六華 snow crystal 5

なごみ

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第1章

夏帆との出会い

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*修二*


ついこの間、年が明けたばかりだというのに……。


いつの間にか雪もとけ、明るい春の日差しがまぶしい季節になっていた。


家に閉じこもってばかりいることにもさすがに飽きて、午前中はルパンと散歩をすることが日課になった。


働き盛りの若い者が、こんな真っ昼間に犬の散歩などしているのは、あまり体裁のよいことではない。


それでも春の陽気のせいか、鬱病のほうはかなり良くはなってきたように思う。


清々しい空気が気持ちよく、少し走ってみたい気持ちにもなっている。


引きこもっていたせいで、筋力や体力もかなり落ちてしまい、締まりのない身体になっている。


散歩以外にも、スポーツかランニングでも始めたほうがいいかもしれない。






公園でルパンを遊ばせ、桜の木の下のベンチに座った。


ぼんやりと林のほうを見つめ、今月から書き始めた長編の構想をアレコレと考えていた。



「こんにちは」


突然誰かに話しかけられて驚く。


見上げると、20代なのか30代なのか、年齢不詳の女性が微笑んで立っていた。


女性には特になんの興味もわかなかったが、リードに繋がれた真っ白なポメラニアンを見て、なんとも言えない気分になった。


「可愛いワンちゃんですね。お名前なんておっしゃるんですか?」


女性というのは何故こんなふうにためらいもなく、見ず知らずの人間に気安く話しかけたりできるのだろう。



「ルパンです」


正直そっとしておいて欲しかったので、素っ気なく答えた。



「あーっ、確かになんとなくルパン三世に似てますねっ。足くびの細いところとか。フフフッ!」


「…………」


「あ、ごめんなさい。お休み中に馴れ馴れしかったですね」


僕のノリの悪さに気づいたかのように、女性は顔をこわばらせた。







さすがに大人気ない失礼な態度をとったような気分になり、少し気持ちを切り替えた。



「そのポメラニアンはなんて言うんですか?」


リードに繋がれたまま、クルクルとせわしなく動きまわるポメラニアンを見つめた。


「この子は雪って言うんですよ。真っ白だから」



「ゆ、き……」



亡くなった不二子と同じポメラニアン。


名前は……ゆき。



「ちょっと抱かせてもらえないかな?  嫌がるかな?」


「大丈夫だと思いますよ。人懐っこい子ですから」


彼女は雪を抱きあげて、僕の膝の上に乗せてくれた。



……不二子。


思わず抱きしめ、その真っ白な毛に顔をうずめた。







「クスッ、本当にワンちゃんが大好きなんですね。私もトイプードル好きなんですよ。雪ちゃんのお友達にもう1匹欲しいわ、ルパン君みたいなの」


コロコロと屈託のない彼女は、なんとなく有紀ちゃんと雰囲気が似ている。


顔はちっとも似ていないけれど。


好感が持てるからといってもタイプなわけではないし、病みあがりの今はとてもそんな気分にはなれない。


彼女はどんなつもりで、僕に接近してきたのか。


特に下心があるわけではなく、そのときを楽しむために、いつでも誰にでも話しかけるタイプのような気もする。



…………考えすぎだ。


ポメラニアンの雪はジッとしていないので、下へおろしてあげた。



「ありがとう。実は去年これと同じポメラニアンに死なれてしまって。そ、それで、つい……」


「まぁ、そうだったんですか。お気の毒に……ご病気で?」



「い、いや、ちょっと怪我をさせてしまって……。じ、じゃあ、そろそろ帰らないと。ルパン、行くよ」



慌ててベンチから立ち上がった。






「あの、、明日もここへ来られます? 」


女性は真っすぐに僕を見つめて微笑んだ。


「…たぶん。日課だから」


ママ友などを求めるのと同じ感覚で、犬好きの仲間が欲しいのだろうか。


専業主婦なのかも知れない。


とびきりの美人というわけではないけれど、特徴のない整った顔だちをしている。


素顔だけれど、だらしなさは感じられない。


ストレートのセミロングもきちんと手入れの行き届いた清潔感が漂っていた。


あれでメイクをしていたら、なかなかの美人だったかも知れない。


こんな昼間から暇しているくらいだから、退屈でしかたのない有閑マダムといったところだろう。


あまり近づきたくない気もしたけれど、雪という名のポメラニアンに、なんともいえない縁を感じた。









翌日も同じ時間にルパンといつものコースを散歩したあと公園へ寄った。


やはりポメラニアンを連れた女性がいて、僕とルパンに気づくと軽く会釈をした。


「よかった、またルパンくんに会えて嬉しいね、雪」


彼女は僕のそばまでやって来ると、ルパンを見つめて微笑んだ。


月曜の平日ということもあってか、向こうの遊具や砂場がある場所には10名ほどの親子連れがいた。


僕がベンチに腰を下ろすと、少し離れて彼女も座った。


ルパンもポメラニアンの雪も疲れたのか、おとなしく地面にお座りをした。


「いいお天気でよかったぁ。空気も美味しくて幸せ~~!」


彼女は両腕を広げると、大きく深呼吸をした。


その動作は不自然には見えなかったが、随分と大袈裟に感じられた。


まるで、生きていること自体に喜びを感じているかのようで。


「あ、あの、お名前うかがってもいいですか?」


少しはにかみながら彼女は僕を見つめた。


「谷 修二。君は?」






「中山夏帆です。季節の夏に帆掛け船の帆と書いて、かほ」


「そうか、じゃあ君は夏に生まれたのかい?」


「ええ、誕生日は7月です。今年で28歳になります」


屈託のない笑顔を彼女は僕に向けた。


なんのためらいもなく年齢を明かすところに少し好感が持てた。


まだ28歳なら偽りたくなるほどの年齢でもないか。


「女性はあまり齢のことを言わないものだけれど、君は気にしないんだな。まぁ、28歳ならまだ若いけどね」


「……齢をとるのが嬉しいんですよ、わたし」


ジッと見つめながらそう語る彼女の熱い視線に戸惑う。


「それはまたどうしてだい? 子供でもないのに齢をとるのが嬉しいだなんて珍しいな」


僕の質問に彼女は少しだけ顔を曇らせた。


「……会ったばかりの人に、こんなこと言ったら引かれちゃうかもしれないんですけど、わたし……余命宣告されているんです。3年前に乳癌やっちゃって、右のほう全摘されてます」



「…………」


「ご、ごめんなさい。こんなこと言って」


彼女のほうがうろたえて僕を気遣った。


「あ、いや、なんて言ったらいいのかな」



なんとも言えない重苦しい空気が漂う。







「だから、、だから毎日がとっても楽しくて。貴重な時間だから楽しく過ごさないともったいないでしょう。それで昨日、思いきって声をかけてみたんですよ。お友達になりたいと思って。びっくりなさったでしょう?」


「そうか、てっきり大阪のおばちゃんタイプなのかと思ってたよ」


「ふふっ、人間って変わるものですね。病気になってなかったら、自分から男性に声をかけるなんてこと出来なかったと思います。ひどく内気で、それが当たり前だったから」


はにかんだように彼女は本来の性格を垣間みせた。



彼女と僕は真逆の状況に置かれている。


僕は生きる希望と気力を失っていた。


あまりに救いがたい過去の記憶を抹消したくて。


そんな僕が、死の恐怖と戦っている彼女を勇気づけることなど出来るわけもないけれど。


「今してみたい楽しいことって、どんなことかな?」


こんな僕にでも出来ることがあれば、協力してあげたいとは思うけれど。



「それは、、やっぱり、……恋愛です」



元々は内気だと言っていた夏帆さんは、耳たぶまで赤く染めて僕を見つめた。



「……彼氏はいないのかい?」


「え、ええ、残念ながら。でも別に片思いでいいんです。好きな人がいるって素敵なことだわ。ドキドキするようなことなんて、日常ではなかなか見つけられませんから」



ほおを染め、うつむいている彼女はすでに恋に落ちていた。


そして、その相手はあきらかに僕だった。



「谷さんは恋人がいらっしゃるのでしょう?  もしかして結婚なさってます?」


なんと答えてよいものか返答につまる。


今の僕に夏帆さんは荷が重過ぎる。


いくら余命宣告をされているからといって、ヘタな同情などは失礼というものだろう。


だけど、彼女はひかえめに片思いでいいと言った。ドキドキできるような事があるだけで、幸せだと。


今の彼女から、そんなささやかな楽しみまで奪ってしまうというのも、ひどく心苦しく感じられた。



だけど……。







「僕は去年離婚したばかりなんだ。恥ずかしい話だけれど奥方に逃げられてしまってね。交通事故の後遺症で頭がイカレてしまっているものだから」


夢をこわすようで申し訳なかったが、あきらめてもらったほうがいい。



「そうでしたか。なんとなく寂しげに見えたのは、そのせいだったんですね。わたしと同じ空気を漂わせているなぁと感じてはいました」



彼女は同情とも憐れみともつかないような目で、僕を見つめた。


同じ空気を漂わせて……。


夏帆さんと同じ空気。


それは迫りくる死への恐怖か。


それとも……絶望。




「じゃあ、今日はこれで。さぁ、ルパン帰ろうか」


気まずさに耐えきれず、ベンチから立ち上がった。


「あ、あの、明日も来られます?  明日も話しかけていいですか?」


切羽詰まったような目を向けた彼女に、突き放すようなことは言えなかった。



「ルパンの散歩コースだから寄ると思うよ。じゃあ、また」


「ありがとうございます!  じゃあ、また明日」


うるんだ目で見つめられ、複雑な心境になる。


なぜ断らなかったのか。


彼女を失望させてしまうことは、目に見えているというのに。



別に告白されたわけでもない。


友達として話をするくらいなら、特に問題はないだろう。



彼女もそれ以上のことを僕に、望むわけではないのだから。





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