王太子殿下に触れた夜、月影のように想いは沈む

木風

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第一話「月影の夜に堕ちた、ひとつの罪」

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第一印象は、面白みのない男だな。
それだけだった。

公爵家の三男として、幼少期から何度か顔を合わせてきた王太子。
高貴すぎる血筋に、冷たい印象しか抱いていなかった。
だが我が家は、この国で王家に次ぐ地位を持つ。
上の兄に続き、十三歳で王立学園へ入学した日、父に言われるまま、兄弟三人と共に王太子と初めて対等に対面した。

漆黒の髪が日を受け、淡く紫に光る。
その姿を見た瞬間、兄が以前言っていた言葉を思い出した。

「王太子が入学すると決まっただけで、学園中の女生徒が浮き立ったらしいぞ」

だが、男四人で話すことなどあるはずもない。
沈黙を破ったのは、いつだって我が兄だ。

「そういえば、以前お会いした時、ずっと妹の手を握っていましたよね」

雑すぎる。
これが身分差が厳格な場であれば、首が飛んでいたかもしれない。

「もう五年も前か。あの時のことが印象的で……」

その言葉の後、兄弟三人で同時に固まった。

「……っ」
「「「え?」」」

頬を赤らめて視線を逸らす。
五年前、妹はまだ四歳。あれ以来、一度も会っていないはずだ。
まさか、ずっと妹を?

高貴で完璧な王太子が、そんな少年のような表情を見せた瞬間、俺の中で遠い存在だった彼が、初めて現実に降りてきた。
その顔が、妙に焼きついた。

それからの学園生活は、予想外に穏やかで、眩しかった。
王太子と兄たちと過ごす日々。
教室でも寮でも、四六時中顔を合わせる。
身分差の壁もいつの間にか薄れていき、お互いを名で呼び、時には殴り合い、時には仲裁し合った。
こっそり四人で街へ抜け出したこともある。
夜の屋台で焼き菓子を分け合い、誰も自分たちの身分を知らない場所で笑い合ったあの夜の空気は、今も胸の奥で温かく灯っている。
そのどれもが、少年の日々の眩しい記憶になった。

ただ、ひとつだけ気になっていた。
王太子が、誰一人として女生徒を側に寄せつけないこと。
まるで俺たちを盾にして、誰にも近づかせないようにしているようだった。

婚約者のいない王太子。
俺たちを利用して近づこうとする女生徒は少なくなかったが、なぜか、俺は一度も協力する気になれなかった。
彼が俺たちだけを傍に置いてくれることが、妙に心地よかったからだ。
それが忠誠か友情か、それとも別のものなのか、その頃の俺にはまだわからなかった。

王太子が他の女生徒に目もくれない理由。
その本当の理由を知ったのは、四年後だった。

一番上の兄の卒業と入れ替わるように、妹が入学した。

「お兄様。ごきげんよう」

陽の光を受けて金糸がきらめく髪。
妹を見かけた瞬間、王太子の瞳が揺れた。
他で見せる表情とも、俺たちに見せる表情とも違う。
押し殺したような息づかい。
その奥に潜む熱を、俺は見逃さなかった。

上階の廊下から、妹とその婚約者の姿を見下ろす。
月明かりが差し込む窓辺で、王太子は静かに目を細めた。
その瞳は、誰よりも優しく、そして痛いほど切なかった。
愁いを帯びているのに熱を持っている。
息が詰まる。
見惚れてはいけないのに、目が離せなかった。

胸の奥に、何かが落ちた気がした。
その表情に見惚れる女生徒と自分が持つ感情。
気づかないふりをした。
してはいけない気がして。
けれど、もう手遅れだった。

その冬、聖夜祭の鐘が鳴った。
香の煙、遠くの笑い声、雪。
街中が祝福に染まる中、王太子殿下は火を見つめながら呟いた。

「……外は、綺麗なんだろうな」

火の色が瞳の奥に映って、赤く溶けていく。
けれどその輝きの奥に、深い孤独が潜んでいるのを俺は知っていた。

「今からでも行くか?」
「いや……行きたくない」

聖夜祭に行けば嫌でも妹と婚約者の姿が目に入る。
妹の性格だ。踊るのは婚約者と俺たち兄弟くらいだろう。
決して王太子の手は取らない。それを知っているから行きたくないのだろう。
その一言で、俺の夜も決まった。

「俺も付き合うよ」

二人きりの部屋。
紅茶の香りが消え、暖炉の火の匂いが満ちていく。
窓の外では雪が舞い、ゆらぐ光が床に二人の影を落とした。
火の赤が髪に反射し、彼の横顔に金の縁を描く。
その美しさに、息が止まる。
言葉を交わせば、心の奥まで踏み込んでしまいそうで、言葉を飲み込むたびに喉が痛んだ。

他愛のない会話の中に、時折、妹の名が出る。
婚約者の話には触れないように。
沈黙が落ちるたびに、火の音がやけに大きく聞こえた。
その沈黙が、やけに優しく、そして残酷だった。

長椅子にもたれた王太子が、まぶたを閉じた。
睫毛の影が頬をかすめ、唇がわずかに動く。
眠りへ沈んでいく彼の呼吸が、火の揺らぎと同じ速さで上下している。
その呼吸音が、夜の鼓動と重なっていく。
冬の静寂に包まれ、世界に俺たちしかいない錯覚を覚えた。

この人は、妹を想っている。
それはもう痛いほどわかっている。
それでも、その唇から妹の名がこぼれるたび、胸の奥の氷が音を立てて割れていく。

毛布を手に取り、そっと肩に掛けようとする。
なのに、指先が止まった。
火の光が喉元を照らし、その鼓動の影まで見える。
眠りに沈む体から、かすかな体温が滲んでいた。
その温度が、指先にまで伝わる気がした。
触れたら、壊れる。
それくらいわかっているのに。

毛布が滑り落ち、指が頬に触れそうになる。
距離は指先ひとつ。
ほんの少し顔を傾けたら、唇が触れてしまう。
心臓の音が、炎のはぜる音に混じった。

「……ーーー……」

名を呼ぶ声が、思ったよりも掠れていた。
返事はない。
けれど、彼の唇がかすかに動く。
その吐息が、頬をかすめた。
世界が止まった。
このまま落ちていけば、何もかも失う。
それでも、止められなかった。

あと一瞬、そう思ってしまった。

唇が触れる前に、我に返る。

「……俺はいったい何を……」

男として抱いてはいけない想いが、喉の奥を焦がした。
この感情に名をつけた瞬間、二度と戻れなくなる気がした。

指先をぎゅっと握りしめ、毛布を握り直した。
息を整え、鼓動を押し殺すように深く息を吐く。
彼は静かに眠っている。
眠りながら、妹の名を呼んだ。

その名が、刃のように美しかった。
痛いほどに、やさしかった。

火が小さくなり、部屋が夜に沈む。
雪が降り出した。
音もなく、窓の外を白で埋めていく。
風が一度だけ吹き込み、火が小さく揺れた。
その瞬間、机の上の燭台の影が壁に映り、
まるで月影が揺らぐように、二人の影を包み込んだ。

立ち上がり、指先に残る温もりを見つめた。
触れてはいない。
けれど、触れたのと同じくらい、罪だった。

血が沸き立つのを感じた。
それは恋の熱か、後悔の熱か。
美しくて、醜い。
もう自分でもわからなかった。

窓の外に月が滲む。
雪に反射して淡く光るその輪郭が、あまりにも儚い。
この夜から、恋を知ってしまった。
赦されぬ、冬の月影の下で。

朝の光が、白い。
昨夜の雪はまだ屋根に残り、窓辺の氷柱が朝日に透けていた。
冷たい光がカーテンを抜けて、床に淡い影を落とす。
聖夜祭の夜から一晩しか経っていないのに、まるで季節が変わったように感じた。

暖炉の火は消え、部屋には火の匂いだけが残っている。
焦げた薪と紅茶の香が混ざり合い、まだ昨夜の熱を思い出させた。
まぶたの裏に、炎の揺らぎと彼の寝顔が焼きついて離れない。
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