗奈さんになにかを伝えようとしている。
「あ、谷さん、何もいらないわ。そろそろ帰るわね。疲れても困るから」
「疲れてなんかいないよ。退屈でしょうがないんだ。まだ帰らないでよ」
麗奈さんが冷蔵庫からリンゴを取り出して、谷さんに見せた。
「これのこと?」
「違うって、、そんな大きいのじゃなくて、、ほら、」
うまく説明できないもどかしさで、イライラしているのが伝わった。
麗奈さんはラ・フランスを取りだす。
「丸いのって言っただろう!」
突然、目を吊り上げて谷さんが怒鳴った。
「…………」
決して、こんなことで怒鳴るような人ではなかった。怒ったところなど見たこともなかったのに。
谷さんのひどい物忘れと、おかしな言動が次第に明らかになる。
麗奈さんが手当たり次第、冷蔵庫の中のものを取り出した。
「あ、それだよ、それ」
谷さんが指さしたのはシャイン・マスカットだった。
「これって、皮ごと食べられて美味しいね。有紀ちゃんも食べて」
「谷さん、あ、ありがとう……」
麗奈さんが悲しそうな顔をして、出したフルーツを冷蔵庫へ戻した。
ーーもしかして高次脳機能障害?
脳卒中や交通事故などによる脳の損傷が原因で引き起こされる障害だ。
高次脳機能障害は外見からはわかりにくく、病院や診察室では気づかれずに、実際の生活や社会に戻って初めて問題が顕在化することが少なくない。
「見えない障害、隠れた障害」などとも言われる。
言語や記憶、注意、情緒といった認知機能に障害が起きる。注意が散漫になったり、怒りっぽくなる、などの症状があらわれる。
これでは職場復帰など、当分無理に違いない。
麗奈さんのショックを思うと、気の毒で仕方がなかった。
いつまで、こんな状態なのだろう。
正常に戻って働けるようになるだろうか。
谷さんがしっかりとした足取りで、出入り口までお見送りをしてくれた。
見た目はこんなに元気なのに……。
暗澹とした気持ちで、病室を後にした。
ナースステーションに寄り、看護師長と今後のことを話す。
主任として働いてもらいたいのは山々だけれど、無理なら外科病棟の看護師が不足しているから、そちらに移ってくれてもかまわないとのことだった。
脳外科に残っていても、谷さんはすぐに退院してしまうのだから、何もしてあげられない。師長の提案通り、外科に移らせてもらうことにした。
看護師長との話を終え、ナースステーションを出た。
エレベーターを待っていたら、「有紀ちゃん!」と声をかけられ、振り向くと、谷さんのお母様だった。
谷さんのお母様はいつまでも話していたくなるような大好きな女性だけれど、さすがに今は避けたい存在だった。
だけど声をかけられて無視など出来るわけもなく、うなだれたまま後ろをついて行った。
デイルームの椅子に腰をおろし、うつむいたまま押し黙る。
谷さんが順調に回復していたのであれば、もっと気持ちは楽だったと思う。
だけど、さっきのあんな谷さんを見たあとでは、顔を上げることなど出来なかった。
「修二に会ってきてくれたのね。喜んでいたでしょう。有紀ちゃんのことをとても心配していたから」
「私のせいで、あんな目に遭わせてしまって、本当になんてお詫びをすればいいのか……」
「でも、修二が無理に誘ったのでしょう。有紀ちゃんは何度も断ったって言ってたわ。突然猫が飛び出してきたんですってね」
「驚いてハンドルを離してしまって……谷さんがハンドルを切ってくれたから、私は助かったんですけど、そのせいであんな大変なことに……」
「そうだったのね。でも、麻痺も失語なかったし、思ってたよりはずっと軽傷ですんだから。あなたも辛かったでしょう」
「麗奈さんにも申し訳なくて、結婚披露宴を台無しにしてしまって……。麗奈さんからは忠告までされていたんです。結婚の邪魔をしないでって、それなのに……」
「麗奈ちゃんがそんなことを?」
「不安だったみたいです、、確かに私、以前に柳原亜美さんとの結婚を邪魔してしまったことがあって……」
お母様がクスクスと笑いだした。
「そういえばそんなことがあったわね。でも修二は今、麗奈さんに夢中なのよ。確かに事故に遭う前はずいぶん悩んでいたようで、私もこの結婚は間違っていたのかもしれないって、心配していたのだけれど」
「でも、さっき気づいたんですけど、谷さん、物忘れがひどいし、麗奈さんを怒鳴ったりして、」
さすがに笑顔だったお母様の顔が曇った。
「あんなに脳にダメージを受けたのだから、仕方がないわ。だけど、一生治らないわけでもないでしょう。気長に治療するしかないわね。麗奈さんには考え直すようには言ったのよ。彼女はまだ若いし、いくらでもいい縁談が舞い込む人なんですもの。だけど、彼女、私たちの言うこどなど聞こうともしないで……。修二に名前を書かせると、サッサと役所に婚姻届を提出してしまったの」
「優しい麗奈さんがついていてくれて良かったです。谷さんも麗奈ちゃん、麗奈ちゃんって、少しでも姿が見えなくなると不安みたいで、すっかり頼りきってるようでした。もうすぐ、退院されるそうですね?」
「え、ええ、、仲よく暮らしてくれるといいんだけど……」
やはり、お母様も心配なのだろう。あんなに穏やかな人柄だった息子の変化に……。
いつまでも実家に居座るわけにもいかず、かと言って、アパートへ帰る気持ちにはなれなかった。
この度の事故で、十分思い知らされたような気がする。もう遼介とはやっていけない、ということを。
離婚届……。
市役所でこの用紙をもらい、実際に手にすると、やはり迷いを感じた。
嫌いになっているわけでもない遼介と、なぜ別れなければいけないのだろう、とも思う。
確かに嫌いではない。だけど…………。
離婚届の用紙をトートバッグに入れ、通りがかった不動産屋に張り出されていた賃貸物件を眺めた。
今度住むとしたら、地下鉄の駅が病院にもアパートにも近いのはもちろんのこと、少し札幌駅に近い利便のいいところにしたい。
あまりにも近いと、遼介のところへ戻りたくなってしまいそうで。
これからはひとりの収入だから、家賃の高すぎるところは無理なのだけれど。
思いきって不動産屋の引き戸を開け、中へ入る。
「あの、1DKか1LDKの物件を探しているのですが」
デスクで書き物をしていたスーツ姿の中年男性が、営業スマイルを向けた。
手頃な物件が2ヶ所見つかり、早速勧められるままに見に行くことになった。
不動産屋さんの営業車に乗り、築5年のレディースマンションに案内される。
スーパーやコンビニも近くにあり、最寄り駅からは徒歩12分とやや遠いけれど、健康にはいいのかも知れない。
トイレと洗面台が間仕切りされているだけで、別々でないのが少し気になったが、掃除が楽でいいかもと思った。
白い壁と明るい白木のフローリングで南向き。2階のベランダからは公園が見えた。
あともう一軒見る予定があるけれど、ここでいいかもと思った。
遼介と部屋探しをしていた、あの頃を思い出す。本当に幸せだったとしみじみ思う。
2年後にひとりで部屋を探すなど思ってもみなかった……。
こうなってしまったことはとても残念だけど、後悔の気持ちは少しもない。
幸せだったときよりも、辛く寂しいことの方が長かった結婚生活だった。それでも遼介と結婚できて良かったと思える。
だけど、今はもうこの生活をずるずると続けたくはない。
別れた方がいい。どうしてって聞かれたら、うまく説明はできないけれど。
この決心はもう誰にも変えられない。
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